爺が出会った匠と匠が創る逸品・ほんものなどをご紹介いたします。
第一回は「匠の耳かき」加藤恵一さんです。彼はたぶん日本で唯一の耳かき創りの達人でしょう。
彼(匠)は幼馴染と言うにははばかるが、子供のころは同じ町内に住み、爺より1歳若い。
匠のお父さんはある意味芸術家でした。習字の塾をされつつデザインの才もある方で、市内の中学校の校章もデザインされました。その息子さんですから「匠の耳かき」は、違和感も無く納得といったところです。
左が匠 右はお客様
話を聞いている方は、半田市(たぶん知多半島)で最大の建築会社の社長さんで、縁あって5年ほど前からの弊店の上得意様です。
耳かきの事はこちらのHPをご覧ください。
匠は50歳の時市役所を辞し、誰も考え及ばぬ「耳かき創り」に人生を懸けました。単に作るというより、匠の手は神の手のようであり、一本一本が命を吹き込まれた「耳かき」です。耳かきの歴史、さらに日本人のルーツから「耳垢論」まで、耳かき一本に寄せる思いの丈の大きさに少なからず感動しながら聞きました。周りの方からは定年後に趣味で「耳かき作りをしたら・・」と言われたそうです。でも、このまま役所勤めをして人生を終えて良いのか・・、自分の人生は何だ・・、自分はどこに行こうとしているのか・・、自分とは・・・・・自問自答されたそうです。ちょうど子らも皆独立されたそうで、自分に正直になれる今が正にこの時と決断されたそうです。
「耳かき職人」として人様に誇れる品はできた。だが、売り方が全く解からない。ある時名古屋の松坂屋へ行った時、職人展なるイベントが行われていました。匠は思いきって松坂屋さんに「私もイベントに出たいがどうすれば出れるか?」と聞きました。ダメ元でしたが数ヵ月後松坂屋さんから電話があったそうです。今では職人展で「匠の耳かき」を外すことはできない存在になったのは言うまでもありません。
建築会社の社長さんは爺より24歳二まわり年長です。戦後、お父さんの経営する会社を引き継いだ時、年商に匹敵する借金があったそうです。実質倒産状態でした。引き継いで間もなく従業員70数名がある日一斉に会社を辞めたそうです。万事休す!でしたが、社長は人が変わったように一所懸命働いたそうです。
その後半田市で最初の鉄筋コンクリートの建物が計画されました。鉄筋コンクリートの建設実績はありません。でも、その建物を受注できるか否かが「皇国の興廃この一戦にあり」とばかりに社長は決断し、静岡にあった発注元の本社に乗り込まれたそうです。社長さんの人柄でしょう。発注元の専務さん(実質経営者)は二つ返事でOKをだされたそうです。知多半島で初めての鉄筋コンクリートの建物を創れるまでに会社を再建されました。
爺の拙い文章では全く解からないでしょう。でも、お二人の話を聞いていると、それは正に「人生とは何ぞや、チャンスをどうつかむか」という哲学対談でした。
「爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい!」とよく言いますが、「耳の穴を良くかっぽじって聞け」+「かっぽじった耳の垢を煎じて飲め!」と言われているような対談でした。
柔らかめの耳かきです
一番安い耳かき(3,675円)を買ってきました。
この先問題にぶつかった時・決断しなければならない時、この耳かきでホジホジすれば、何か良いアイデアが浮かぶような気がしてきました。
2月28日から3月2日まで3日間、横浜で睡眠環境診断士(初級)の更新講義を受けます。しっかり聞いてきます。さらに4月には睡眠環境診断士の中級講義と試験が予定されてます。全国にいる睡眠環境診断士は全員初級のみでしたが、今回中級が新設されるようです。中級第一号になれるよう、復習も兼ねて更新講義を受けてきます。「匠の耳かき」のお陰で先生の話を聞き洩らすことは無いと思います。
ああ~・・ぐっすり寝たー!
枕の調整会 開催中! ちょっとでも違和感があったら、気軽に調整しに来て下さい。
いつか、「枕作りの匠」「匠の眠り」???と呼ばれたいですね。