久しぶりに重い読書体験でした。
「一度きりの大泉の話」は少女マンガ家の萩尾望都さんが漫画家として活動し始めた最初のころの話を中心に書かれた本です。
そんなもんに興味のない人は読まずにスルーしてください。
少女マンガについて、ある程度詳しい人は、それまでの少女マンガとはまるで異なる画期的な表現を始めた「24年組」と呼ばれる一群の少女漫画作家達のことや、その人達が集った大泉サロンと呼ばれた場所のことはご存知だと思います。
24年組と呼ばれたのは、昭和24年前後に生まれた作家達だからであり、大泉サロンというのは、その中の中心的な二人、萩尾望都さんと竹宮惠子さんが共同生活を送っていた長屋が東京の大泉にあったからです。(以下、煩瑣になりますので人名については一回目はフルネームで書き、2回目以降は苗字のみとさせていただきます。)
この本が書かれた理由は、萩尾さんによると、竹宮さんが自伝「少年の名はジルベール」(2016年刊)を出版されて以降、自分に対して当時のことを執拗に尋ねる人が多くなったこと、何度断ってもその本を読むように言われたり、果てはテレビ局から大泉時代のドラマ化の企画までもちこまれたりして、落ち着いて仕事が出来なくなったこと。
それで仕方なく、(心の中の)永久凍土の下に封じ込めていたその当時の話を最初で最後のこととして書くことにしたとのことです。
私はというと、竹宮さんの自伝「少年の名はジルベール」を1年くらい前に読んでいました。
理由は、偶然読んだあるブログのコメント欄に書かれていたことを確認したかったからです。
そのブログでは、萩尾さんも竹宮さんも文化のない地方から東京に来た。
そこで東京人である増山法恵さんに出会い、彼女から本や映画などの知識を授けられて優れた作品を書くに至った。
東京ってすごーい、みたいな論調で盛り上がっていました。
私はそれを読んで、今時「地方には文化がない」などと平気で地方差別的なことを言う人がいるのかと驚きました。
しかも、そういう事で嬉々として盛り上がる東京人達って何なんだとも思いました。
第一、そういう言い方は萩尾さんや竹宮さんに対して失礼ではないかとも。
ただ、そんな風に自信を持って言われる背景を知りたくて「少年の名はジルベール」を古本で買って読んだのです。
「少年の名はジルベール」を読んで分かったことは、ブログに出ていた増山さんという人は当時、無償のプロデューサー的な役割をしていた人だったらしいということ。
雑誌で萩尾さんの最初期の作品を読んで手紙を書き、友達になって萩尾さんが東京に出てくる手伝いをしたのは彼女でした。
当時、増山さんは表面的には音大を目指す浪人生だったようですが、音大を目指していたのは親だけで、当の本人は受験をなげうっており、少女マンガに新風を吹き込むことを熱心だったようです。
といっても本人はマンガを描かず、自分の目から見て有能な作家達を集めて新しい少女マンガの潮流を作ることを目指していたようです。
萩尾さんと竹宮さんが住むことになる大泉の長屋は彼女の家の向かいにあり、その場所を決めたのも増山さんでした。
増山さんは、いわゆる良家の子女で、ピエール・ブルデューの言う、生まれの良さによる“文化資産”を持った人であり、それなりに高い教養や美意識があったようです。
そして自分の芸術上の価値観や美意識に自信があり、読むべき本や見るべき映画などを萩尾さんと竹宮さんに薦めていたようです。
さらにその彼女が実質的に大泉に来る人達も選んでいたとのことです。
たとえば萩尾さんや竹宮さんに送られた漫画家志望の人達のファンレターを読んで、マンガに対し意欲的で見込みのありそうな人だと「この人は招待しよう」というふうに。
そうやって意欲的な人が集まると、既存の少女マンガに飽き足らない既にデビューしていた作家達も出入りし始め、マンガ作家や作家の卵の溜まり場のような大泉サロンは出来たみたいです。
ですが大泉での二人の共同生活は1970年から1972年までの2年で終わっています。
理由は「少年の名はジルベール」によると、竹宮さんによる萩尾さんの才能に対する嫉妬でした。
竹宮さんは萩尾さんの傍にいることが耐えられなくなって大泉から逃れ、その後はっきりと別れを告げたとのことです。
自らの若き日の嫉妬を明らかにし、その後の少女マンガ家としての自己確立と成功を記した「少年の名はジルベール」は概ね好感をもって読まれました。
それが結果的に世間の大泉サロンや24年組についての興味を引き出し、萩尾さんに対するメディアからのアプローチが増えた原因になったようです。
萩尾さんが書いた「一度きりの大泉の話」は、彼女が永久凍土に封印していた大泉の記憶を溶かして掘り出したものであり、読者は彼女が50年前に竹宮さんから受けた生々しい傷を見せられることになります。
たぶん竹宮さんにとっても予測できなかったのは、若き日の竹宮さんが萩尾さんの才能への嫉妬でのたうち回りながらもそれを克服したのに反し、萩尾さんがいまだ受けた傷が癒されないまま永久凍土に封印することで前に進んだ事実でしょう。
ネットで読める本のレビューを読むと、その傷はあまりにも生々しいので、一部の読者は短絡的に怒りにかられ「今後、竹宮惠子の本は読まない」と書いていたり、逆に、50年も前の二十歳そこそこの頃のことをいまだに根に持っているとして萩尾さんの人格を批判したりもしています。
もちろん私はこのブログで萩尾さんや竹宮さんの人格批判はするつもりはないです。
私としては、この本やこの本のレビューを読んで思ったことを、コアな話で少々分かり辛いかもしれませんが幾つか書いてみたいと思います。
長くなりそうなので、後は後編へと続きます。
「一度きりの大泉の話」は少女マンガ家の萩尾望都さんが漫画家として活動し始めた最初のころの話を中心に書かれた本です。
そんなもんに興味のない人は読まずにスルーしてください。
少女マンガについて、ある程度詳しい人は、それまでの少女マンガとはまるで異なる画期的な表現を始めた「24年組」と呼ばれる一群の少女漫画作家達のことや、その人達が集った大泉サロンと呼ばれた場所のことはご存知だと思います。
24年組と呼ばれたのは、昭和24年前後に生まれた作家達だからであり、大泉サロンというのは、その中の中心的な二人、萩尾望都さんと竹宮惠子さんが共同生活を送っていた長屋が東京の大泉にあったからです。(以下、煩瑣になりますので人名については一回目はフルネームで書き、2回目以降は苗字のみとさせていただきます。)
この本が書かれた理由は、萩尾さんによると、竹宮さんが自伝「少年の名はジルベール」(2016年刊)を出版されて以降、自分に対して当時のことを執拗に尋ねる人が多くなったこと、何度断ってもその本を読むように言われたり、果てはテレビ局から大泉時代のドラマ化の企画までもちこまれたりして、落ち着いて仕事が出来なくなったこと。
それで仕方なく、(心の中の)永久凍土の下に封じ込めていたその当時の話を最初で最後のこととして書くことにしたとのことです。
私はというと、竹宮さんの自伝「少年の名はジルベール」を1年くらい前に読んでいました。
理由は、偶然読んだあるブログのコメント欄に書かれていたことを確認したかったからです。
そのブログでは、萩尾さんも竹宮さんも文化のない地方から東京に来た。
そこで東京人である増山法恵さんに出会い、彼女から本や映画などの知識を授けられて優れた作品を書くに至った。
東京ってすごーい、みたいな論調で盛り上がっていました。
私はそれを読んで、今時「地方には文化がない」などと平気で地方差別的なことを言う人がいるのかと驚きました。
しかも、そういう事で嬉々として盛り上がる東京人達って何なんだとも思いました。
第一、そういう言い方は萩尾さんや竹宮さんに対して失礼ではないかとも。
ただ、そんな風に自信を持って言われる背景を知りたくて「少年の名はジルベール」を古本で買って読んだのです。
「少年の名はジルベール」を読んで分かったことは、ブログに出ていた増山さんという人は当時、無償のプロデューサー的な役割をしていた人だったらしいということ。
雑誌で萩尾さんの最初期の作品を読んで手紙を書き、友達になって萩尾さんが東京に出てくる手伝いをしたのは彼女でした。
当時、増山さんは表面的には音大を目指す浪人生だったようですが、音大を目指していたのは親だけで、当の本人は受験をなげうっており、少女マンガに新風を吹き込むことを熱心だったようです。
といっても本人はマンガを描かず、自分の目から見て有能な作家達を集めて新しい少女マンガの潮流を作ることを目指していたようです。
萩尾さんと竹宮さんが住むことになる大泉の長屋は彼女の家の向かいにあり、その場所を決めたのも増山さんでした。
増山さんは、いわゆる良家の子女で、ピエール・ブルデューの言う、生まれの良さによる“文化資産”を持った人であり、それなりに高い教養や美意識があったようです。
そして自分の芸術上の価値観や美意識に自信があり、読むべき本や見るべき映画などを萩尾さんと竹宮さんに薦めていたようです。
さらにその彼女が実質的に大泉に来る人達も選んでいたとのことです。
たとえば萩尾さんや竹宮さんに送られた漫画家志望の人達のファンレターを読んで、マンガに対し意欲的で見込みのありそうな人だと「この人は招待しよう」というふうに。
そうやって意欲的な人が集まると、既存の少女マンガに飽き足らない既にデビューしていた作家達も出入りし始め、マンガ作家や作家の卵の溜まり場のような大泉サロンは出来たみたいです。
ですが大泉での二人の共同生活は1970年から1972年までの2年で終わっています。
理由は「少年の名はジルベール」によると、竹宮さんによる萩尾さんの才能に対する嫉妬でした。
竹宮さんは萩尾さんの傍にいることが耐えられなくなって大泉から逃れ、その後はっきりと別れを告げたとのことです。
自らの若き日の嫉妬を明らかにし、その後の少女マンガ家としての自己確立と成功を記した「少年の名はジルベール」は概ね好感をもって読まれました。
それが結果的に世間の大泉サロンや24年組についての興味を引き出し、萩尾さんに対するメディアからのアプローチが増えた原因になったようです。
萩尾さんが書いた「一度きりの大泉の話」は、彼女が永久凍土に封印していた大泉の記憶を溶かして掘り出したものであり、読者は彼女が50年前に竹宮さんから受けた生々しい傷を見せられることになります。
たぶん竹宮さんにとっても予測できなかったのは、若き日の竹宮さんが萩尾さんの才能への嫉妬でのたうち回りながらもそれを克服したのに反し、萩尾さんがいまだ受けた傷が癒されないまま永久凍土に封印することで前に進んだ事実でしょう。
ネットで読める本のレビューを読むと、その傷はあまりにも生々しいので、一部の読者は短絡的に怒りにかられ「今後、竹宮惠子の本は読まない」と書いていたり、逆に、50年も前の二十歳そこそこの頃のことをいまだに根に持っているとして萩尾さんの人格を批判したりもしています。
もちろん私はこのブログで萩尾さんや竹宮さんの人格批判はするつもりはないです。
私としては、この本やこの本のレビューを読んで思ったことを、コアな話で少々分かり辛いかもしれませんが幾つか書いてみたいと思います。
長くなりそうなので、後は後編へと続きます。
漫画はよく分からないのですが、竹宮さんはテレビで拝見してとても聡明な方だと思います。
萩尾さんはどんな傷があるんでしょうか?
お二人とも才能に恵まれた人ですが、それだからこそ苦しみもあったのでしょうね。
ただ、後編では私の考えと関連する部分で萩尾さんの受けた傷に触れるかもしれません。
後編は書くのが難しいのですが、頑張ってまとめてみたいと思います。