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上手に眠れば元気になれる・・・ オーダー枕とベッドの快眠ひろば

寝具の商品情報から正しい使い方まで。健康的に上手に眠る(科学的?)サイト。ふとん屋の爺の「寝言戯言独り言・趣味」の話。

お伊勢参りから始まる爺婆のお正月休み

2011-01-17 02:08:26 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

 1995年1月17日、その日も爺婆の正月休みの初日だった。碧南は震度4だったと記憶している。大きな揺れでびっくりして目が覚めた。その時は「大阪の方で大きな地震があったようだ」程度にしか思っていなかった。その日、西伊豆の戸田(今は判らないが、当時俳優の渡瀬恒彦さんがオーナー)のペンションを予約していた。伊豆に近づくに連れ、ラジオから流れるニュースの度に被害は大きくなっていった。ペンションについてTVを見れば、そこには地獄のような絵が映っていた。その日の泊りは2組、翌日は爺婆だけでした。皆キャンセルだったようです。16年目の今日、あの時と同じ17日爺婆のお正月休みが始まります。爺の両親はその後病で亡くなりましたが、娘たちは嫁ぎ、孫も3人になりました。大過なく平凡に過ごせたことは神仏に感謝するものです。

                         

 今年もお伊勢さんにお参りに行く事から始まります。

 そして今日(17日)は志摩で泊り、伊勢えび・松坂牛・アワビなど戴くことになっている。数日前の苦しさをもう忘れている訳ではないが・・・。

           志摩の旅館のパンフレットより

 明日(18日)は大阪へ、と言っても予定はあるようで無い。天候次第で行動は変わる。寒いのは嫌だから温かい所をできるだけ歩くことになろう。その夜は、婆の60歳の還暦を祝ってホテルで食事の予定だ。明後日(19日)は歌舞伎を見て、帰ることにしている。 7~8年前からお正月休みは伊勢さんへ行って、更にここ4年程は歌舞伎を観ることが加わり、パターンは余り変わっていない。パターンが変わっていないと言うのも「幸せ」というものかもしれない。変わっているのは泊るホテル(旅館)と爺婆の歳と容姿ぐらいだ。

 突然だが、こじ付け的に話が飛びます。

 最近のホテル・旅館は食事や施設がとても良くなったと思う。だが、こと寝具の事になるといろいろである。寝具(ベッド)を売りにしているホテルが増えてきているが、まだまだ寝具(ベッド)がお粗末な所がある。パンフレットやHPを見ても食事は美味そうに、施設(風呂など)は癒したっぷりに表現されている。今回予約してある志摩のホテルと大阪のホテル、HPを見ていると食事・風呂そしてベッドにも期待できそうだ。後日報告致します。

 では、・・・・・・。

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訃報

2010-11-21 16:46:59 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

 今、訃報が来た。

 高校時代の友人の、正に思いも由らぬ知らせであった。呉服の販売会社を経営している友人で、リーダー格の彼であった。

 大学時代の夏休み、彼が弘前の下宿に来たこともあった。二人で奥入瀬渓流を歩いたり、子ノ口から休屋まで歩いて十和田湖を半周したりもした。恐山にも行った。

 彼は京都の立命館大であった。逆に爺が夏休みに彼の下宿に転がり込んで、京都の神社仏閣をいろいろと探訪したことも・・・

                                            

 言葉が無い。  間違いであって欲しい。

                      ・・・・・・・・・・冥福を祈るだけだ。

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地元はお祭りですが・・・

2010-10-10 21:14:24 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣
 今日は、地元のお祭りです。昨日は宵祭り。昨日(9日)午前中はまだしも、午後からはドシャ降りでした。警報が出たぐらいです。昨日宵祭りはほぼ中止でした。ここ数十年あれだけひどい雨の日になったのは記憶にありません。
  一転、今日は上天気で、暑いぐらいでした。10月になったのに、今年は、まだ半袖でOKといった気候です。爺が厄で山車を出した33年ほど前は、宵祭りは寒さを感じて少し震ったような記憶があります。温暖化なんでしょうか。 特に、今年の夏は例年とは比較にならないほど暑かったですね。TVで気象予報士さんが言ってました、今年は例年より季節の移りが2週間ほど遅れていると。 「暑さ寒さも彼岸まで」と言いますが、2週間遅れてますから、ようやくお彼岸の気候になったというところなんでしょう。

  
 祭り風景・・・山車が町内を回り、辻辻で三番叟が奉納されてます。昼のころ、見物者はまだまばらです。3時過ぎに神社に入りますが、神社では足の踏み場もないほどに込み合います。



 狭い路地も隊長の号令一下、舵を切ります。時には切りそこなって民家に飛び込むこともあります。

  9日土曜日、そんなドシャ降りの中でもお客様はご来店戴きました。気温は少し低めで暑いという感じはなかったのですが、少し蒸し蒸しした感がありました。大雨警報が発令されましたから、開店休業になると思ってましたが、午後から雨の中をいつもと変わらぬお客様の数でした。窓や入口は閉めっきり状態ですから、店内を走り回っていた店員は汗をかいていました。結果エアコン(冷房)を駆けることにしました。
 梅雨の時期や秋の長雨のこの時期、夏布団は要らないが、かといって羽毛布団では少々暑いようです。そんなこともあってか、この日は快適な布団は何?とお客様はご来店いただきました。
 真綿ふとんをお勧めしました。きのうだけでも真綿布団を5枚ほどお買い求め戴きました。ありがとうございました。なぜ、この時期真綿ふとんが良いのか・・・真綿ふとんは、羽毛ふとんより「吸湿性が良い」からです。


 一転、今日は上天気です。連休もあって、遠方からのお客様がオーダー枕をお求めにいらっしゃいました。午前中5名、午後4名と、調整の方が2名、他にもベッド(ブライダル)のお客様が2組あり、「立位測定器」はフル回転でした。


 例年10月第二土日が祭礼です。本来は10月15日と決まってました。しかし、一般家庭の方々にとってはまた、子供にとっても平日より土日のほうが良いということで、爺の父が町内会のお役をさせて戴いた30年ぐらい前から、第二土日と変更されたようです。
 第二土日となってからは、爺としては町内会の役の時を除けば、10月の繁忙期に祭りだからといっても、神社に行くことはありません。行ってるヒマがありません。
 いまでは、お店の近くで三番叟が奉納されるのを見ることが、唯一のお祭り気分を味わうことのできる時間(20分程度)です。
 三番叟の人形は3人一組です。「手」「首と胴体」「足」の3人です。爺も若いころはこの三番叟の「手」をやらせていただきました。時々、孫を膝の上に載せて「オオさいやオオさいや~。我がこのところより・・・」「あいひゃふふぁ、あいひゃふふぁ」と掛け声をかけて楽しんでます。孫も面白がっています。

 やっぱり、お祭りは良いですね。信ずる宗教によってはお祭りはしない方も最近はあるとか・・・。爺はお祭りは宗教ではないと思っています。護国神社や靖国神社と同列には考えられませんが、村社のお祭りは地元の文化・風習だと思っています。肩ひじ張らずに楽しみましょう。
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間違ってました。

2010-02-03 01:08:02 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

 過日、大浜大仏は阿弥陀如来ではなく、釈迦如来ではないかと書きました。

 調べに「海徳寺」へ行けばいいのだが、忙しくて行ってる暇がありませんでした。すると、今日、碧南市の広報がポストに入ってました。何気なくペラペラと見てましたら、裏表紙に海徳寺の本尊の写真が載ってました。

 この写真はたぶん、文化庁の調査があった時に、台座から降ろされ撮影されたものだと思います。

          

 印相をを見るとどうやら九品印・下品上生印のようですね。

 檀那寺であり、小さい時から見ているのですが、丈六の座像ですから結構大きいんです。台座に乗っているから更に大きく感じ、子供心に「すげぇ」としか思う事はありませんでした。仏像に興味を持つようになってからもマジマジと見ることはありませんでした。 生半可な知識で、結局間違ってました。本当にすみませんでした。

                   

 お詫びがてら、ご近所を宣伝させて戴きます。

           

 すぐ近くに「清澤満之記念館」のある西方寺があります。目の前には藤井達吉美術館もあり、日限地蔵から海徳寺まで数百メートル内にあります。もし、市外の方が碧南にお越しの節は、ぜひとも見て下さい。なお、「九重みりん」の本社工場も隣接してます。また、帰りには「十一八」の鰻をぜひご賞味ください。鰻通には評判のお店です。また、稲荷社の十月第二土日の祭礼には、(時価ん憶円?の)山車がでます。

        

 中区内を練り歩き、各町内の所々で三番叟が演じられます。爺はこの三番叟の手を受け持っていました。始まりは見物客もパラパラですが、神社に到着するころは足の踏み場も無いほどに人が集まります。最後に(たしか)八代目玉屋庄兵衛さんが復元した「浦島」というからくり人形が奉納されます。浦島太郎が一瞬にしてお爺さんになるところは見逃さないでください。見逃したら次は一年後ですよ。

こうしてみると、碧南(爺の生まれ育った大浜)もまんざら捨てたものではありませんね。

道に迷ったら、地元の人に尋ねて下さい・・・「そこを左にまぎるとすぐだ。」と教えてくれます。「まぎる」とは「曲がる」ことです。「左にまぎる」とは「左折する」ことです。

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日本人を堪能してきました。

2010-01-21 01:08:23 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

 19日~21日まで、爺婆の正月休みと書きました。

 ところが、お休みは20日で終わり。えっ!夫婦喧嘩したの?って。いいえ、違います。やんごとなき事が起きまして、急遽帰ってきました。もちろん帰らなくても好かったのですが、心配事がありオチオチと休んでいられなくなったんです。

 

 初日(19日)はまずもって伊勢神宮にお参りをしました。

   

          宇治橋                     正宮 石段下                  荒祭宮

 新しくなった宇治橋を渡り、正宮へと。昨年同様に「御垣内参拝」をさせて戴きました。その後、別宮である荒祭宮と風日祈宮とを参拝して、近鉄にて大阪に向かいました。

 大阪は道頓堀の松竹座へと行きました。歌舞伎は今年で3回目です。

                 

 今回は「仮名手本忠臣蔵」の夜の部を観劇しました。あらすじは、大方分っているとはいえ、映画やTVの忠臣蔵とはまた違います。

 初めて歌舞伎を見た3年前は橋之助の弁慶、昨年は扇雀の若旦那、我當の良弁などが特に印象に残っています。今年は、藤十郎の大星由良之助も好かったが、中でも、「天川屋義平は男でござる」の名セリフの我當さんは、粋でしたね。我當さんは正直はじめは知らない役者でしたが、毎年見るたびに好きになりました。歌舞伎の世界は直系実子が名跡を継ぐようです。でも、我當という名も名跡のようです。片岡仁左衛門の名跡は弟の孝夫さんが継ぎましたが、血筋を聞けば「なるほど」とうなずける役者さんと思いました。

 歌舞伎のことはまだまだ知らないことが多く、??がいっぱいです。でも、来年は江戸歌舞伎を見てみたいと思います。

 二日目の話は明日にします。 今日はこれで 

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仏像ブーム・・・わが極楽浄土はいずこ。

2009-12-28 07:17:20 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

 年の瀬・12月に入ると恒例の「今年の流行」や「流行語大賞」など一年を流行や販売番付などが話題となり、特集記事や年末特番があちこちで組まれている。その中で、「仏像ブーム」がランクインしていた。

 仏像や仏教が興味を持たれているとは、嬉しいことだ。とりわけ仏像一番人気は「阿修羅」だそうだ。爺も好きな仏像の一つでもある。ところが、その理由はと聞けば、かっこいいとか、彼氏にしたい感じなど・・・思わず「へエ~」としか言いようがない理由だ。確かに「阿修羅」の正面のお顔は闘争を好む鬼神とは到底思えぬ優しい顔である。平安の美少年と言われるように、イケメンである。

 そんな阿修羅像を初めて見たのは記憶は定かでないが、確か間もなく成ろう大学4年の時であったと思う。40年近くも前の昔のことだ。高校2年の夏から爺の古寺巡礼は始まった。本格化したのは大学生になってからだ。主に春休み(夏休みも時にはあった)一週間から10日間ほど京都・奈良の安宿をベースにカメラと「大和古寺風物詩(亀井勝一郎著)」なる単小本を持ってうろついたものだった。

 興福寺に入山した時、実は何となく嫌であった。何が否かというと商い上手な感じがしたからだ。当時、薬師寺もそうだったが大寺は殆ど拝観料だけでなくいろんな手段で収入を増やしていたようだ。撮影禁止が殆どだったから少し高価なカメラを買った。F1.2・ASA400のフィルムを入れ、フラッシュなしで隠れてカメラのシャッターを切ったものだ。だが、阿修羅はダメだった。監視の僧が居たからだ。仕方なく八切りの写真を買ってきた。当時は白黒写真であった。ず~と、爺の部屋に飾ってあった。

         

 そんな仏教に興味を持ち、その後も仏像の本を多数買い込んで読んだだものだった。

 如来・菩薩・明王・天部と大きく4つに大別される。この阿修羅は、天部に入るのだろう。明王迄は男女の区別は無いとされている。表現としては、如来は実在した釈迦をモデルにしているので男性的である。菩薩すなわち観音様などは女性的に表現されている。明王は憤怒の形態という表現が普通だから男性的である。また、明王は如来の化身であるとも言われている。

 天部は大部分がヒンズー教などの神々が仏教にとりいれられたものだそうだ。毘沙門天は男性で奥様は吉祥天である。また、梵天の妻は弁財天とも言われるように、男女の性が存在する(婚姻関係の記憶は間違っているかも)。 

 阿修羅はもちろん男性である。自分の娘が帝釈天の妻になるということに、当初反対はしていなかった。だが、帝釈天は順を踏まずに、娘をさらうようにつれて行き自分のものにしたという。怒った阿修羅は帝釈天に戦を挑むことになった。そこから戦いの場や血生臭い場面を「修羅場」というようになったそうだ。男親は娘が可愛いものだ。婆と娘は時に女同士の戦いをする。「まあまあ」と婆をなだめると「あんたは娘に甘い!」と一喝される。

 そんな時は消えゆるように婆の前から逃避する。風呂にゆったりと入って、今ならムートンの敷かれたベッドに潜り込むのが最善策となる。掛け布団はまだ合い掛である。ベッドの中は爺にとっては「往生極楽院」といった所だ。

おやすみなさい。  否、朝だ。極楽から娑婆世界へ。これが現実だ。

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火事・・・

2009-11-13 02:04:53 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

 昨日の続き・・・

 ふとん屋・綿屋という商いをしている人にとって、火災は本当に怖い。

 確か皇太子様(秋篠宮様だったかも)がお生まれになった時だったと記憶している。学校に居た時、サイレンが鳴り「ああ・・生まれたみたいだね」などとみんなで話をしてた。

 家に帰ったら、そのサイレンは火事のサイレンであり、火元がわが家(ふとんの仕立て場)であったことにびっくりした。消防車が来た時には大方鎮火していた。いわゆるボヤであった。家の隣が木型工場であり、そこには若い見習い工からベテランまで十数人が働いていた。爺の母が手に軽い「やけど」を負ったが、彼らが駆けつけての速やかな消火作業のお陰で大事にはならなかった。

 冬は、ふとん作りの職人さんの手(指)を温めるために練炭火鉢を作業場の片隅に置いていた。火事のあと爺の母は、火の神様である火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)をお祭りする静岡県の秋葉神社(下社)にお参りに行くことを父に進言した。以来一年の安全を祈念して毎年練炭火鉢に火を入れ始めるこの時期にお参りに行くのである。十数年まえから、それは爺と婆の役目となった。

  鳥居をくぐり、階段を上る。昇り終えると拝殿。 

 上社には一度だけ行ったがなかなか立派である。だが、秋葉神社の下社は粗末である。そんな粗社だから庶民の心が届くような気がする。朱塗りの立派な上社はセレブな人が行くところのように思えてくる。この時期周りの山々の紅葉も楽しみの一つである。

        本当は11月後半が良いのかも・・・

 東京の「秋葉原」という地名は、この秋葉神社からきているとか。火の神様だから参道には消防署のポスターも多い。これだけ庶民に近い神様だが、どこか寂しい神様のよう思える。いろんな神社に祭られているが、本殿ではなく摂社が多い。父であるイザナギ神から疎まれたからだろうか(イザナミの死因はこの火之迦具土神を産んだから)・・・爺の勝手な思い過しか。

 秋葉神社に参拝したのち「可睡斎」に参拝して帰ってくる。元々禅宗のお寺である。家康幼少の頃、この寺の住職に助けられたということで、法堂の屋根には葵の紋が入っている。格式の高い寺である。明治の廃仏毀釈の時、この寺の奥の院に旧秋葉寺の本尊「三尺坊大権現」が祭られたそうだ。見たことはない。

  三尺坊大権現を祭る奥の院 手前に天狗の像

 爺の父母から聞いたことなので、真偽のほどは判らないが、「秋葉神社は火を興し、可睡斎は火を収める」から、両方お参りしてこそ意味があると言われた。また、火を消すのではなく「火をおさめる」ことから、会社の安定を祈念してこんなものが境内にはある。

  大きな火箸と灰取り(スコップ状正式名称は知らない)  アイシン高岡工場から

 

 このあとは東名高速で豊川稲荷と三河一宮の砥鹿神社へと参拝しました。

        

 右奥が豊川稲荷の本殿。手前の狐様(左右一対)は「木村寝台工業株式会社」からの寄進です。「木村寝台工業株式会社」ってどこの会社? 「パラマウントベッド」の前社名です。

 全国の神社・仏閣をお参りすると、結構有名な会社(社長さんも含む)が参拝寄進されてますね。 たくさんの寄進で会社が大きくなるなら事は簡単です。

 「天は自ら助くるものを助く」

 

 今では我が家(会社)の歳時記になった秋の二日間の旅でした。

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おくりびと・・・人は死んだらどこへ行く。

2009-09-22 06:53:52 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

 映画館で見たいと思いつつも、貧乏暇なしで、見る機会を失していた「おくりびと」が、TVで放映された。

 日本人の死生観が良く描かれた映画だと、感動しつつ見ました。

               

 「死」というものに対して、日本人はどうしても忌嫌うところがある。「死は汚らわしい」ものだというのは、イザナギ・イザナミの二神の話がその発端であると思う。

 夫婦である二神はとても仲が良かった。だが、イザナミは今流に言えば、産後の経過が悪く死んでしまった。イザナギは愛する妻イザナミに逢いたいと、黄泉国(よみのくに)まで逢いに行く。が、見てはいけないというイザナミとの約束を破って、明かりを点け見てしまった。そこには腐敗してウジにたかられ、見るもおぞましきイザナミの姿があった。醜態を見られ怒り狂ったイザナミを必死に振り切って、イザナギは、黄泉の国からこの世に帰った。 (よみがえるの語源だそうだ)。

 昔は、火葬(持統天皇が日本初と言われている)などという風習は無かった。あだしの(化野)の念仏寺は元々京都の人たちの風葬の地であった。また、平安時代末期には、鴨川の河原に死体を置き、火葬にする人も増えたが、骨になるのを待ったそうだ。戦乱の時・疫病が流行った時などは、その死臭は京都の町を覆ったと言われる。

 「払いたまえ、清めたまえと・・・」神道では祝詞を奏上するように、汚いものは水に流す・・・元に戻す的考えが日本人には染みついているようだ。ゴミは川に流せば終わりという考えには、日本人ならではの感覚が底流にあると言える。だからと言って下水口に煙草を隠すように捨てる行為、いわんや車からタバコを道に投げるなどの行為は決して許されるものではない。

 奈良平安の昔は、正式な僧侶は国家公務員の如くであった。満足な収入のない正式な僧侶に成れない者が、金を稼ぐ意味もあって葬儀の手伝いなどをした。それが葬式仏教の出発点ともいえる。

 そんな歴史的経過から、葬儀に立ち会う職業の者をさげすむようになってしまったようだ。

 

  爺も父と母をすでに送った。死は避けて通れない。葬送という行事は誰もが経験することではある。だが、喪主という立場上、火葬場での火入れのスイッチを押すという行為は躊躇した。手のひらを見ながら、一瞬ではあるが今もって指に力が入らなかったことを思い出す。

 一般家庭で人が死ぬ事は少なくなった。病院から葬儀場へ。余計に「片付け仕事」のように葬儀が行われる感がある。仕方ないことだろう。

 

  順番で行くと次は爺の葬儀となる。何年後かは判らない。数年前「千の風になって」という歌が流行った。葬儀などしなくて良いという人も増えているようだ。爺もそう思っている。だが、残った子供たちが社会的に許されるかどうかを考えた時、「葬儀は行え。但し最低の予算で。死後戒名も特別なものは全く要らん。」と言ってある。

 

  死することを楽しみにしようと思っている。だが難しい。死の直前恐怖感に襲われるかもしれない。

 綾小路きみまろ師匠は、言っている。

 「あの世(天国だったかも)はとってもいいところです。何故って?未だかってあの世から舞い戻った人は誰一人いないんです。きっと良い所なんでしょう。」

 恐怖感を募って、お布施を集めることばかりしている新興宗教より、また、訳の解らない説教をする坊さんよりも、すごい言葉だと思っている。・・・きみまろ教の信者第1号の誕生である。

 とはいえ、生きてる限り毎日を充実させたい。社会に役立ちたい。きれい事に聞こえ、虫唾が走るかもしれないが、家族みんなで、「良い寝具を商うことのできる今の自分」を幸せだと思う。

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上海視察旅行・・・おまけ

2009-09-17 22:01:41 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

 中国はまた、仏教の国でもある。日本にいろんな宗派があるが、そのほとんどは中国に原型があるようだ。仏教には数知れぬ経典がある。中国で創作された経典も多くある。「お施餓鬼」という風習は、盂蘭盆経からきているが、インドではなく、中国で書かれた御経らしい。ここで、仏教談義をするつもりはない。今回は工場視察が主たる目的であったから、ゆっくり仏教遺跡を観ることはできなかった。いつか第一線を退いたら、中国の仏教遺跡の旅もしてみたいものだ。最後に息抜きとして、観光地を訪れた。

 上海という都会は、日本で言うならば横浜のようにその歴史は新しい。アヘン戦争後に開港し、急速に発展した。

 それに対して、蘇州市は歴史の町である。駆け足で寒山寺拙攻園を見た。

     「天に天堂(極楽浄土)あり、地に蘇杭あり」

と言われるように、昔から風光明媚な土地であるようだ。北京から京杭大運河(中国の北京から杭州までを結ぶ、総延長2500キロメートルに及ぶ大運河)によって蘇州・杭州までが結ばれたように、水の都と言える都市のようだ。ようだと言うのは、数時間の滞在では十分に解らなかったからだ。

  寒山寺前の運河  九賽溝などは別だが、水はどこへ行っても濁っているようだ

  寒山寺の本尊  釈迦如来と言われているが、阿弥陀如来ではないかと思った。禅宗のお寺では、釈迦如来が本尊となることが一般的だが・・・。また、寒山・拾得の二聖人のお寺だ。日本では除夜の鐘で有名らしい。(爺は知らなかった)

   有名な(この詩も知らなかった)漢詩の石碑。 同じこの漢詩の石碑が境内には多数あった。大きさも書家も異なるようだ。内容は以下のようだ。

 楓橋夜泊 (中唐の詩人張継の七言絶句)

      月落烏鳴霜満天   江楓漁火対愁眠    姑蘇城外寒山寺    夜半鐘声到客船

 科挙の試験に失敗した作者が、失意のうちに故郷に帰るべく客船に乗った時の詩らしい。

 

  「天に天堂(極楽浄土)あり、地に蘇杭あり」。その蘇州に来て拙攻園など名園を見ないわけにはいかないらしい。中国きっての名園だ。が、爺には良さが良く解らなかった。園内にある奇石に、どうやら価値があるようだ。水郷の街ゆえ、周りに山が無い。その為に、奇石をたくさん持つことは金持ちの印らしい。感覚の違いと言えばそれまでだが、爺としては栗林公園や兼六園の方が親しみが持てる。京都大徳寺塔頭 大仙院の庭の方が落ち着く。(やっぱり日本人かなぁ)

 最終日には、上海の豫園と周辺の豫園商城に立ち寄った。帰りの飛行機に間に合うように朝8時半開門と同時に入れるように行った。豫園と豫園商城とをわずか1時間半程度という駆け足観光となった。

   拙攻園と同じく奇石がごろごろといった感じだ

 豫園商城   珍しいのぞきからくり

 さながら、浅草の門前のようだと言った方があったが、その通りだ。

 

 視察の駆け足であったが、中国という国はやはりいろんな面で大きい。中国製ということをバカにしてはいけない。今回視察した工場は中国でもトップの工場だ。だが、レベルの低い工場も五万と有るらしい。中国製といえども、品質の確かなものをお客様に代わってしっかり吟味してお届けすることが、小売店であるWatakeiの使命でもある。

 改めて、(宣誓!)皆様に良い眠りを提供できるよう最大限努力します。 

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禅-ZEN

2009-01-30 00:59:45 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

映画を見てきました。

禅-ZEN  道元禅師の物語です。道元禅師とは、皆さんご存じの通り、曹洞宗の開山であり「正法眼蔵」を著された高僧です。

 

冒頭、道元禅師の幼き頃、病にある母の言葉は私には強烈でした。「阿弥陀の浄土に生まれるという教えが広まっているが、はたして浄土があるのか。それより、今あなた(幼き道元)と過ごすこの時間こそ私には浄土です。」そんな意の言葉であったと思います。この言葉が、道元禅師の出発点なのでしょう。

私の家は法然さんの浄土宗です。折しも、先日親戚の法事に行った時、曹洞宗でした。その時「修証義」読経があり、冒頭の言葉を再度かみしめて読みました。

生を明らめ 死を明きらむるは 仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし、但 生死すなわち涅槃と心得て、 生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし、是時初めて生死を離るる分あり唯一大事因縁と究尽すべし。 」

禅(曹洞宗)は難しいと思いこみ(事実難しいです)、禅や曹洞宗の本はほとんど読んだことはありません。数年前「無門関講和」という本を買ってきて読みましたが、まったく理解できず、以来「禅」は私にとって鬼門でした。

 

今回、この映画を曹洞宗・道元禅師の入門として観れば良い映画だと思います。もちろん内容は入門的とはいえ、難しい映画でした。たぶん、私にとってもう一度(場合によっては二度三度)見ないと解らない言葉(せりふ)、聞き逃した言葉も、多いような気がします。

不謹慎にも、私の中では「僧侶は世の流れとは無縁」で、「気楽でいい身分だなあ」と思うところがありました。結構若いころからです。およそ二十年程前のことだが、友人に「60歳になったら出家したい、そして晴耕雨読の生活を送りたい」と言ったら、一人の友人がその時は「俺も誘ってくれ」と言い、さらに女友達が「私も」と言い出したことがあった出家とはなんぞやも解らず、勢いで吐いた言葉だが、還暦の歳にこの映画を観たのも、何かの縁であろうか。・・・いつか本当に第一線を退いたら、いろんな本を読んでみたいものだ。ある意味「維摩居士」が漠然ではあるが私の理想でもある。

 

だが、現実に目をやれば、残念ながら、時間に追われる毎日である。再度映画館に足を運ぶことは無いでしょう。当面のなすべき仕事としては、今月中にチラシを作らねばなりません。

もっと道元禅師のことを知りたいと思い、「講談社現代新書【道元入門】秋月龍著」 を買ってきて今読んでいます。ふとんに入ってから眠くなるまでの僅かな時間です。難しい本ですから、私にとっては「睡眠薬」代わりになっています。

読み終えるのはいつのことか・・・ 「あぁ~」(あくび) 

 

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爺婆の珍道中・・・内宮参拝

2009-01-23 05:07:57 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

爺婆の正月休み(20日から22日)の話です。

 

「お伊勢さん」(伊勢神宮・内宮)へ行きました。ここ数年、正月休みはお伊勢さんからです。数年前、町内会の役員をさせて戴いた縁で、昨年「特別参宮章」を戴きましたので、今回生まれて初めて特別参拝「御垣内(みかきうち)参拝」をさせていただきました。    

       内宮正殿   

  いつもは、階段を上がったところで参拝して帰ってきますが、白い布の向こう側、外垣の内へ入り、白い玉砂利が敷き詰められている場所「御正殿の真正面」で参拝させて戴きました。

神主さんの先導で、大きな玉砂利の上を歩く時は、少しばかり気の高ぶりを感じながら、また、少しばかりの優越感をも感じていました。・・・参拝後に婆にそのことを話したら「あんたは不謹慎者やね」と一喝されてしまいました。

その後、「荒祭宮」を参拝し、今回初めて、元寇の役の時神風を吹かせたという「風日祈宮(かざひのみのみや)」を参拝して帰ってきました。

 

宇治山田の駅に着きました。

突然ですが何故「宇治山田」なんでしょう。宇治=京都と思っていましたから、本来「伊勢山田」が正しいのではないんだろうか?と。

帰ってから調べました。・・・「伊勢市」は以前「宇治山田市」であったとのこと、そして内宮のある地域を宇治地区と言い、外宮のある地域を山田地区といったそうで、どうやらそれが名前の由来のようです。60年近く何も疑問に思わなかった地名が何故今年疑問に思ったのか分かりません。

そういえば、内宮参拝の時に、五十鈴川にかかる橋を渡りますがその橋の名は「宇治橋」でした。式年遷宮を前に、間もなく取り壊しが始まるそうです。

 

次に「椿大神社」に参拝しました。「猿田彦さん」と言った方が皆さんには馴染みがあるかも知れませんね。天孫降臨の際、猿田彦大神が御先導申し上げたことによって、一般には「地鎮祭」の神様とされています。、爺の母が今から50年近く前から信仰していた神様で、今は婆が引き継いでお参りしているのです。

   松下幸之助さんも篤く信仰され、寄付された鈴松庵もあります  

爺だけの外伝・・・大海人皇子(天武天皇)が吉野を出立し伊賀・伊勢を経由して美濃に逃れ、これらの地方豪族の力を借りて挙兵したのが壬申の乱であった。徳川家康が本能寺の変の後本国三河に戻る際も伊賀越えをしたように、昔からこの地(伊賀)の人々は「忍者的素養」がありいずれも道案内をしたと思われます。猿のように身のこなしが軽快であったのでしょうか、そんなところから「猿田彦」という名ができたのではないでしょうか。・・・・・また、婆に「不謹慎者!」と一喝されそうだ。

 

その日は湯の山温泉の「蔵の助」という宿に泊まりました。菰野町に住む従姉妹の紹介でした。忠臣蔵の大石内蔵助とどういう関係?、こじつけだろうと思っていたら、ちゃんとした関係がありました。浅野内匠頭長矩の弟・浅野大学の妻がここ菰野藩の御姫様であったそうで、大石内蔵助は江戸への行き帰りに湯の山温泉に逗留したそうです。

少し強行軍であったのと、寒かったこともあって、婆は風を引いたらしく、夕食が終わったらバタンキューと寝てしまいました。爺は夜中の2時に目が覚め、TVを点けて「オバマ大統領の就任式」を見ました。日本人にはないエネルギーみたいなものを感じながら再びふとんの中に潜りました。

こうして、爺婆正月休みの一日目は終わりました。

2日目は西川リビングの本社で仕事。正月休み中断。     3日目の珍道中はまた明日。

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棉祖神のお祭り

2008-12-02 23:11:48 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

隣接する西尾市の香村さんの奥さんが、棉祖神を祭る天竹神社の祭礼の様子が西尾市の広報誌に載っていると、わざわざ持って来て戴きました。

 

 

             

この夏初めて訪れた「天竹神社(てんじくじんじゃ)」の祭礼(10月26日)の様子が、西尾市の広報誌の表紙に載ってました。古式にのっとった棉打ち(弓のような形でビンビンと弾いて棉をほぐす)の様子です。「打ち直し」という言葉は固く締まってしまった棉を再度ほぐすことから生まれた言葉です。もちろん、現在では機械(両面機またはカード機)化されてますから、「ほぐす」というより「引き千切る」と言った方が正解かもしれません。 

 

日本で唯一の棉祖神を祭る神社だが、今では天竹町(近辺)の1村社である。

毎年10月の最終日曜日に祭礼が行われるようである。来年は、時間があったら行ってみたいと思うが、たぶん忙しくてダメだろう。

プロのカメラマンである香村聖文君に、迷惑を承知で頼んでみようと思う。彼は天竹町の近くに住んでいる。また、奥さんに広報誌を私に届けるように言ったのも、香村君とのことだそうだ。

 

西尾市の情報は彼や彼の奥さんから聞くことが専らである。

 

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棉祖神 天竹神社に行ってきました。

2008-07-02 18:12:19 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

兎に角、久しぶりの休日(午後のみだが)となった。

以前から行ってみたかった所です。近くを時々通るのだが、なかなか立ち寄ることが出来なかった。念願かなって訪れたのは「天竹神社」(読みはテンジクジンジャ)です。

隣の西尾市にあります。

 

閑散とした思ったより小さな神社で、どこにでもあるような村社といった感です。凡そ37年前、私が大学生の時、「紫のふとん」ブームがありました。60年に一度、辛亥の年(次は2031年)に、健康と長寿・病気平癒を祈願して、親に紫のふとんを贈るというものでした。

 

その時の事を父や業界の長老に聞くと、そりゃまあ、大変なブームだったそうです。今では閑散としている境内に、日本全国のふとん屋さんや寝具業界の方々が押し寄せたそうです。

 

神社から僅かな所に、矢作古川(本来の矢作川)が流れています。

 江戸時代の初めより、矢作川の流域で綿の作付が飛躍したと聞いています。俗説ですが、家康の生母於大の方が作付を奨励したとも聞いています。戦国時代、綿は火縄銃の火縄の原料でもあり重要な軍事物資であったとも言われています。

江戸時代は西尾・碧南・一色(うなぎの産地偽装で有名)などの地区で生産された綿は、大浜港(碧南市)から江戸へ送られたそうです。

 

私が家業を継いだ頃(30数年前)でも時々、「自分の畑で採った綿」だから、他人の綿と混ざらんように打って(製綿)くれと、原綿を持って見える方がありました。

現在では、趣味で栽培されている以外綿の生産は行われていません。

 

天竹神社でお札を戴こうと思いましたが、残念ながら普段、宮司さんは不在のようです。

 

 

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