福井新聞記事より
満州の別の部隊にいた勝山出身の戦友は「600人殺し、100人は捕らえ、100人ほどは逃がしました」「山の上から谷間に転落する様はなかなか壮観でした。谷間には人馬が折り重なって倒れており、凄惨そのものでしたが、それよりも下山して食った飯の美味なこと、忘れることはできません」と戦地での経験を包み隠さず記している。
1938年の滋賀の若い女性は慰問文で「支那の罪なき友民に情けをかけてあげて下さいませ。お願いです」とつづった。会のメンバーは「一般的には中国人蔑視の思想があった中でも、良心が失われていなかったことが読み取れると」指摘する。
今日は終戦記念日であり、各地で慰霊祭が開催された。当時は600人殺した事が手柄だったのだろうが、私の町内は60数戸だから5人家族としても300人余りにしかならないから町内は無人になった計算である。手柄として大げさに自慢したとも考えられるが、そのような方が戦死されて靖国神社に祀られている。
毎年の事であるが早速、中国や韓国からは批難や抗議の声明が発表されている。真珠湾攻撃で犠牲になったハワイからは毎年のように批難や抗議があるだろうか。原爆で犠牲になられた遺族の方も毎年のように批難や抗議をしてはいない。中国や韓国は全く考え方が違っているのだが。
研修生として鯖江市の会社で働いている36歳の彼女が、「当時は抗日戦争を行った」と私にいうのである。生まれてからのその様な教育を受けて来たからであろう。
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