30年前のこの日もとてもいいお天気でした。
このごろはお式のあとは2次会や3次会があり、旅行に出るのは次の日が一般的になってきていますが、その頃はその日のうちに発ちました。
冬の陽だまりの中で手をこまねいている老母の写真がいつも思い出されます。彼女はこのときすでに70才でした。横でそっと支えてくれているのは55才で無くなった長兄のお嫁さんでした。
1月20日というと、この一枚の写真が胸に甦るのです。友人の車で大阪空港まで。
大阪空港はその頃でも国際空港と名乗っていましたが、台北やソウル行きだったのでしょうか、羽田まで国内線でした。それがディレーして羽田では国際線まで息せき切って走りました。
「成田離婚」と今ではそんな言葉もありますが、羽田に帰ってきたらどうなるかわからないわ、と内心思っていたように覚えています。
それが、30年です。生まれ育った家より長く生活しているのです。
大阪、南港の31階から見る大阪や神戸の街、六甲の山並み、きょうの冬晴れの青い空にきれいに見えていました。
このごろはお式のあとは2次会や3次会があり、旅行に出るのは次の日が一般的になってきていますが、その頃はその日のうちに発ちました。
冬の陽だまりの中で手をこまねいている老母の写真がいつも思い出されます。彼女はこのときすでに70才でした。横でそっと支えてくれているのは55才で無くなった長兄のお嫁さんでした。
1月20日というと、この一枚の写真が胸に甦るのです。友人の車で大阪空港まで。
大阪空港はその頃でも国際空港と名乗っていましたが、台北やソウル行きだったのでしょうか、羽田まで国内線でした。それがディレーして羽田では国際線まで息せき切って走りました。
「成田離婚」と今ではそんな言葉もありますが、羽田に帰ってきたらどうなるかわからないわ、と内心思っていたように覚えています。
それが、30年です。生まれ育った家より長く生活しているのです。
大阪、南港の31階から見る大阪や神戸の街、六甲の山並み、きょうの冬晴れの青い空にきれいに見えていました。