新聞を見ていたら、東日本大震災の影響で、入学式の取り止めや延期を知らせる大学の広告記事が目に入ってきた。なんとなく淋しい感がする。非常事態だから仕方ない事かもしれないが・・・。
「冠婚葬祭」という言葉がある。「冠」は成人式、「婚」はもちろん結婚式、「葬」はお葬式、「祭」は法事など先祖供養となっている。爺流の極めて勝手な見解解釈は、「冠婚葬」には異論ないが、「祭」は法事だけでなく、入学式・卒業式を入れたい。特に卒業式は、「旅立ち・巣立ち」の儀式である。
冠婚葬祭は「通過儀礼」であって、する必要はないという意見もあるが、爺は簡素化しても催行すべきだと思っている。特に「祭」は、時代や地域によって重きをなす行事が変わるように思える。戦時中などは徴兵検査に合格することであったり、米俵を一俵持ち上げることができると一人前に扱われるなど、主催者の目的のための集団的なイベントが多い。だが、本来の家族・個人の「祭」というならば、「七五三」とか「卒園・卒業式」であろう。
人は成長するにつれ、立場にも変化が生じる。心構えが違ってくる。「祭」はその立場・心構えの「けじめ」であると思う。卒業式は今までの殻(環境)から抜け出て次なる飛躍を成長を目指す出発点であろう。他の一面から見ると「冠婚葬」は人生に一度だけの行事である(最近、婚を二度三度される方もあるが)。「祭」において、七五三や特に小中学校の卒業式は人生一回限りの行事である。
今回の東日本大震災で、折しもそれら「祭」に巡った方々は、今すぐにとは言わないが、「けじめ」をつける意味においても「卒業式」は必ず行って欲しいものだ。また、震災(悲しみ)から子供たちが早く立ち直るためにも、どこかで区切りをつけてやりたい気がする。
行方不明になった家族のご遺体を探しだすのも、「けじめ」かもしれない。ご遺体を荼毘にふすことによって現実を直視できるようになるのだろう。ご遺体が見つからないと、たぶんどこかで生きて・・・、ひょっこり戻ってくるかも・・・などと思ってしまうであろう。だが、「葬」という儀式が行えないと、頭では解っていても感情的には理解できないことになる。
こんな文面は、被災された方にとっては、逆撫でされるようなもので、ご立腹される方も多いことでしょう。お許しいただきたい。一刻も早い復興を、また、「けじめ」をつけて、新たな生活が始まりますようお祈り致します。
孫のお宮参り・・・爺になったというけじめでもあるかな?
なぜ、こんな事を言い出したのかというと、以前、変な夢を見たからだ。
「俺って大学卒業できたんだろうか?」と、夢から覚めて不安になったことがあった。思わず卒業証書を探した。頭では「俺は卒業した」と解っていたが、変な夢を見たとたん確認したくなった。婆から「何しとるの?」「いや、なんでもない・・・」と誤魔化した。
なぜそんな夢を見たのだろうと考えてしまった。ひょっとしたら、爺は入学式には出席したが、卒業式には出席していなかった。その事が今になって・・・。その時はいろいろ忙しかった事もあり体調を少し崩していた。後で学生課に行って卒業証書だけを貰いに行った。もちろん、筒に入った厚紙が一枚入っているだけだった。ちらっと見ただけの確認ではあったが、後はそのままタンスの中に入れ込んだ。
卒業式の後、皆と一緒に飲みに行った訳でもない。・・・・・「けじめ」がつけられなかったのだろうか。卒業証書という一枚の紙切れだが「確認」するにはなくてはならないものだということが分かった。
もっとも、爺は成人式にも出ていない。当時住民票を大学のある弘前に移したこともあって、何故か碧南市からも弘前市からも、成人式の招待状は来なかった。という訳で、気持は19歳のままだ。 (・・・・単なるバカか?)