遅まきながら、最近、茶道には4時間のルールがあることを知りました。
正確には、茶事は4時間を目途に行うということです。
茶事というのは、本来の正式な茶会のことです。
私も一度だけ経験しました。⇒ここ
茶事はお料理をいただいたり、濃茶と薄茶をいただいたり、結構色んなことをします。
それに掛かる時間が4時間程度ということらしいです。
そこから敷衍させて、人の家に招かれた場合、滞在時間は4時間を目途に帰るべしということみたいです。
もちろん、行った先で何かの作業があるような場合は別です。
私がそれを知ったのはたまたま家にあった本「百の手すさび」で、です。
この本、他のお茶関係の本と一緒に紐でくくられて家のベランダに置かれていました。
紙資源のゴミの日に出すためです。
本は4、5冊ありました。その内の2冊。
正確にいうと、この本は滋賀県にある美術館、ミホミュージアムで行われた展覧会のカタログです。
私の兄はミホミュージアム友の会の会員で、展示が変わるごとにカタログが送られてきます。
そのカタログが毎回分厚くて重いし邪魔なので一括して捨てようと思ったらしいのです。
チラと見て、お茶関係の本だと分かったので私が貰いました。
カタログと言うとつまらなさそうですが、実際には出展された茶杓の写真だけでなく、色々論考も掲載されていて、読んでも面白いものでした。
その内の一つ、コラムに書かれていたのが「茶是常識」でした。
このコラムの内容は要約すると、益田鈍翁が茶の湯に出会って、そこから生活態度を学んだというようなこと。
この益田鈍翁というのは、本名は益田孝、三井財閥の基礎を築いた実業家で、同時に高名な数寄者、つまり茶の湯好きな人です。
(2019年京都国立博物館で展覧会があった佐竹本三十六歌仙絵巻を、1919年に37分割する音頭を取った人としても有名)
彼は1848年に生まれて1938年(昭和13年)に91歳で亡くなっています。
当時としては長生きだったのですが、元々は体の弱い人だったらしいのです。
その彼が30代で茶道と出会い、生活態度を茶の湯の決まりに則って健康を維持したらしいのです。
その一つが一汁三菜の食生活。
そもそも彼は茶事以外の会食の場には行かなかったようです。
茶の湯は禅の教えが基礎にあるので、食事もとても質素なものなんです。
それが良かったと彼は言っているわけです。
ただ、実際の茶事の懐石は質素とは言えないように私には思えます。
基本となっている一汁三菜自体、結構おかずが多いと思います。(そこに香の物はカウントしないのが通例)
栄養バランスも良くて現代でも推奨ものです。
私が子供の頃の家の食事は、言葉の正しい意味で質素で、量に不足はないものの、汁物がないことも多く、ご飯+二菜くらいでした。
それを考えると贅沢なのです。
まして明治大正の頃の財界人が催す茶事の懐石は、亭主のおもてなしの気持ちの表れか、フランス料理風にアレンジしたもの等工夫が凝らされていたみたいです。
はっきり言って物凄く贅沢なものだったでしょう。
ただ、さすがに茶事では、一つ一つの料理の量も上品に抑えられて、あっさりとしていた筈です。
彼は財界人でしたので、酒宴にでも招かれればご馳走攻めだったと思います。
彼はお酒は飲めなかったので食べる一方になり、それは避けたのだと思います。
ちなみに茶事ではお酒も出ますが、料理にはお酒の肴の意味はなく、だから最初からご飯も出てきます。
茶事の料理はあくまでお茶を美味しく飲むためのものなんです。
やたらめったらお酒を飲まないだけでも健康には良い筈です。
もう一つ、『これは 』と私が思ったのが冒頭の4時間ルールです。
茶事とは関係なく、長っ尻というのか、人の家によばれて、なかなか帰らない人がいます。
5時間でも10時間でも、それこそ日が暮れても、寝ないでも、人の家でおしゃべりしたい人というのがいるのです。
招いた方は「帰って下さい」とは言えません。(内心、二度と招くもんかとは思いますが)
そこで、滞在は4時間と決めていたなら、招く方も招かれた方も本当に助かります。
それを常識とするということらしいです。
そういうわけかどうか、益田鈍翁は「茶是常識」という言葉を好んだみたいです。
実際それが心身に優しかったのだと思います。
正直、人との長時間の交流が苦手の私にも大賛成の常識です。
よんだりよばれたりの人との交流は、ご馳走と同じで、4時間程度の短時間だからこそ意味があると思うのです。
ところが益田鈍翁のエピソードを読んでいると、常識的とは思えないことも書かれています。
若かりし頃、彼がまだ茶道に興味がなかった頃の話です。
知人の家に行くと、羊羹が置いてあったそうです。
甘い物に目がなかった彼はそれを食べる為に近くにあった茶杓で羊羹を切り、パクついていたそうです。
それを見つけた知人の茶道の師匠から大目玉を食らったという話です。
幾ら甘い物が好きだからといって、知人の家の羊羹を許可なく勝手に食べるかなって思います。
しかも茶杓で切るって・・・・💦
後に大茶人と呼ばれることになる益田鈍翁らしいお話です。
正確には、茶事は4時間を目途に行うということです。
茶事というのは、本来の正式な茶会のことです。
私も一度だけ経験しました。⇒ここ
茶事はお料理をいただいたり、濃茶と薄茶をいただいたり、結構色んなことをします。
それに掛かる時間が4時間程度ということらしいです。
そこから敷衍させて、人の家に招かれた場合、滞在時間は4時間を目途に帰るべしということみたいです。
もちろん、行った先で何かの作業があるような場合は別です。
私がそれを知ったのはたまたま家にあった本「百の手すさび」で、です。
この本、他のお茶関係の本と一緒に紐でくくられて家のベランダに置かれていました。
紙資源のゴミの日に出すためです。
本は4、5冊ありました。その内の2冊。
正確にいうと、この本は滋賀県にある美術館、ミホミュージアムで行われた展覧会のカタログです。
私の兄はミホミュージアム友の会の会員で、展示が変わるごとにカタログが送られてきます。
そのカタログが毎回分厚くて重いし邪魔なので一括して捨てようと思ったらしいのです。
チラと見て、お茶関係の本だと分かったので私が貰いました。
カタログと言うとつまらなさそうですが、実際には出展された茶杓の写真だけでなく、色々論考も掲載されていて、読んでも面白いものでした。
その内の一つ、コラムに書かれていたのが「茶是常識」でした。
このコラムの内容は要約すると、益田鈍翁が茶の湯に出会って、そこから生活態度を学んだというようなこと。
この益田鈍翁というのは、本名は益田孝、三井財閥の基礎を築いた実業家で、同時に高名な数寄者、つまり茶の湯好きな人です。
(2019年京都国立博物館で展覧会があった佐竹本三十六歌仙絵巻を、1919年に37分割する音頭を取った人としても有名)
彼は1848年に生まれて1938年(昭和13年)に91歳で亡くなっています。
当時としては長生きだったのですが、元々は体の弱い人だったらしいのです。
その彼が30代で茶道と出会い、生活態度を茶の湯の決まりに則って健康を維持したらしいのです。
その一つが一汁三菜の食生活。
そもそも彼は茶事以外の会食の場には行かなかったようです。
茶の湯は禅の教えが基礎にあるので、食事もとても質素なものなんです。
それが良かったと彼は言っているわけです。
ただ、実際の茶事の懐石は質素とは言えないように私には思えます。
基本となっている一汁三菜自体、結構おかずが多いと思います。(そこに香の物はカウントしないのが通例)
栄養バランスも良くて現代でも推奨ものです。
私が子供の頃の家の食事は、言葉の正しい意味で質素で、量に不足はないものの、汁物がないことも多く、ご飯+二菜くらいでした。
それを考えると贅沢なのです。
まして明治大正の頃の財界人が催す茶事の懐石は、亭主のおもてなしの気持ちの表れか、フランス料理風にアレンジしたもの等工夫が凝らされていたみたいです。
はっきり言って物凄く贅沢なものだったでしょう。
ただ、さすがに茶事では、一つ一つの料理の量も上品に抑えられて、あっさりとしていた筈です。
彼は財界人でしたので、酒宴にでも招かれればご馳走攻めだったと思います。
彼はお酒は飲めなかったので食べる一方になり、それは避けたのだと思います。
ちなみに茶事ではお酒も出ますが、料理にはお酒の肴の意味はなく、だから最初からご飯も出てきます。
茶事の料理はあくまでお茶を美味しく飲むためのものなんです。
やたらめったらお酒を飲まないだけでも健康には良い筈です。
もう一つ、『これは 』と私が思ったのが冒頭の4時間ルールです。
茶事とは関係なく、長っ尻というのか、人の家によばれて、なかなか帰らない人がいます。
5時間でも10時間でも、それこそ日が暮れても、寝ないでも、人の家でおしゃべりしたい人というのがいるのです。
招いた方は「帰って下さい」とは言えません。(内心、二度と招くもんかとは思いますが)
そこで、滞在は4時間と決めていたなら、招く方も招かれた方も本当に助かります。
それを常識とするということらしいです。
そういうわけかどうか、益田鈍翁は「茶是常識」という言葉を好んだみたいです。
実際それが心身に優しかったのだと思います。
正直、人との長時間の交流が苦手の私にも大賛成の常識です。
よんだりよばれたりの人との交流は、ご馳走と同じで、4時間程度の短時間だからこそ意味があると思うのです。
ところが益田鈍翁のエピソードを読んでいると、常識的とは思えないことも書かれています。
若かりし頃、彼がまだ茶道に興味がなかった頃の話です。
知人の家に行くと、羊羹が置いてあったそうです。
甘い物に目がなかった彼はそれを食べる為に近くにあった茶杓で羊羹を切り、パクついていたそうです。
それを見つけた知人の茶道の師匠から大目玉を食らったという話です。
幾ら甘い物が好きだからといって、知人の家の羊羹を許可なく勝手に食べるかなって思います。
しかも茶杓で切るって・・・・💦
後に大茶人と呼ばれることになる益田鈍翁らしいお話です。
茶人に好まれるという侘助の花です。