萩尾さんは本の中で、本を書くに当たって「封印していた冷凍庫の鍵を探し出して、開けて、記憶を解氷いたしましたが、その間は睡眠がうまく取れず、体調が思わしくありませんでした。
なので、執筆が終わりましたら、もう一度この記憶を永久凍土に封じ込めるつもりです。」と書いています。
この言葉の意味は正確に受け取らなくてはなりません。
というのも、封じ込めていた20代前半の昔の事を書いているのに、読者のレビューではまるで今現在のことのように「萩尾さんは自己評価が低い人だ」と書いている人もいるからです。
(解氷したがゆえに時間による風化がないので、とにかく生々しいという事情もあります。)
と同様に「24年組」のことや大泉サロンについても、萩尾さんは本の中で、強い口調で自分とは無関係、そんなものと自分を関連付けて語って欲しくないと書いているのですが、それを読んだ複数の読者が「もう24年組や大泉サロンという言葉は使えない」と書いているのです。
実際には大泉サロンには多くの人が集まり、その場を経て少女マンガ作家になった作家が何人もおり、萩尾さんを含め24年組と称するしかない作家達がいるにもかかわらず。
それもまた、読者が解氷された50年前の萩尾さん痛みに満ちた感情に引きずられた結果だと思います。
萩尾さんにとってその出来事は、凍り付いたまま保存され、少しも動いていないのです。
まともに向き合い克服することができなかった、それほどまでの出来事だったということです。
読者は、24年組や大泉サロンという言葉を使う時、今後はそこまでのことがあった人達であり場所だったのだと認識して使うしかないのです。
同様のことは少年愛の表現を巡っても起こっています。
本の中で萩尾さんは自分の作品は少年愛なんか描いていないと書いています。
そこで多くの読者は「萩尾さんの作品は今のBL(ボーイズラブ)とは異質だと感じていたが腑に落ちた」とレビューで書いています。
読者はここでも時の流れというものを見ないで物事を見ています。
現在のBLは、かつての少女マンガの少年愛ものが、エンターテイメントとして究極まで商業化した作品群だということを認識していないのです。
萩尾さんの作品がBLと異質であるのは当たり前です。
(BLって何? と思う人のために簡単に説明しておくと「オッサンズラブ」のようなテレビドラマで、今ではすっかりメジャーになりましたが、主に女性作者による女性を読者とした男性同士の恋愛ものの作品のことです。
こうした作品は今ではエンタメの一ジャンルを獲得してますし、日本以外のアジア諸国でももてはやされています。
さらにいうならアンダーグラウンドの文化としてアメリカでも長く存在していたようです。)
では今から50年前、1970年代初頭の日本において少年愛ものの表現とはどういうものであったか。
「一度きりの大泉の話」を読むと、まさにそこに竹宮さんの一方的な決別宣言の理由があったことが伺えます。
事情はこのようです。
萩尾さんを介して竹宮さんと増山さんは出会いますが、二人はすぐに少年愛への嗜好において意気投合しています。
まるで魂の双子のようにその趣味がピッタリと一致し、離れがたい双子のようになったようです。
当時、竹宮さんは、頭の中に突然、少年愛をテーマとしたストーリーが考えることなく流れてきて一晩かけてそのストーリーを増山さんに電話で話しています。
それが元祖BLと言われる竹宮さんの「風と木の詩」です。
「少年の名はジルベール」によると、竹宮さんは「風と木の詩」を雑誌連載という形で描くことを強く望みました。
ですが当時、そんな作品が少女マンガ雑誌に掲載される筈がないものでした。
登場人物が男の子ばかりで同性愛が描かれていて、しかも裸で絡み合うシーンまであるわけですから。
それでも竹宮さんは出版社の編集者に幾度となく交渉し、説得し、懇願していますが、その度却下されています。
「少年の名はジルベール」によると、当時の竹宮さんは、少女マンガ作家として一番乗りでその種の作品を描いてみたかったようです。
にもかかわらず、竹宮さんは発表の機会が与えられなかったのです。
一方で萩尾さんの方は、好きなように作品を描いても、それが無条件で雑誌に掲載されるという形で編集者にも可愛がられていたようです。
中でも「ポーの一族」はヒット作となり、普段なら少女マンガなど読まないし論評もしない文芸評論家や文化人も取り上げ、高く評価されるという状況にありました。
そこで少年愛です。
本人が言う様に萩尾さんには少年愛への嗜好がなかったのか。
作品を読むかぎりあったと思います。
ただ同じ事柄を取り上げても萩尾さんの場合、作品の位相が常に異なっていました。
(これについて私がここで論証しようとすると論文書くみたいになるので止めときます)
たとえば増山さんは自分の好きな作品だとすべて少年愛に関係づけてはしゃぐという癖があったようです。
どう読んでもそんな小説ではないヘッセの「デミアン」も最後にキスシーンがあることで少年愛が描かれた物語だというふうに。
実は増山さんという人だけでなくて、そういう女性は珍しくなく、冗談や遊びで言っているのではなくヘッセの「車輪の下」を少年愛の話だ思い込んでいる人や、映画の「戦場のメリークリスマス」をホモの話だと言う人も私自身、見てきました。
今風な言葉で言うと“腐女子”です。
こと少年愛=男性同性愛の話になるとタガが外れたようになって浮かれ騒ぐ女性達のことです。
萩尾さんはそういうタイプではなかったのです。
竹宮さんも「少年の名はジルベール」で、当時は気が付いていなかったこととして、少年愛を描くにしても一部の腐女子的な人が喜ぶ作品を描くのではなく、作品の普遍化を図らなければならなかったという意味のことを書いています。
いずれにしても「ポーの一族」は濃厚な少年愛の雰囲気を漂わせていても、直接的には描いていなかったのです。
「ポーの一族」は幾つかの短編と長編で成り立った連作で、その中で「小鳥の巣」というドイツのギムナジウムを舞台にしたものを連載し始めた時、萩尾さんにとっての悲劇は起こったようです。
竹宮さんの「風と木の詩」もフランスを舞台にした男子寄宿舎もので、設定が被っていました。
竹宮さんは「風と木の詩」のクロッキーを多く描いていて、大泉サロンでも萩尾さんを始め、そこに集った人に見せていたのです。
当時、萩尾さんを前にして竹宮さんが恐れていたことは、自分より先に少年愛ものの作品を萩尾さんが描くのではないかということだったのではないでしょうか。
雑誌に掲載された「小鳥の巣」を読んで、竹宮さんは疑心暗鬼にかられたのでしょう。
その頃は既に大泉から離れ、竹宮さんは増山さんと二人でマンションに住んでいましたが、ある夜、竹宮さんは萩尾さんをマンションに呼び出し、増山さんと共に「小鳥の巣」が自分の「風と木の詩」の盗作ではないかと問い質したのです。
実はこの辺りの事は竹宮さんの「少年の名はジルベール」には詳しく書かれておらず、萩尾さんの「一度きりの大泉の話」に詳しく書かれています。
萩尾さんはショックのあまり抗弁しようにも頭が真っ白になって何も言えなかったそうです。
竹宮さんも自分の疑心暗鬼にすぐに気づいたのでしょう。
三日後、萩尾さんが住むアパートに訪れ、三日前に言ったことは自分の勘違いだった、すべて忘れてほしいと言い、一通の手紙を萩尾さんに渡して帰ったそうです。
手紙の内容は、平たく言えば絶縁したいということでした。
そもそも萩尾さんにとって竹宮さんも増山さんも、自分を抑圧的な親の家から救いだし、好きなマンガを自由に描く機会を与えてくれた恩義ある人達であり、その知見を尊敬もしていた親友でした。
晴天の霹靂のような盗作疑惑が誤解で、それが解けたのなら、また仲良くしましょうになる筈なのに絶縁したいと言ってきた。
自分の何が悪かったのか分からない。
自分がマンガを描くことが悪いのか。
結局、盗作を疑われた夜に言われたことが原因ではないかと思うに至ったようです。
「一度きりの大泉の話」による、そこで二人に言われたこと。
「私たちは少年愛についてよく知っている。でも、あなたは知らない。なのに、男子寄宿舎ものを描いている。でも、あれは偽物だ。ああいう偽物を見せられると私たちは気分が悪くてザワザワするのよ。だから、描かないでほしい」
もう一度確認すると「一度きりの大泉の話」では萩尾さんの感情は50年前に戻っています。
当時、竹宮さんと激しくシンクロしている増山さんには普段から「あなたは少年愛が分かっていない」的なこと言われ続けていることもあいまって、その夜の言葉は少年愛ものから自分を排撃する言葉として響いたと思います。
結局その経験が「一度きりの大泉の話」の中で、しつこいほど自分は少年愛を描いたことはない、自分には少年愛は分からないという言葉になって出てきたのではないかと推測されます。
(そこには二人から身を守る自己防衛的な態度も感じます)
と同時に大泉サロンなんてものも知らない、24年組などという言葉でくくられたくない、なぜなら自分はそこから二人に放逐された人間なんだからと言わんばかりの書きようになったのではないかと思います。
すべてはあの夜と手紙で終わってしまったのだと記しているのです。
「一度きりの大泉の話」の読者が、安易に50年前の萩尾さんの自己防衛的な感情に同調するのは、私は正しいことではないと思い、これを書きました。
第一それでは萩尾さんの作品そのものも読み間違えてしまいます。
竹宮さんもお気の毒です。
50年前の竹宮さんにとって、萩尾さんから離れることは自分が自分でいられるギリギリの選択だったと思います。
私は覚えています。
本によると萩尾さんは当時、ストレスからくる心身症で眼が悪くなり、イギリスに5か月ほど行っています。
たぶんその時のことでしょう、イギリス便りのような形でイギリスでの出来事をイラストエッセー風に雑誌で掲載していました。
ある夜、ホームステイ先の家族とともに萩尾さんは歌手のクリフ・リチャードの公演に行きます。
そのステージに感動した萩尾さんは、歌い踊るクリフ・リチャードのイラストと共に、その夜のクリフ・リチャードについて
「あれは少年 まさに少年 爬虫類のよう 男色家のよう」
と讃えていたのです。
少年愛が分からないなんて、どの口が言うのって感じです。
おそらく増山さん流のそれではなく、そこに爬虫類という言葉が併記されていることからも、もっと深い、人の普遍的・神話的なイメージとしてそれを理解していたのだと思います。
たぶん、そういう感性を竹宮さんは何より恐れたのだと思うし、萩尾さんの少女マンガが文学を超えたと言われる所以でしょう。
でも、そういう感性を持った人間がどんな犠牲を払うかも、未だ癒えない50年前の傷を見ることで読者は知らされたのです。
なので、執筆が終わりましたら、もう一度この記憶を永久凍土に封じ込めるつもりです。」と書いています。
この言葉の意味は正確に受け取らなくてはなりません。
というのも、封じ込めていた20代前半の昔の事を書いているのに、読者のレビューではまるで今現在のことのように「萩尾さんは自己評価が低い人だ」と書いている人もいるからです。
(解氷したがゆえに時間による風化がないので、とにかく生々しいという事情もあります。)
と同様に「24年組」のことや大泉サロンについても、萩尾さんは本の中で、強い口調で自分とは無関係、そんなものと自分を関連付けて語って欲しくないと書いているのですが、それを読んだ複数の読者が「もう24年組や大泉サロンという言葉は使えない」と書いているのです。
実際には大泉サロンには多くの人が集まり、その場を経て少女マンガ作家になった作家が何人もおり、萩尾さんを含め24年組と称するしかない作家達がいるにもかかわらず。
それもまた、読者が解氷された50年前の萩尾さん痛みに満ちた感情に引きずられた結果だと思います。
萩尾さんにとってその出来事は、凍り付いたまま保存され、少しも動いていないのです。
まともに向き合い克服することができなかった、それほどまでの出来事だったということです。
読者は、24年組や大泉サロンという言葉を使う時、今後はそこまでのことがあった人達であり場所だったのだと認識して使うしかないのです。
同様のことは少年愛の表現を巡っても起こっています。
本の中で萩尾さんは自分の作品は少年愛なんか描いていないと書いています。
そこで多くの読者は「萩尾さんの作品は今のBL(ボーイズラブ)とは異質だと感じていたが腑に落ちた」とレビューで書いています。
読者はここでも時の流れというものを見ないで物事を見ています。
現在のBLは、かつての少女マンガの少年愛ものが、エンターテイメントとして究極まで商業化した作品群だということを認識していないのです。
萩尾さんの作品がBLと異質であるのは当たり前です。
(BLって何? と思う人のために簡単に説明しておくと「オッサンズラブ」のようなテレビドラマで、今ではすっかりメジャーになりましたが、主に女性作者による女性を読者とした男性同士の恋愛ものの作品のことです。
こうした作品は今ではエンタメの一ジャンルを獲得してますし、日本以外のアジア諸国でももてはやされています。
さらにいうならアンダーグラウンドの文化としてアメリカでも長く存在していたようです。)
では今から50年前、1970年代初頭の日本において少年愛ものの表現とはどういうものであったか。
「一度きりの大泉の話」を読むと、まさにそこに竹宮さんの一方的な決別宣言の理由があったことが伺えます。
事情はこのようです。
萩尾さんを介して竹宮さんと増山さんは出会いますが、二人はすぐに少年愛への嗜好において意気投合しています。
まるで魂の双子のようにその趣味がピッタリと一致し、離れがたい双子のようになったようです。
当時、竹宮さんは、頭の中に突然、少年愛をテーマとしたストーリーが考えることなく流れてきて一晩かけてそのストーリーを増山さんに電話で話しています。
それが元祖BLと言われる竹宮さんの「風と木の詩」です。
「少年の名はジルベール」によると、竹宮さんは「風と木の詩」を雑誌連載という形で描くことを強く望みました。
ですが当時、そんな作品が少女マンガ雑誌に掲載される筈がないものでした。
登場人物が男の子ばかりで同性愛が描かれていて、しかも裸で絡み合うシーンまであるわけですから。
それでも竹宮さんは出版社の編集者に幾度となく交渉し、説得し、懇願していますが、その度却下されています。
「少年の名はジルベール」によると、当時の竹宮さんは、少女マンガ作家として一番乗りでその種の作品を描いてみたかったようです。
にもかかわらず、竹宮さんは発表の機会が与えられなかったのです。
一方で萩尾さんの方は、好きなように作品を描いても、それが無条件で雑誌に掲載されるという形で編集者にも可愛がられていたようです。
中でも「ポーの一族」はヒット作となり、普段なら少女マンガなど読まないし論評もしない文芸評論家や文化人も取り上げ、高く評価されるという状況にありました。
そこで少年愛です。
本人が言う様に萩尾さんには少年愛への嗜好がなかったのか。
作品を読むかぎりあったと思います。
ただ同じ事柄を取り上げても萩尾さんの場合、作品の位相が常に異なっていました。
(これについて私がここで論証しようとすると論文書くみたいになるので止めときます)
たとえば増山さんは自分の好きな作品だとすべて少年愛に関係づけてはしゃぐという癖があったようです。
どう読んでもそんな小説ではないヘッセの「デミアン」も最後にキスシーンがあることで少年愛が描かれた物語だというふうに。
実は増山さんという人だけでなくて、そういう女性は珍しくなく、冗談や遊びで言っているのではなくヘッセの「車輪の下」を少年愛の話だ思い込んでいる人や、映画の「戦場のメリークリスマス」をホモの話だと言う人も私自身、見てきました。
今風な言葉で言うと“腐女子”です。
こと少年愛=男性同性愛の話になるとタガが外れたようになって浮かれ騒ぐ女性達のことです。
萩尾さんはそういうタイプではなかったのです。
竹宮さんも「少年の名はジルベール」で、当時は気が付いていなかったこととして、少年愛を描くにしても一部の腐女子的な人が喜ぶ作品を描くのではなく、作品の普遍化を図らなければならなかったという意味のことを書いています。
いずれにしても「ポーの一族」は濃厚な少年愛の雰囲気を漂わせていても、直接的には描いていなかったのです。
「ポーの一族」は幾つかの短編と長編で成り立った連作で、その中で「小鳥の巣」というドイツのギムナジウムを舞台にしたものを連載し始めた時、萩尾さんにとっての悲劇は起こったようです。
竹宮さんの「風と木の詩」もフランスを舞台にした男子寄宿舎もので、設定が被っていました。
竹宮さんは「風と木の詩」のクロッキーを多く描いていて、大泉サロンでも萩尾さんを始め、そこに集った人に見せていたのです。
当時、萩尾さんを前にして竹宮さんが恐れていたことは、自分より先に少年愛ものの作品を萩尾さんが描くのではないかということだったのではないでしょうか。
雑誌に掲載された「小鳥の巣」を読んで、竹宮さんは疑心暗鬼にかられたのでしょう。
その頃は既に大泉から離れ、竹宮さんは増山さんと二人でマンションに住んでいましたが、ある夜、竹宮さんは萩尾さんをマンションに呼び出し、増山さんと共に「小鳥の巣」が自分の「風と木の詩」の盗作ではないかと問い質したのです。
実はこの辺りの事は竹宮さんの「少年の名はジルベール」には詳しく書かれておらず、萩尾さんの「一度きりの大泉の話」に詳しく書かれています。
萩尾さんはショックのあまり抗弁しようにも頭が真っ白になって何も言えなかったそうです。
竹宮さんも自分の疑心暗鬼にすぐに気づいたのでしょう。
三日後、萩尾さんが住むアパートに訪れ、三日前に言ったことは自分の勘違いだった、すべて忘れてほしいと言い、一通の手紙を萩尾さんに渡して帰ったそうです。
手紙の内容は、平たく言えば絶縁したいということでした。
そもそも萩尾さんにとって竹宮さんも増山さんも、自分を抑圧的な親の家から救いだし、好きなマンガを自由に描く機会を与えてくれた恩義ある人達であり、その知見を尊敬もしていた親友でした。
晴天の霹靂のような盗作疑惑が誤解で、それが解けたのなら、また仲良くしましょうになる筈なのに絶縁したいと言ってきた。
自分の何が悪かったのか分からない。
自分がマンガを描くことが悪いのか。
結局、盗作を疑われた夜に言われたことが原因ではないかと思うに至ったようです。
「一度きりの大泉の話」による、そこで二人に言われたこと。
「私たちは少年愛についてよく知っている。でも、あなたは知らない。なのに、男子寄宿舎ものを描いている。でも、あれは偽物だ。ああいう偽物を見せられると私たちは気分が悪くてザワザワするのよ。だから、描かないでほしい」
もう一度確認すると「一度きりの大泉の話」では萩尾さんの感情は50年前に戻っています。
当時、竹宮さんと激しくシンクロしている増山さんには普段から「あなたは少年愛が分かっていない」的なこと言われ続けていることもあいまって、その夜の言葉は少年愛ものから自分を排撃する言葉として響いたと思います。
結局その経験が「一度きりの大泉の話」の中で、しつこいほど自分は少年愛を描いたことはない、自分には少年愛は分からないという言葉になって出てきたのではないかと推測されます。
(そこには二人から身を守る自己防衛的な態度も感じます)
と同時に大泉サロンなんてものも知らない、24年組などという言葉でくくられたくない、なぜなら自分はそこから二人に放逐された人間なんだからと言わんばかりの書きようになったのではないかと思います。
すべてはあの夜と手紙で終わってしまったのだと記しているのです。
「一度きりの大泉の話」の読者が、安易に50年前の萩尾さんの自己防衛的な感情に同調するのは、私は正しいことではないと思い、これを書きました。
第一それでは萩尾さんの作品そのものも読み間違えてしまいます。
竹宮さんもお気の毒です。
50年前の竹宮さんにとって、萩尾さんから離れることは自分が自分でいられるギリギリの選択だったと思います。
私は覚えています。
本によると萩尾さんは当時、ストレスからくる心身症で眼が悪くなり、イギリスに5か月ほど行っています。
たぶんその時のことでしょう、イギリス便りのような形でイギリスでの出来事をイラストエッセー風に雑誌で掲載していました。
ある夜、ホームステイ先の家族とともに萩尾さんは歌手のクリフ・リチャードの公演に行きます。
そのステージに感動した萩尾さんは、歌い踊るクリフ・リチャードのイラストと共に、その夜のクリフ・リチャードについて
「あれは少年 まさに少年 爬虫類のよう 男色家のよう」
と讃えていたのです。
少年愛が分からないなんて、どの口が言うのって感じです。
おそらく増山さん流のそれではなく、そこに爬虫類という言葉が併記されていることからも、もっと深い、人の普遍的・神話的なイメージとしてそれを理解していたのだと思います。
たぶん、そういう感性を竹宮さんは何より恐れたのだと思うし、萩尾さんの少女マンガが文学を超えたと言われる所以でしょう。
でも、そういう感性を持った人間がどんな犠牲を払うかも、未だ癒えない50年前の傷を見ることで読者は知らされたのです。
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