京都府は山城・丹波(一部?は大阪府や兵庫県)・丹後の三ヵ国で成り立っている。丹後から連想できるのは、丹後ちりめんと天橋立ぐらいだった。丹後の国はそれまであまり興味がなかったが、今回旅してみて神話的にも歴史的にも結構面白いところでした。
宿で仲居さんからお話を聞いた中で、最も興味が湧いたのは「元伊勢」という「地」(呼び方)であった。元伊勢が丹後には二か所ある。天橋立の籠神社と酒呑童子の大江山にある。丹後は京都府、若さは福井県。ところが丹後と若狭はお隣であり、海上交通で往来すれば、山向こうの丹波より極めて近いと思われる。丹後と若狭は神が常に宿る地ともいわれる。写真からは消えているが、右手の山を越えたところが舞鶴であり、その先は三方五湖へと続く。福井と京都と別れているが、古代人の感覚では、丹後と若狭は一体のように思える。
以前、伊勢神宮は何故伊勢なのか。継体天皇の出身といわれる若狭ではいけなかったのか・・・と書いたことがあった。
天橋立というのは丹後国風土記では、イザナギの命が天に通うために作った梯子であり、「天の橋立」といったが、命が寝ている間に倒れて現在の姿になったとされている。
確かに自然が作った景色だが、「神」を感じるような景色だ。この日は曇り空、空と海との境が分かりにくい。見様によっては「天に続く道」に見える。古代人の発想は面白い。逆さに見ると、確かに天に通ずる梯子にみえる・・・。
これからいうことも全くの爺の戯言である、
伊勢に神宮が造営されたのは、第21代雄略天皇の時代に天照大御神の神託によって丹後から遷座したとされている。26代継体天皇は若狭出身と言われている。ところで、継体帝はどのように大和に入ったのだろう。若狭から琵琶湖そして山城・大和の国へのルートではなく、若狭から丹後丹波そして摂津大和へと入ったのかも、ひょっとしたら丹後丹波から播磨そして淡路島へ、その後大和に入ったのかもしれない。神話で初めて生まれた島が淡路島というのも、何やら意味深なところだ。
古事記(奈良時代712年(和銅5年)・日本書紀(奈良時代養老4年(720年)・風土記(奈良時代)はすべて奈良時代の作である。天武天皇・持統天皇の意向でもって後の作であるから、解釈も読み手の勝手でも良いような気がする。
大海人皇子(後の天武天皇40代)が壬申の乱での勝利は、伊勢・尾張の豪族の力があったからだと爺は思っている。梅原猛氏の書のなかに、確か尾張の海部と丹後の海部氏とはつながりがあると書かれていたような気がする。また古代、熱田神宮の目の前は海だったハズだ。さらに尾張は物部の流れを汲むとも言われる。大化の改新は蘇我氏から物部へと力関係のバランスを図ったのかもしれない。だが、単純に揺り戻しでは駄目であるから、新興勢力として中臣(藤原)家が要ったのだろうか。
元伊勢には、もともと伊勢神宮の原型があったのだろう。継体帝が若狭から丹後、天橋立に至り、ついに大和に入り即位したとすれば、天橋立付近に神宮があってもおかしくはない。
大海人皇子は、天照大神に壬申の乱の勝利祈願をした時、勝利の暁には大きな社を伊勢の地に建てると約束したという話もあるそうだが、時系列的に見れば、全くつじつまが合わない。つまり、壬申の乱の論功によって、今の伊勢神宮ができたとすれば、面白いかも知れないが、空想もいい加減にせよと言われるだろう。
以上の話は、完全な爺の作り事である。そして、古代天皇家の系譜を見ると、26代継体天皇は、それまでの天皇とは少し違うような気がする。今上天皇から見れば、竹田 恒泰氏より関係が薄いと言えるかもしれない。そんな継体帝の皇位継承は、正当なものだったんだろうか。歴史を楽しむには、勝手な空想も許してもらえるのでは・・・・。
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