ひとり気ままに

バツイチ女のひとりごと。離婚した人も、離婚を考えている人も、そしてこれから結婚する人も、「気ままな話」を聞いてください。

高野山旅行記3/20(金) ②

2009-05-04 20:12:25 | 旅行記
17町石の一の橋まではすぐだった。
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この先に、弘法大師(空海)の御廟がある。
この橋の正式名は「大渡橋」と言うのだが、浄域への入り口なので、一の橋と言うそうだ。
杉の木々が並び、神秘さを感じる。

一の橋から御廟までの1.9kmは、20万基をこえる各時代のあやゆる人の供養塔が立っている。
全国の大名、武将、戦争、震災、企業と多くの供養塔がある。
高野山の奥の院は、日本第一の死者供養の霊場である。

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古いものは、苔むして、崩れかかっているものもある。
大きな大名家では、鳥居もあり立派な供養塔になっている。
私の感覚では、お墓に鳥居ってミスマッチ。
しかし、ここは供養塔であって、お墓ではない。
宗教もいとわないこの場所では、鳥居は結界をはるためのものなのだろうか?

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供養塔は町石と同じように、五輪塔になっており、上から宝珠、半月、笠、円、方形をかたどっている。
これは、仏教で宇宙を形成する物質は、空、風、火、水、地の五つの要素からなる。と解かれていることから、それをかたちどっており、それぞれの部分に梵字(サンスクリット文字)が刻まれている。

有名な武将の供養塔がたくさんある。日本史に弱い私でも、知っている人ばかりだ。
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これは武田信玄とその子勝頼の墓碑である。

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これは重文になっている、上杉謙信、景勝の霊屋。
どの供養塔の前にも、誰のものか表記してあるのでわかりやすい。

26町石を過ぎると、中の橋がある。
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小雨になってきた。すれ違う人も増えてきた。
霧なのか、朝もやなのか、高野山自体清々しい空気の場所であるが、雨のおかげで、一掃の清々しさを感じる。
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少し山側に、ここで一番大きな供養塔があった。一番石と呼ばれている。
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正式には「崇源院供養塔」と言う。
高さ6.6m、台石の大きさは八畳敷、完成までに3年を要した。
この塔は、徳川二代将軍秀忠の次男、駿河大納言忠長が母堂(淀君の妹)追善のために建立したものだ。
駿河大納言?徳川家の人は家康しかわからない。しかし、駿河とつくのだから、今の静岡の人に違いない。
なんとなく近親間。
しかし、こんな大きな石を、この高野山の山の上に運んだのは、なき人を供養するとともに、権力を示したかったに違いない。
上の人々はいいけれど、このために税を多く払った人がいて、このために辛い仕事をした人々がいる。
その人々の思いのほうを強く感じる。

34町石を過ぎると、御廟橋に着いた。
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ここから先は撮影禁止。大師廟の霊域に入るからだ。
この橋の板石は36枚で、橋全体を1尊として、金剛界37尊を表している。
もちろん町石も、大師御廟をあわせて37の金剛界を表している。
この橋を渡ると、仏の浄土に住くと信じられている。
また、罪や煩悩が除かれるというので、無明の橋とも呼ばれたそうだ。

御廟までにも、、いくつもの供養塔などがある。
その中に昔、兜率天から落ちてきたという「みろく石」があった。
この石は、罪の浅い人は軽く、重い人には重く感じられるという。
私は、重くて持ち上げられないといけないので、持つことはしなかった。

階段を登り、ここが御廟かとおもえば、ここは「燈籠堂」だった。
ここには、1000年近く燃え続けている二つの「消えずの火」がある。
本来は拝堂であるが、参拝者が先祖供養や家内安全を祈って、燈籠を奉納し、堂内が燈籠でいっぱいになったので、燈籠堂と呼ばれているらしい。

燈籠堂の奥に弘法大師御廟はあった。
835年3月21日寅の刻、大師は御年62歳でご入定した。
それから1174年、大師はここで生き続けている。
ろうそくに火を灯し、お線香を焚いた。
大師の前で手を合わせる。
ここでは、私だけの平和を祈る気が起こらない。
すべての人が幸せになりますように。そんな気持ちにさせられる。

手を合わせていると、雲間から太陽の光が差込み、周りが明るくなった。
それは、大師が「よくいらっしゃいました」と言っているように感じた。
とても清々しく、清らかな場所。
いつまでも手を合わせていたい。そんな場所である。







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