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上手に眠れば元気になれる・・・ オーダー枕とベッドの快眠ひろば

寝具の商品情報から正しい使い方まで。健康的に上手に眠る(科学的?)サイト。ふとん屋の爺の「寝言戯言独り言・趣味」の話。

大阪 四天王寺に行きました。

2014-09-07 09:54:15 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

 全くの下調べもせずに、今回の旅の最終日8月22日に、四天王寺をお参りしました。歴史の時間に習った「四天王寺」は、聖徳太子が建立したとか、四天王寺様式とかその程度しかなかった。

 行くまでは、もっと古臭いお寺だと思っていたが・・・。行った22日は聖徳太子の月命日だったようです。境内は縁日ということで、たくさんの露店が出ていました。四天王寺は大阪の民衆の中に、しっかりと根を下ろした、今も信仰の対象になっている「お寺」さんという感じでした。

 五重塔とハルカスです。   

 聖徳太子の月命日22日は 「太子会(たいしえ)」 として四天王寺では法要が行われているようです。そんな日に、遭遇したわけです。どんなお経が読まれるのか興味深々に聞き入ることにしました。初めのお経はわかりませんでしたが、次に唱えられたのは般若心経でした。その後、「聖徳太子和讃」なるものが、唱和されました。30分ぐらいでしょうか、唱和しました。

 普段は拝観料が要りますが、絵堂と中心伽藍が無料開放され、また五重塔最上階回廊も開放されます。法要が終わった後、その五重塔に上りました。(またまたまた、オノボリサンです)

 五重塔の最上層からの景色です。

西方面 東方面

南方面(四天王寺の五重塔からハルカスを) 

 ハルカスの部屋から四天王寺を見た景色

 こうして「オノボリサン」の旅は終わりました。夕方4時過ぎには店に帰り、さっそく溜まった仕事を処理することになりました。旅の思い出を書き始めましたが、仕事に追われ気が付けば、半月ほど経過してしまいました。隠居したい!

 

 

 

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丹後という国

2014-06-24 00:09:02 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

 京都府は山城・丹波(一部?は大阪府や兵庫県)・丹後の三ヵ国で成り立っている。丹後から連想できるのは、丹後ちりめんと天橋立ぐらいだった。丹後の国はそれまであまり興味がなかったが、今回旅してみて神話的にも歴史的にも結構面白いところでした。

 宿で仲居さんからお話を聞いた中で、最も興味が湧いたのは「元伊勢」という「地」(呼び方)であった。元伊勢が丹後には二か所ある。天橋立の籠神社と酒呑童子の大江山にある。丹後は京都府、若さは福井県。ところが丹後と若狭はお隣であり、海上交通で往来すれば、山向こうの丹波より極めて近いと思われる。丹後と若狭は神が常に宿る地ともいわれる。写真からは消えているが、右手の山を越えたところが舞鶴であり、その先は三方五湖へと続く。福井と京都と別れているが、古代人の感覚では、丹後と若狭は一体のように思える。

 以前、伊勢神宮は何故伊勢なのか。継体天皇の出身といわれる若狭ではいけなかったのか・・・と書いたことがあった。

 天橋立というのは丹後国風土記では、イザナギの命が天に通うために作った梯子であり、「天の橋立」といったが、命が寝ている間に倒れて現在の姿になったとされている。

 確かに自然が作った景色だが、「神」を感じるような景色だ。この日は曇り空、空と海との境が分かりにくい。見様によっては「天に続く道」に見える。古代人の発想は面白い。逆さに見ると、確かに天に通ずる梯子にみえる・・・。

 

 これからいうことも全くの爺の戯言である、

 伊勢に神宮が造営されたのは、第21代雄略天皇の時代に天照大御神の神託によって丹後から遷座したとされている。26代継体天皇は若狭出身と言われている。ところで、継体帝はどのように大和に入ったのだろう。若狭から琵琶湖そして山城・大和の国へのルートではなく、若狭から丹後丹波そして摂津大和へと入ったのかも、ひょっとしたら丹後丹波から播磨そして淡路島へ、その後大和に入ったのかもしれない。神話で初めて生まれた島が淡路島というのも、何やら意味深なところだ。

 古事記(奈良時代712年(和銅5年)・日本書紀(奈良時代養老4年(720年)・風土記(奈良時代)はすべて奈良時代の作である。天武天皇・持統天皇の意向でもって後の作であるから、解釈も読み手の勝手でも良いような気がする。

 大海人皇子(後の天武天皇40代)が壬申の乱での勝利は、伊勢・尾張の豪族の力があったからだと爺は思っている。梅原猛氏の書のなかに、確か尾張の海部と丹後の海部氏とはつながりがあると書かれていたような気がする。また古代、熱田神宮の目の前は海だったハズだ。さらに尾張は物部の流れを汲むとも言われる。大化の改新は蘇我氏から物部へと力関係のバランスを図ったのかもしれない。だが、単純に揺り戻しでは駄目であるから、新興勢力として中臣(藤原)家が要ったのだろうか。

 元伊勢には、もともと伊勢神宮の原型があったのだろう。継体帝が若狭から丹後、天橋立に至り、ついに大和に入り即位したとすれば、天橋立付近に神宮があってもおかしくはない。

 大海人皇子は、天照大神に壬申の乱の勝利祈願をした時、勝利の暁には大きな社を伊勢の地に建てると約束したという話もあるそうだが、時系列的に見れば、全くつじつまが合わない。つまり、壬申の乱の論功によって、今の伊勢神宮ができたとすれば、面白いかも知れないが、空想もいい加減にせよと言われるだろう。

 以上の話は、完全な爺の作り事である。そして、古代天皇家の系譜を見ると、26代継体天皇は、それまでの天皇とは少し違うような気がする。今上天皇から見れば、竹田 恒泰氏より関係が薄いと言えるかもしれない。そんな継体帝の皇位継承は、正当なものだったんだろうか。歴史を楽しむには、勝手な空想も許してもらえるのでは・・・・。

 

 

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爺婆の恒例正月休み・・・伊勢神宮参拝

2014-01-24 06:01:11 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

 21日・22日と爺婆の恒例正月休みでした。

 相変わらずの過ごし方です。まずは外宮、そして内宮へ、それぞれ御垣内参拝をさせて戴きました。

  ・・・・・・・ と歩き、参拝後・・・・・は新旧正殿を一周。

 伊勢市駅から歩いて外宮へ。今年は例年の数倍の人出です。 旧正殿の前を通り過ぎ、新しくなった正殿へ。鳥居をくぐって左手の社務所前で記帳。その後、神主さんの先導で、御垣内へと進み、御正殿の前で参拝しました。

新らしくなった正殿前                             旧正殿前

 

 参拝後は御正殿の御垣を出、を通り真裏へ ・・・・・。さらに進み裏手から旧正殿の横を通り正面前までやってきました。ぐるっと一周させて戴きました。一般の方々より20~30mほど正殿に近い位置です。この位置はたぶん大臣クラスでないと近寄れない位置ではと勝手に思っています。

               

外宮正殿を囲う御垣横を通り正殿裏手へ               旧正殿正面(この位置に立てるのは20年後)

 外宮参拝後はバスで内宮へと。バス停には100人以上並んでました。例年なら精々20~30人ほどです。

正宮階段下                                   荒祭宮

 新しくなった内宮正宮。参拝者の少なくなったところでシャッターを切りました。この前後は団体客で階段もほとんど見えなくなる程でした。その後は荒祭宮へ。もちろん新しくなりました。右手が新しいお社。左手の小さな祠は旧社殿の有ったところです。

 

おかげ横丁

スゴイ人出です(2014.01.21撮影)        普段は人出が多くてもこの程度(?)

 20年に一度の遷宮は、やはりBIGイベントですね。伊勢市駅へ戻り、近鉄で大阪上本町のシェラトン都ホテルへと向いました。続きはまた・・・

 

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爺婆二人の観桜会

2013-03-27 21:46:30 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

 西尾市西浅井町にある源空院の枝垂れ桜を見に行きました。

枝垂れ桜が山門を覆うように 

 徳川家康の祖父の弟が、西浅井町に城を築きこの地方を治めた。彼が菩提寺(源空院)を建立し、当初から浄土宗のお寺として現在に至っていると、境内の案内板に書かれていた。なかなか由緒あるお寺と言えるようだ。

二本目の枝垂れ桜

 源空院の「源空」はもちろん宗祖法然上人の事だろう。

 小さなお寺だ。境内と言っても、総てで1000坪ぐらいだろうか? 実際のところは分からない。

お寺の裏手です

アイシンの工場がお寺に隣接するかのように近いが、周りはのどかな山里といった風情である。お茶畑が正に隣接していた。

満開の枝垂れ桜

本堂の左手に、松平康孝や歴代の住職、そして檀家のお墓などが並んでいる。武家はどちらかと言えば、禅宗に帰依する者が多いが、戦国時代戦乱の世のはかなさを思うのか、武家にも浄土信仰が広まっていったようだ。

弁財天の祠

 境内から本堂裏手の弁財天を祭った祠を見、お寺の周りをほぼ半周し再び境内に戻った。婆とふたり、「おしるこ」(1杯100円)を食べながら、観桜会は1時間ほど続いた。

本堂の内陣

 途中で、本堂の中に入らせて戴いた(お賽銭箱に100円入れた。)。 寺号の額には「浅井寺」と書かれていた。写してはいけなかったかも知れないが、禁止の張り紙が無かったので、シャッターを切った。 (お礼にもう一度お賽銭100円を入れた)

 かってはもっと大きな寺であったのだろうか?「源空院」というのはその中の最大の塔頭の名であろうか?機会が有ったらまた誰かに教えて貰おう。

彼岸桜(?)

  少し散り始めた桜もありましたが、ほとんどの桜が満開と言ってよい状態でした。お陰で曇り空では有ったが、雨の一滴も無く、のんびりとした爺婆の観桜会が終わりました。

 風も無く穏やかな午後で、一日久しぶりにのんびりさせて戴きました。また明日からぞ!ご来店お待ちしてます。

 夕方、マンションに戻ってからは、やはり久しぶりに本を読んだ。この話はまた、明日にでも・・・。

 

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孫と秋葉参り 2014

2012-11-13 06:58:24 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

 今日から恒例の秋葉参りに行ってきます。去年(ほぼ一年前)も孫と日帰りで秋葉参りをしましたが、今年は一泊二日の旅の予定です。

 婆が「麻央くん、去年行ったところへ今年もお参りに行くけど(あなたも)行く?」と聞いたところ、即「行く!」との返事だったとか。「お泊りするよ。大丈夫?」「うん!」 そんな事で、爺婆そして孫(年中組)の弥次喜多プラス1の旅をしてきます。

 

 今年もトヨタレンタカーでプリウスを予約しました。行ってきます。

 

 

 

 

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永遠の「いのち」

2012-09-04 06:24:37 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

 東北旅行の最後に、中尊寺に行ってきました。実に40数年ぶりです。人ひと人・・・昔の風情は全くありません。世界遺産になったのだから致し方無いのかも・・・。

 初めて訪れたのが、昭和42年頃、今東光さんが貫主に就かれた頃(1966年5月中尊寺貫主に晋山)です。記憶も全く曖昧で、国宝金色堂の「昭和の大修理」の修理中か直後だったと思います。修理中であればたぶん拝観は出来ないはずですから、きっと修理後だったと思われます。国宝に指定されていたとはいえ、月見坂を歩いてもすれ違う人も疎らだったと記憶してます。

 旧覆堂

  中尊寺には多くの仏様がいる。金色堂の仏様といえば、阿弥陀如来である。一緒に六地蔵が祭られている。金色堂以外では大日如来・薬師如来が目についた。薬師如来は現世利益的で「病気治癒」を願う仏様である。阿弥陀・薬師以外にも多くの如来があるが、如来の頂点に立つ如来が求められて生まれたのが大日如来であろう。折しも「一字金輪佛頂尊」という秘仏大日如来が御開帳されていた。 藤原道長の平等院鳳凰堂にも阿弥陀如来と大日如来とが祭られているとか・・・。平等院はまだ見ていないから、4年後まで生きなければイカンな。

 権力者(成功者)はいつまでも続く「権勢と健康」を求めるが、いつかは人は死す。そこで死した後「極楽浄土」に往生し、永遠の命を求めることになるのだろう。現代もある浄土系の宗教に集う「この世的成功者」達がいるが、平安時代の「成功者」達も、「いつまでも」を求めて、薬師如来に今を願い、権勢を欲しいままにと思うのか大日如来を祭る。だが、人は皆死ぬ。永遠を求めて阿弥陀如来に縋ることになる。後ろめたさが有るのか、地獄に落ちてしまったらと恐怖を感じ、もし地獄に落ちても助けて戴けるようにと「保険的意味合いで」六地蔵を祭る。人間とは身勝手なものだ。

 阿弥陀様の別名に無量壽仏がある。「壽(寿)」とは「いのち」という意味であり「無量壽(寿)」とは「永遠の命」とでも言えるだろう。結婚式に「寿」を記すのは、自分の命が子・孫・ひ孫・・・と永久に続く事を祈って記すのだろう。

 宗教も貴族から武士へ、そして庶民に広がっていくが、この世の無常を考えれば「永遠のいのち」を求めるのは、人として当然の成り行きなのだろう。法然さんの浄土宗、親鸞さんの浄土真宗など、阿弥陀様を本尊とする浄土系の宗派は多く有るが、薬師如来を本尊とする宗派は知らない。お医者様に縋り、ぽっくり逝けるようにと願をかけ、極楽に往生できるようにと、最後は諦めの境地のように思う。お葬式は極楽行きの「大乗」に乗せるための儀式となっている。

 今回の大震災で本当に多くの方が亡くなられた。極楽浄土が本当に有って欲しいものだ。そこには震災で亡くなられた方々が楽しく暮らしていると思いたい。

 

 

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ふたりの「豊俊」・・・

2012-08-28 06:58:27 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

 私には二人の「豊俊」がいた。

 一人は父「角谷豊俊」であり、もう一人は叔父(母の弟)「土谷豊俊」である。

 母の兄弟は12人であり、母は4番目(長女)、叔父は10番目(6男)である。何故、同じ「豊俊」という名なのかを小学生のころに母に聞いたことがある。父と母は「またいとこ」である。

 父が12~3歳の時に叔父「豊俊」は生まれた。父は秀才で且つ親孝行であったらしい。小学校卒業時に、校長から表彰状と副賞として座机を貰った。その座机は私が小学4年生まで使った覚えがある。そんな父「豊俊」に与かって叔父「豊俊」という名が付けられたそうだ。

 叔父「豊俊」は父とは全く正反対なような性格であった。思った事はすぐ行動し、挙句に「口の悪さ」では、天下一品であった。

母は35歳ごろから糖尿病であった。口癖のように「60(歳)まで生きれん(生きてはいない)」と。そんな母(65歳頃か)に「姉ちゃん、60まで生きれんというが、いつまで生きとるん」・・・・・これだけ聞くと酷いと思われるが腹の中は「姉ちゃん、これなら80・90(歳)まで行けるぞ。」という、叔父ならではの応援であった。

叔母さんとはお見合いと聞いた。お見合いの後数日後、返事が来ないと叔母さんのところへ行って「嫌なら嫌とさっさと言ってくれ」と。叔父ならではの最大級の求婚だった。

口は悪いが腹は無い。一旦信用されると叔父も裏切ることの無いように一所懸命努力した。雑な口の利き方からは想像が出来ないが、美的センスは母の兄弟の中では一番であった。絵を書かせてもピカイチだった。趣味もプロの庭師以上で、直接山へ行って木を選び、岩を選び、配置も自分で決め、素晴らしい庭を作ってしまった。盆栽も若いころからしていた。その盆栽の一つを「400万円で売ってくれ」と業者に言われたが、にべもなく断ったそうだ。仕事は綺麗に正確であった。裸一貫叔母さんと二人鉄工所を始め、一所懸命働いた。受注先からは絶大な信用を戴き、それはひとり息子に引き継がれている。

 そんな叔父「豊俊」が眠りについた。72歳、私より10歳年上であった。「淋しい葬式は嫌だ。甥姪もみんな呼んでくれ。」親戚・兄弟が集まると会話の中心にいつもいた叔父らしい通夜・葬儀であった。

 

 

 

 

 

 

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良かった・・・

2012-04-04 22:25:03 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

 昨日お通夜に行ってきました。

 春の嵐で、鉄道は運休や運転打ち切りなどもあろうと、予定より15分程早く出ましたが、結果としては、当初の予定より約45分程遅れて斎場に着きました。でもお参りできて良かったです。

 94歳、大往生です。そのお顔は堂々としているようにみえました。一週間ほど前までは元気に過ごされ、三度の食事もしっかりと食べられ、長く床に臥す事もなく、旅立つ事が出来たそうです。

 商いも成功され、ご子息・お孫さんはご商売を継がれています。

 きっと満足された人生、幸せな人生だったと思います。ご冥福をお祈り致します。

 24.04.03

 「生病老死」誰も避けられません。でも30年後(?)に、オレの人生良かったぞ!そんな顔して旅立ちたいものです。旅立つ者も残る者も互いに「ありがとう」と言えるように・・・。

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清澤満之と西方寺・・・時々、爺の独り言

2011-11-19 23:53:23 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

 「清澤満之」という名前を初めて知ったのは、高校3年(もう44年も前)の時の「倫理社会」の教科書で見た時の事です。書物一般には「清沢満之」とあるが「澤」が正式な名字らしい。その清澤満之の終焉の地「西方寺」は爺が生まれ育った家から300m余りのところにある。だが、そのお寺の境内で遊んだ記憶は殆ど無い。碧南にも「すごい人」が居たもんだと感心した。とはいえ、優れた哲学者という以外どんな人かは全く知らなかった。

 

 先日、中日新聞の地方版に「清沢満之物語」という冊子が碧南市の教育委員会から発行されたという記事を見た。A4判150余ページの冊子である。300円です。西方寺とは道路を挟んで東に「藤井達吉現代美術館」がある。碧南市が誕生する前は大浜町の町役場であり、その後は碧南市の商工会議所となり、今「藤井達吉現代美術館」に変わった。その美術館で販売されているので、配達の途中立ち寄り購入した。

藤井達吉美術館

美術館の右手に西方寺の太鼓堂がある。左、坂を下る道の先に爺の生まれた家がある。

左は鐘楼と正面山門  奥に本堂、右に庫裏と太鼓堂が続く

 教育委員会が出すものだから、すぐに読めると思った。オッとどっこい、そうは問屋が卸さなかった。中身が濃い。ちょいと片手間に読めるものではなかった。もちろん、浅学ゆえの理由が最大であることは言うまでも無い。

 西方寺は我が家の旦那寺ではない。だが、先代住職の奥様が弊店を気に入って戴き、店までわずかと言う事もあってよく立ち寄って戴いてました。先代の住職の確か一周忌の法要が営まれる時、その日迄10日程前だっただろうか、奥様が客用座布団50枚を急ぎ作り間に合わせて欲しいとご来店下さった。もちろん、いつもお世話になっている奥様のご依頼です。正味一週間無いこともあって、我が愚妻(婆)も必死に頑張りました。

 由緒あるお寺に納品で出来るのも、何かのご縁でしょうか、有難いものです。

 

この「清沢満之物語」を読み進めるうちに次のような文節があった。

・・・・私はここに来て病を養生する中で、生と死という問題を考えることが出来た。生と死は、「死生」という言い方でも分かるように死は単なる肉体の死ではなく、死を考えることによって、より生を輝かせる事が出来ると思うようになったんだよ。

 死を「喜びの生」の反対ととらえれば、死は「悲しみの死」ということになる。しかし、私は死と生を対立的にとらえるのではなく、生というものの中に死というものが存在していると思うのだ。だから私は、宗教の根源的な問いは、「死」をどう考えるかということだと、いつも思っているのだよ

以前、道元禅師の映画を見た時同じような言葉があったように思えてきた。・・・・・・・・・・・

 あと何年ふとん屋ができるかな・・・。   こんなこと書くようじゃ本当に爺だなぁ・・・・。

 

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孫と秋葉参り

2011-11-17 16:32:33 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

 昨日(16日)例年の行事である「豊川稲荷・(三河一宮)砥鹿神社・秋葉神社下社・可睡斎」と4か所を巡る小旅行に、今年初めて4歳になる孫が付いてきた。例年は1泊二日だが、訳あって今年は日帰りの強行軍となった。

 孫は保育園児(年小組)であるが、店のお休みに合わせて、彼の休みも水曜日である。秋葉参りに一緒に行くという事になりマンションに前泊した。

 最初に豊川稲荷である。何をお願いしたのと聞けば「良い子になりますように。」ここまでは「うんうん」と聞いていたが、続く言葉にびっくりした「悪い事をしても、婆に怒られませんように」だって。

 パラマウントベッド寄贈のキツネ(狛犬に相当)の前

 続いて砥鹿神社。そう言えばこの孫「七五三」である。どこかへお参りに行ったかと聞けば行って無いという。急遽「七五三のお祓い」をして貰うことにした。終わって本殿前で記念写真を撮った。撮るよと言った途端にこのポーズ。仮面ライダー(?)のポーズらしい。何故か写真を撮ると言うと「しゃらくさい(洒落くさい)」ポーズをする。半分呆れながらシャッターを切った。

 砥鹿神社本殿前にて

 途中、旧春野町に入ったところで道の駅で休憩。昼食を摂る予定であったが、残念ながら食堂はお休み。ミカンとポテチとを食べ、昼食の代わりとなった。

 天狗さんは大きいんやと感心した様子

 婆の作法を真似しながら無事参拝も終わった。

 最後は可睡斎。禅宗のお寺である。奥の院に秋葉総本殿三尺坊大権現が祭られている。

  秋葉神社と可睡斎とは、SETのようなもの・・・

 流石に四ヵ所目ともなると、疲れが出てきたようだ。一段ごとの高さもあり、4~50段ほどの石段が登れないと・・・。境内の半分ほどをお背負って廻った。境内の池には浮橋が架かっている。少しばかり故意に浮橋を揺らしながら渡って行くと、「怖い、怖い」と言いながら、背中にしがみ付きながら面白がっていた。

  ほぼ予定通りに進み、東名高速に乗り、途中浜名湖SAで早めの夕食を摂った。その時突然ビックリするようなことを言いだした。「麻央、婆んちの子供になる」・・・?!! 将来はこの子が5代目を継いでくれたらとは思っていたが、余りに唐突なことで只々ビックリしてしまった。

 よくよく話を聞いてみたら、要は「爺婆のお家(マンション)に泊まりたい」という願望からでた言葉だった。4歳の子が自分の将来人生を考えるなど思いもしなかったから、一瞬とはいえ唖然とした。マンションに泊まりたいという願望から出た言葉ということは、婆は分かっていたから、「もう少し大きくなってから決めようね」と言い含めていた。

    

 大笑いやら、ドキドキやら、一日孫といるといろんな事があるものですね。

 

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恐山に行きました。

2011-07-20 11:04:55 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

 友の墓参りをした後、恐山に向かいました。今回で恐山へは3回目です。過去二回は、ともに学生の時です。次弟と行ったのと、昨年11月に亡くなった高校時代の友N君と行ったのとでは、どちらが先だったかは忘れました。でも、初めて行った時のあの硫黄の臭いと宇曽利山湖の神秘的な青さは強烈でした。

 およそ40年前、N君とは弘前の下宿から恐山そして十和田湖まで旅しました。学生時代は電車とバスを乗り継いでの旅でしたが、今回は婆とレンタカーで回りました。

 

 赤い太鼓橋の下を流れるのが、三途の川です。死者は(渡し賃六文が無いと)三途の川を渡る時に奪衣婆(左)に服を全てはぎ取られ、懸衣翁がその服を木(柳)の枝に掛け、枝のしなり具合で生前の行いが分かり、その後閻魔大王の所で、極楽行きか地獄行きかが決められるそうです。

 初めて訪れた時は、こんな像があったろうか? それより宇曽利山湖の水の色が薄かったというのが率直な感想である。初めて訪れた時は硫黄の臭いももっともっと強烈であり、湖の色も濃いコバルトブルーという感じでした。とにかく強烈な印象でした。東北地方の梅雨明けが発表された途端、青森県地方は梅雨に入ったような感じでここのところ雨の日が多いとフロントの方が言っていた。

 雨によって宇曽利山湖への流入量が多い為か、40年前に比べ硫黄の量が半減したみたいだ。婆に硫黄の臭いには「覚悟しておけ」と言ったが、拍子抜けであった。「玉川温泉のに比べると大したこと無い」などと言われ、面目丸つぶれといったところだ。

 

 硫黄が噴出し、賽銭が変形変色していた。

 これが賽ノ河原(?)。数㎝ほどの小さなお地蔵さんがあちこちに祭られていた。

地獄に落ちた人々を救う六地蔵

   

  下北半島には有名(?)な「はまなすライン」(国道279号線)がある。学生時代にはすでに出来ていた。何が「有名か?」って、写真を見ても分からないかもしれないが、「起伏が多い道である。道を平らにするために山を削ったり谷を埋めたりするのだが、この道はほとんどしていない。だから、地震に強い道だと聞いた。確かに走ってみると面白い。

 近くに自動車専用道路が造られているが、ちょっと遠回りだが「はまなすライン」を最後まで楽しんで走った。

  その後は一気に奥入瀬渓流ホテルまで走った。N君と旅した時は青森駅から国鉄バスに乗り十和田湖に向かった。最終便(青森夕方出発)は十和田湖まで行かないと言われたが、何とかなるだろうと乗った。終点に着く時は、客は学生3人だけだった。夜8時近かったと思う。辺りが真っ暗な中、バスは終点のホテルに着いた。バスの運転手さんがホテルに掛けあい、安い料金で泊めて戴いた。そのホテルが奥入瀬渓流ホテルであったかどうかは今となっては全く分からない。案内して戴いたホテルウーマンにそれとなく聞いたら、その当時(40年前)、このホテルがあった可能性は低いとの事だった。ホテルは違うかもしれないが、N君と泊ったのはこの辺りと思っている。

 奥入瀬渓流ホテルの話はまた明日。

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墓参り・・・浅虫・久栗坂

2011-07-17 08:18:04 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

 今回の旅の最大の目的は、5月12日に急逝した大学時代の友の墓参りである。墓のある場所は青森市の久栗坂という所で浅虫温泉のホテルが見える場所である。学生時代一度だけ彼の家に泊った事があった。家の裏手から数メートルも歩けば海岸だったと記憶している。冬は雪で大変だろうが、夏場は良い場所だ。

 沖に浮かぶのは浅虫・湯ノ島である。

 この地区は、かっては採石場でもあり、どのお宅の墓も立派である。「」としてまとまった地区でもあり、共同の墓地である。お寺は観音寺と言い浄土宗のお寺だそうだが、地区の方々の宗派はいろいろだそうだ。住職は宗派に関係無くお世話してみえる。

 山は採石場  中央の煙突のある建物は火葬場だそうだ。

 この地区の方の殆どが、ここで荼毘に付される。薪だから時間がかかると、案内して戴いた住職の奥様に説明して戴いた。それを聞いて、かってインドのガンジー首相の荼毘をTVで見た時の事を思い出した。1時間程度で灰になる現代の火葬場と違って、故人が本当に煙と共に空(極楽)に行くような気がする。

 一般庶民が、今のような墓(墓石)を作るようになったのは、時代も相当下って江戸時代、まずは豪農・豪商からとか。平安時代は貴族でさえ墓といってもどこかの山中に埋葬し、印に石を置いた程度だったようだ。だから、墓参りに来た人(貴族)が墓の位置が分からなくなって適当に墓参りをして帰って行ったと何かの本に書いてあった。

 一般に火葬にするのももちろん、江戸時代だろう。父の叔父さんが稲武(現豊田市)に住んでいたが、無くなった時ご近所の方々が土葬のために穴掘りをしたと、父がびっくりしていた。昭和40年代だった。京都・嵯峨野に、あだし野(化野)の念仏寺がある。字の通りかっては死者を運び骨になるまで放置したところだ。人の死骸が1時間余りで無くなる現代と違って、時間をかけて人の死骸の変化を見れば「人の死」の意味が理解できるような気がする。 死すれば穢土での地位や名声も全て無くなる。

 でも、働く。生きた証を残したいからか・・・。

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眠りとは再び覚醒できるものを言うが・・・

2011-05-14 06:48:39 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

 彼とは、大学時代同じ下宿にいた。不精な爺と違って、いつも年賀状など戴き律義な彼であった。昨日奥様から知らせを貰った時は、本当にショックだった。一日落ち着かず、仕事もミスの連続だった。年に1~2度だが電話する。毎回のように今度こそは「逢おう」と約束するのだが、もうできない。毎年、彼から極上のリンゴが送られてくる。最後(昨年11月)のリンゴは王林・金星・サンふじであった。リンゴを見るたびに彼を思い出す事になるだろう。

 中年の頃・初老の頃・・・いつも逢っていたように思うのだが思い出せない。彼と最後に逢ったのはいつだろう。ひょっとしたら、昭和50年3月が最後だろうか・・・。長女が生まれる2カ月ほど前、お腹の大きい女房を連れて、姫路城を見に行こうとした時のことだ。それぞれ上り下りのホームで電車を待っていた。線路の向こうに彼が立っていた。歴史の教師である彼は春休みに関西各地を旅していたのだ。奇跡的だった。彼は、急遽予定を変更して、我々と一緒に姫路へ行くことにした。毎年のように逢っていると思えるほどだが、以来彼とは逢っていないようだ。25歳の時の顔から爺の頭の中は変わっていないのかも…。今、息子さんが25歳前後だろう。35~6年ほど前の彼に逢えるだろう。

 彼は永遠の眠りに就いた。また一人友達が目覚める事のない眠りに。

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「快眠ひろば」は天職なり

2011-03-08 23:48:53 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

 人生、何故そんなに急ぐ必要があるのだと思う時もある。だが、急がねばならない。時間が無いのだ。人生わずか80年程度だ。かって信長が愛した(と言われる)幸若舞に「人生五十年下天の内を比ぶれば、夢幻の如く也。一旦生を得て滅せんもののあるべきか」とある。爺に残された時間がどれだけかは分からない。

 

 7日に、植村浩(小野ふとん店社長)様の葬儀に参列させて戴いた。彼は「快眠ひろば」の中部・北陸の地区リーダーである。彼は最後まで、仕事の事・家族の事を考えていた。家で寝ていることが出来ず、店先に置いた車の中に横たわって、店を見守っていたという。壮絶な最期と言えるかもしれない。「快眠ひろば」に巡り合って「天職を得た」と言ったそうだ。さあこれからという時に、逝ってしまった。その悔しさは幾ばかりか・・・。

 『あなたが無駄に過ごした今日は、

 昨日死んだ誰かが死ぬほど行きたかった明日なのだ』

 石川寝具ランドの四代目のブログの中に書いてあった。マンガのなかの一節らしいが、何度も何度も読み返してしまった。

 8日、チェーンの特別プロジェクト会議があり、朝から大阪へ行った。行き帰りの新幹線の中で「正法眼蔵Ⅰ」を読み始めた。現代文訳ではあるが、極めて難しい。以前、映画「道元」を見た後、書店に立ち寄って買った二冊の内の一冊だが、凡そ一年ほど積読状態であった。

・・・諸々の現象のなかに自我の在りようを認識するのが悟りである。迷いを迷いとして大悟するのが覚り得た人々であり、・・・

 たぶん、植村さんは自我の在りようを認識でき、迷いを迷いとして大悟することができたのだろう。 でも訊ねることはもうできない。

 我々が葬儀に参列する意義は、故人の生き方を知って、己の人生を反省し、更に、これからどう生きるべきかを再考する場を与えられたと思うべきかもしれない。時間の歩みは万人に等しい。だが、人生の長さは自分の意思で決められない。人はよく「生かされている」という。その「生かされている時間をどう過ごすか」が人というものなんだろう。彼のDNAはご子息に受け継がれていくだろう。ふとん屋を継ぐことが目的ではない。お父さんがどう生きたかということを受け継ぐことが大事である。

  また、春は巡って来る。でも、同じ春はもう二度と来ない。この世は無常なり。

 今までの経験から、どうしても人は判断してしまう。経験不足を少しでも補うために、本を読んだり、人の話を聞こうとするものである。

 こうたろうくん! 世の中の皆さんの健康のため快眠のため、役に立ちたいと思い「快眠屋おの」を背負って行こうとするなら、「快眠ひろば」の同志はきっと力になってくれるでしょう。

・・・・・植村浩様のご冥福をお祈りいたします。

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日本で最も古い観光地・伊勢神宮・・・・H23正月休み(1)

2011-01-20 23:39:50 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

 17日からは爺婆の正月休み。

 初日17日、愛知県地方は10年ぶりの大雪だったようです。更に事故が加わり運休と遅れの名鉄でした。いつもは1時間程度で名古屋に着くのが、1時間40~50分掛かりました。でも、近鉄電車はほぼ定刻通りに運行されてました。予定のある旅では無く、お伊勢(内宮)さんに着いたのは当初の予定から1時間程度遅れて午後1時頃でした。

 御垣内参拝をさせて戴き、気持ち良く一年が始まった感じです。その後「荒祭宮」「風日祈宮」をお参りしました。途中「荒祭宮」の手前にパワースポットのブームなのか杉の木の巨木がありますが、多くの方が撫ぜたたとみえて一部がツルツルでした。若い方は観光案内の雑誌を見て、お年寄りは観光バスで、お伊勢さんは観光地そのものです。もっとも江戸時代はもとより、古くは平安時代から「伊勢」は観光地だったようです。

         伊勢神宮正宮  

 正宮の裏(後ろ)にある荒祭宮

 

 罰当たりな話を一つ。・・・・神宮は何故「伊勢」にあるのか考えたことありますか? 継体天皇の出身である「福井」ではいけないんでしょうか。初代天皇である神武天皇にゆかりの「吉野」「大和」では?海の幸・山の幸に恵まれた「丹波・丹後」とか「淡路島」ではダメなんでしょうか?

 今から記す事は全くもって根も葉もない爺の私見であり、戯言です。

 天武天皇が壬申の乱で勝利することが出来たのは、伊賀から伊勢の豪族のお陰であったと思います。出家をして吉野に身を引いていたが天智天皇の崩御のあと吉野を抜け出し、都に向かいました。だが、近江の力は強く入京できる状態ではありません。方向を変え、伊賀そして伊勢へやって来ました。家康が伊賀越えののち三河に帰ったように、大海女皇子も伊賀を経由して伊勢に入りそこで挙兵したのだと思っています。途中美濃に至った時尾張など東国の豪族の助けを得て、近江朝廷を倒すことができたのだと思います。

 道案内をした伊賀衆それを象徴するのが椿大神社(猿田彦)であり、彼は道案内の神様となったのだろう。内宮近くにある猿田彦神社は分社で、時代もずいぶん後と聞いている。猿田彦は名前から想像するに、猿のようで、忍者のように身軽だったのだろう。神武天皇が大和に入る時道案内をしたという話だが、神武天皇が歩いた九州から吉野そして大和までの何処でもない伊賀を抜けたところ、今の鈴鹿市に椿大神社があるのは、神武天皇ではなく、天武天皇の案内人だったからだろう。また、日本書紀・古事記は天武天皇の後に創作された物語である。全て創作ではないだろう。何処がフィクションで、どこがノンフィクションか考えてみるのも面白いだろう。

 そして、挙兵をした時の殊勲を感謝して伊勢に神宮を造っったのではなかろうか。(伊勢)神宮を何処にするか各地を転々としたが、その各地とは壬申の乱で味方に付いた各地であったと思うのです。伊勢は海の幸・山の幸に恵まれまた温暖な気候の地です。お伊勢参りは今で言うならさしずめ「リゾート」へ行くことのようです。

           女人高野室生寺 

 都から伊勢へ行く道程は大きくは3ルートありました。①明日香から伊勢へ行くには、桜井から曽爾村を経由し朝熊に抜けるルートいわゆる伊勢本街道です。名松線の当初予定ルートに近いです。②奈良から伊勢へ行く道としては伊賀または名張へ抜け松阪へと行く道でしょう。③京都・近江から伊勢を目指す場合は伊賀から津・松阪・伊勢へと行くルートでしょう。関西本線・紀伊本線・参宮線のルートです。

 女人高野室生寺を立ち寄るルートも有ったでしょう。この他にもルートはいろいろあったと思われます。 

 いずれの時もあらゆる人々にとって伊勢は一生に一度は行ってみたい所だったのでしょう。現在はハワイかパリといったところかもしれませんが・・・。そして、いつも日本人は「何でもアリ」の民族だったのかも知れませんね。日本という国は「八百万の神々の国」ですから、他の神様もさらに外国の神様も受け入れちゃうんです・・・。この、めちゃくちゃな日本が爺は大好きなんです。

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