スポーツ観戦にあまり興味のない私にとっては、オリンピックがやっと終わってくれましたって感じです(笑)。
ホッとしたと思ったら今度は高校野球。
そして、気が付けば医療崩壊寸前。
オリンピックの話題として興味深かったのは、今回のオリンピックでLGBTという言葉や存在がよく聞かれたこと。
それで思い出したのがイギリスの推理小説家、アガサ・クリスティーのことでした。
といってもアガサ・クリスティーがLGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)の内の何かだったというのではないです。
彼女の作品のことです。
アガサ・クリスティーの小説が、推理小説として世界でも超一級で、すこぶるつきに面白いということは推理小説ファンなら誰でも知っていることだと思います。
ですがここで私が言いたいのは、そういう推理小説としてのアイデアやトリックの話ではなく、アガサ・クリスティーの固定観念や既成概念にとらわれない、むしろそれを覆して利用する発想です。
たとえばアガサ・クリスティーの推理小説の探偵役として有名なのはエルキュール・ポワロとミス・マープル。
両者とも社会の中心にいる人物ではなく周縁に位置している人物です。
例えばポワロはベルギー人という設定です。
イギリス社会だけではなく、外国人はどの国でも不審者として見られがちです。
ポアロは外国人というだけでなく、常にお洒落に気を遣っていて、殆どキザなのに全然カッコよくなく、見た目は滑稽、要するに胡散臭い人物。なのに内実は名探偵というキャラ。
逆にクリスティの作品を読んでいると、犯人の傾向として、それこそ社会の中心にいて欲しいような好感の持てるイケメン男性の場合が多いのです。
この場合、読み手もまた犯人に自然な感じで好感を抱いてしまうところがクリスティの作家として凄いところ。
外国人に話を戻すと、クリスティの推理小説の中でも登場人物の一人が「私は外国人だから、それだけで犯人だと思われてしまう」と話す場面があるのですが、最終的にその人物が犯人でした。
(犯人にそういうセリフを言わせることで、読み手はその人物を犯人候補から外してしまうのですが。)
もちろん、その人物が犯人なのは外国人であることと何の関係もありません。
そんな風にクリスティの作品は巧みに人の先入観や既成概念を利用しつつ壊しています。
ここでクリスティファンにクイズを一つ。
上記 👆 の作品は何でしょう。
ヒントは、あとがきによれば、原題が日本語でいう“くがたち”だそうです。
くがたちとは、古代の裁判で行われていた無罪の人間が自分の無罪を証明する方法ですね。
疑われた人間は熱湯の中に手を入れて、火傷しなければ無罪、火傷したら有罪なわけです。
私は、くがたちは日本の古代だけで行われていたと思っていたのですが、ヨーロッパでも同様のことが行われていて、当然、その英語もあるんだそうです。
もう一人のミス・マープルはいわゆるオールドミスです。
欧米社会の古い価値観での女性の暗黙の序列では、オールドミスは底辺近くに位置付けられてきたそうです。(ミス・マープルものが出版された年代を考えるとオールドミスを蔑む眼差しは社会にまだ強く残っていた筈)
そのような女性を名探偵に位置付けただけでもクリスティは画期的です。
なかでも面白いのはミス・マープルと甥であるレイモンドとの関係です。
手元に本がないので記憶だけで書きますが、レイモンドは確かオックスフォード大学かケンブリッジ大学の出身で、要するにイギリス社会の中ではハイクラスの知識人という設定。
その意識も今でいうリベラルです。
さらに言うと叔母であるミス・マープルに対しても申し分なく愛情深くて絵にかいたような善良な人物です。
ただレイモンドは、自分では進歩的で、既成概念で物事を見ていないと思っているらしいのですが、それが見せかけであることがミス・マープルとのやり取りで読者には明らかにされてしまいます。
たとえばオールドミスであるミス・マープルのことを、同情すべき老人で、古い道徳観に縛られており、性に対して抑圧なビクトリア朝時代の生き残り、当然のように性的なことは何も知らず、その意識も古臭いと思い込んでいること。
中でも1964年に発表された「カリブ海の秘密」の冒頭では、その意識のすれ違いが極端なまでに描かれています。
その作品では、レイモンドは肺炎を患ったミス・マープルにカリブ海で療養するよう計らいます。
(それだけでもレイモンドがどれほど叔母さん思いなのか分かるのですが。)
ミス・マープルはロンドン近郊の農村セント・メアリ・ミードに一人で住んでおり、レイモンドはその村の生活が牧歌的だと思っています。
ですがミス・マープルはお得意の観察力と情報収集力で、その村の住人達が、罪のないものから犯罪的なものまで、都会の知識人であるレイモンドが見たことも聞いたこともないような性的な生活を楽しんでいることを知っているのでした。
むろん、そのことはビクトリア朝の慎み深さから、というより大人の常識で口にだすようなことはしません。
一方レイモンドはミス・マープルが安心してカリブ海に療養に行けるように、ミス・マープルが不在の間、信頼できる友人にミス・マープルの家に住んでもらうことにしているのですが、その友人がクィア(queer )であることは言いません。
クィアというのは、本来の“風変わりな”とか“奇妙な”という意味を離れて、当時のイギリスではおおむね同性愛者を指していました。(注、蔑称です)
そして友人が同性愛者であることをレイモンドが黙っているのは、ビクトリア朝の価値観を生きている(と自分が思いこんでいる)ミス・マープルにそんなことを言ってパニックでも起こされたくないからです。
この2人の意識のすれ違いの凄さ!!
そして、ここで使われたqueerのQこそLGBTQの最後のQの内の一つです。
(LGBTQのQには2つの意味があるのですが、詳しいことは⇒ここ)
私は「カリブ海の秘密」をずいぶん昔に読んだのですが、当時もその冒頭の部分にはちょっとびっくりでした。
ミス・マープルが知っているという村人達の性的な楽しみ・多様性は今のLGBTQのqueerに通底しているわけで、イギリスの田舎ってどんなんやーと思ってしまいます
「カリブ海の秘密」自体は本格ミステリーで冒頭の部分は枕でしかなく、本筋とは関係がない話です。
本筋とは関係ないのに、クリスティがそういったやり取りを書かずにいられなかったのは、もちろんLGBTQにクリスティが今風の理解を持っていたからではなく、当時のイギリスの知識人達に何らかの思うところがあったのではないかと推測します。
意識の上では善良であっても自分達以外の人々を何も知らないし分かっていないと思い込んでいる人達、そういう人達をミス・マープルを通して皮肉ってみたのかもしれないです。
日本でもそういうタイプのリベラルな知識人がいますから。
「カリブ海の秘密」は映像化も幾つか行われていますが、冒頭のやり取りが描かれているかどうかは私は知りません。
ホッとしたと思ったら今度は高校野球。
そして、気が付けば医療崩壊寸前。
オリンピックの話題として興味深かったのは、今回のオリンピックでLGBTという言葉や存在がよく聞かれたこと。
それで思い出したのがイギリスの推理小説家、アガサ・クリスティーのことでした。
といってもアガサ・クリスティーがLGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)の内の何かだったというのではないです。
彼女の作品のことです。
アガサ・クリスティーの小説が、推理小説として世界でも超一級で、すこぶるつきに面白いということは推理小説ファンなら誰でも知っていることだと思います。
ですがここで私が言いたいのは、そういう推理小説としてのアイデアやトリックの話ではなく、アガサ・クリスティーの固定観念や既成概念にとらわれない、むしろそれを覆して利用する発想です。
たとえばアガサ・クリスティーの推理小説の探偵役として有名なのはエルキュール・ポワロとミス・マープル。
両者とも社会の中心にいる人物ではなく周縁に位置している人物です。
例えばポワロはベルギー人という設定です。
イギリス社会だけではなく、外国人はどの国でも不審者として見られがちです。
ポアロは外国人というだけでなく、常にお洒落に気を遣っていて、殆どキザなのに全然カッコよくなく、見た目は滑稽、要するに胡散臭い人物。なのに内実は名探偵というキャラ。
逆にクリスティの作品を読んでいると、犯人の傾向として、それこそ社会の中心にいて欲しいような好感の持てるイケメン男性の場合が多いのです。
この場合、読み手もまた犯人に自然な感じで好感を抱いてしまうところがクリスティの作家として凄いところ。
外国人に話を戻すと、クリスティの推理小説の中でも登場人物の一人が「私は外国人だから、それだけで犯人だと思われてしまう」と話す場面があるのですが、最終的にその人物が犯人でした。
(犯人にそういうセリフを言わせることで、読み手はその人物を犯人候補から外してしまうのですが。)
もちろん、その人物が犯人なのは外国人であることと何の関係もありません。
そんな風にクリスティの作品は巧みに人の先入観や既成概念を利用しつつ壊しています。
ここでクリスティファンにクイズを一つ。
上記 👆 の作品は何でしょう。
ヒントは、あとがきによれば、原題が日本語でいう“くがたち”だそうです。
くがたちとは、古代の裁判で行われていた無罪の人間が自分の無罪を証明する方法ですね。
疑われた人間は熱湯の中に手を入れて、火傷しなければ無罪、火傷したら有罪なわけです。
私は、くがたちは日本の古代だけで行われていたと思っていたのですが、ヨーロッパでも同様のことが行われていて、当然、その英語もあるんだそうです。
もう一人のミス・マープルはいわゆるオールドミスです。
欧米社会の古い価値観での女性の暗黙の序列では、オールドミスは底辺近くに位置付けられてきたそうです。(ミス・マープルものが出版された年代を考えるとオールドミスを蔑む眼差しは社会にまだ強く残っていた筈)
そのような女性を名探偵に位置付けただけでもクリスティは画期的です。
なかでも面白いのはミス・マープルと甥であるレイモンドとの関係です。
手元に本がないので記憶だけで書きますが、レイモンドは確かオックスフォード大学かケンブリッジ大学の出身で、要するにイギリス社会の中ではハイクラスの知識人という設定。
その意識も今でいうリベラルです。
さらに言うと叔母であるミス・マープルに対しても申し分なく愛情深くて絵にかいたような善良な人物です。
ただレイモンドは、自分では進歩的で、既成概念で物事を見ていないと思っているらしいのですが、それが見せかけであることがミス・マープルとのやり取りで読者には明らかにされてしまいます。
たとえばオールドミスであるミス・マープルのことを、同情すべき老人で、古い道徳観に縛られており、性に対して抑圧なビクトリア朝時代の生き残り、当然のように性的なことは何も知らず、その意識も古臭いと思い込んでいること。
中でも1964年に発表された「カリブ海の秘密」の冒頭では、その意識のすれ違いが極端なまでに描かれています。
その作品では、レイモンドは肺炎を患ったミス・マープルにカリブ海で療養するよう計らいます。
(それだけでもレイモンドがどれほど叔母さん思いなのか分かるのですが。)
ミス・マープルはロンドン近郊の農村セント・メアリ・ミードに一人で住んでおり、レイモンドはその村の生活が牧歌的だと思っています。
ですがミス・マープルはお得意の観察力と情報収集力で、その村の住人達が、罪のないものから犯罪的なものまで、都会の知識人であるレイモンドが見たことも聞いたこともないような性的な生活を楽しんでいることを知っているのでした。
むろん、そのことはビクトリア朝の慎み深さから、というより大人の常識で口にだすようなことはしません。
一方レイモンドはミス・マープルが安心してカリブ海に療養に行けるように、ミス・マープルが不在の間、信頼できる友人にミス・マープルの家に住んでもらうことにしているのですが、その友人がクィア(queer )であることは言いません。
クィアというのは、本来の“風変わりな”とか“奇妙な”という意味を離れて、当時のイギリスではおおむね同性愛者を指していました。(注、蔑称です)
そして友人が同性愛者であることをレイモンドが黙っているのは、ビクトリア朝の価値観を生きている(と自分が思いこんでいる)ミス・マープルにそんなことを言ってパニックでも起こされたくないからです。
この2人の意識のすれ違いの凄さ!!
そして、ここで使われたqueerのQこそLGBTQの最後のQの内の一つです。
(LGBTQのQには2つの意味があるのですが、詳しいことは⇒ここ)
私は「カリブ海の秘密」をずいぶん昔に読んだのですが、当時もその冒頭の部分にはちょっとびっくりでした。
ミス・マープルが知っているという村人達の性的な楽しみ・多様性は今のLGBTQのqueerに通底しているわけで、イギリスの田舎ってどんなんやーと思ってしまいます
「カリブ海の秘密」自体は本格ミステリーで冒頭の部分は枕でしかなく、本筋とは関係がない話です。
本筋とは関係ないのに、クリスティがそういったやり取りを書かずにいられなかったのは、もちろんLGBTQにクリスティが今風の理解を持っていたからではなく、当時のイギリスの知識人達に何らかの思うところがあったのではないかと推測します。
意識の上では善良であっても自分達以外の人々を何も知らないし分かっていないと思い込んでいる人達、そういう人達をミス・マープルを通して皮肉ってみたのかもしれないです。
日本でもそういうタイプのリベラルな知識人がいますから。
「カリブ海の秘密」は映像化も幾つか行われていますが、冒頭のやり取りが描かれているかどうかは私は知りません。