人生、何故そんなに急ぐ必要があるのだと思う時もある。だが、急がねばならない。時間が無いのだ。人生わずか80年程度だ。かって信長が愛した(と言われる)幸若舞に「人生五十年下天の内を比ぶれば、夢幻の如く也。一旦生を得て滅せんもののあるべきか」とある。爺に残された時間がどれだけかは分からない。
7日に、植村浩(小野ふとん店社長)様の葬儀に参列させて戴いた。彼は「快眠ひろば」の中部・北陸の地区リーダーである。彼は最後まで、仕事の事・家族の事を考えていた。家で寝ていることが出来ず、店先に置いた車の中に横たわって、店を見守っていたという。壮絶な最期と言えるかもしれない。「快眠ひろば」に巡り合って「天職を得た」と言ったそうだ。さあこれからという時に、逝ってしまった。その悔しさは幾ばかりか・・・。
『あなたが無駄に過ごした今日は、
昨日死んだ誰かが死ぬほど行きたかった明日なのだ』
石川寝具ランドの四代目のブログの中に書いてあった。マンガのなかの一節らしいが、何度も何度も読み返してしまった。
8日、チェーンの特別プロジェクト会議があり、朝から大阪へ行った。行き帰りの新幹線の中で「正法眼蔵Ⅰ」を読み始めた。現代文訳ではあるが、極めて難しい。以前、映画「道元」を見た後、書店に立ち寄って買った二冊の内の一冊だが、凡そ一年ほど積読状態であった。
・・・諸々の現象のなかに自我の在りようを認識するのが悟りである。迷いを迷いとして大悟するのが覚り得た人々であり、・・・
たぶん、植村さんは自我の在りようを認識でき、迷いを迷いとして大悟することができたのだろう。 でも訊ねることはもうできない。
我々が葬儀に参列する意義は、故人の生き方を知って、己の人生を反省し、更に、これからどう生きるべきかを再考する場を与えられたと思うべきかもしれない。時間の歩みは万人に等しい。だが、人生の長さは自分の意思で決められない。人はよく「生かされている」という。その「生かされている時間をどう過ごすか」が人というものなんだろう。彼のDNAはご子息に受け継がれていくだろう。ふとん屋を継ぐことが目的ではない。お父さんがどう生きたかということを受け継ぐことが大事である。
また、春は巡って来る。でも、同じ春はもう二度と来ない。この世は無常なり。
今までの経験から、どうしても人は判断してしまう。経験不足を少しでも補うために、本を読んだり、人の話を聞こうとするものである。
こうたろうくん! 世の中の皆さんの健康のため快眠のため、役に立ちたいと思い「快眠屋おの」を背負って行こうとするなら、「快眠ひろば」の同志はきっと力になってくれるでしょう。
・・・・・植村浩様のご冥福をお祈りいたします。
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