(雑記・ただのメモ)
いつぞや…しばらく前になる…『マッチポンプ』という言葉を知った。
恥ずかしながら、意味がわからなかったため、調べてみた。
***********
『マッチポンプ』
-(和製語。マッチで火を付ける一方、ポンプで消火する意)
意図的に 自分で問題を起こしておいて 自分でもみ消すこと。
また、そうして不当な利益を得る人。1966年の政界の不正事件で広まる。
(広辞苑 第六版)
***********
それを使った人々が、どういうことを指して、どのように理解して言ったかは
多少理解できる。
だが、そうではないと、私は考える。 1)
少なくとも、私は、
神を『畏(おそ)れる』ことを、知っている故に。
その恵みを、感じている故に。
…ただ、…認識されている人は少ないかもしれないが…
前提条件が異なる中で、
異なる世界観同士で、
異なる背景がある中で、
どのように何を伝えるべきかは、
一部の人だけではなく、本来、
一人ひとりが模索していく必要があるのだろう。
この場合で言うなら、
「神を畏れることを知らない方に、
その恵みを感じていない方に、
何をどのように共有して(味わって)もらいたいのか」
だ。
端的には、
「ユダヤ人に対してギリシャ人のように
ギリシャ人に対してユダヤ人のように、
-ex.使徒13章と17章の、対象と内容を逆転して-
語ったら、とんちんかんだよね」
という、自明のこと。
どこを共通項として、話をすることができるのか。
何もない?
それなら、お互いが『違う』のだということを
認識すれば、いい。
ありがたいことに、
人一倍、ことばを紡ぐのさえ四苦八苦する私を、
周りは暖かく見守ってくれているがf(^^;)
***********
【注】
1)私は考える: I think…という表現は、日本的でない上、クリスチャンとしては
慣れない物言いではある。「私は」という表現は、自己を強く出している
印象を持つからだ(私や私の周りにいるクリスチャン達にとっては)。
だが、それを用いない場合、『逆に、エゴ(自我)を無意識に、それも、強く、高圧的な形で
表現し、しかも、それにさえ自分では気付いていない』という、相反する現象を生み出す。
『自己』を無にし、『己(おのれ)』ではなく神を第一に、と真心からしようとしているのに、逆に、神ではなく、『自己』を強く表に出してしまう、
(言いかえると、他者の目には「自己を神と同一の位置に置こうとしている」と映ってしまう)
という不思議な、奇妙なことになってしまうのだ。 …※1。
※1 むろん、これは、「ある価値観・信念・世界観を持つ者と、
それを知ろうと思う者/他者/他の「価値観・信念」を持つ者etcとの間を想定して
考えている。
逆に、「同じモノを持つ(共有している)者同士においては、
『私は~と考えます』という表現は、『邪魔(不必要、無駄、愚か、傲慢)』以外の何物でもない。
・・・本人(pl)は、全くその気はなく、それどころか、逆であるのに。
・・・(ある時)・・・それを認識したとき、頭を抱えた。
恐らく、このメモを残したとしても、理解できる人は多くはないだろう。
このようなメモを残したことで、わからない人のうちある人々は、憤慨するかもしれない。
だが、私は、-書けないでいる多くの事がら(メモ)が残っている中-
なぜか、これを示されてしまった。
(クリスチャン以外の人に言うならば「書かずにはいられなかった/どうしようもない衝動に駆られた」となる)。
どうか、何らかの益となりますように。
あるひとつの例を挙げてみる。
ex.「聖書はこう言っている!!」
という表現(をできるの)は、『自己を前面に出している』典型例。(みことばonlyを除く)
自己の知識・理解・知恵に全面の信頼を置いている、と誤解される。
(←優しい表現で言えば)
同じ内容であっても、
「聖書を通して/聖書から、私は~~と示されています」
と言うならば、
(=と、自然と言えるようであれば)
相手には、おそらく、違った印象を与えるだろう。・・・※1
…ちなみに、「印象を与える」「映る」という言葉に不慣れな方(違和感を感じる方)は、
「~と伝わる」ということばに変換していただければ、わかりやすいのではないか、と思う。
そう、そのように、
「伝わってしまう」のだ。 …※2
本来、伝えたかったことが何であるかは伝わらずに、
ただ単に、「この人は、エゴが強い/自分を高みに置いているのだな」ということだけが残る。
※2・・・ここで「そのように伝わってしまう」
というのは、とりもなおさず、(主観的には違うつもりでも)客観的にそうなのだ/そうしているのだ、
ということ。
つくづく、言葉は難しい、と感じる。
いつぞや…しばらく前になる…『マッチポンプ』という言葉を知った。
恥ずかしながら、意味がわからなかったため、調べてみた。
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『マッチポンプ』
-(和製語。マッチで火を付ける一方、ポンプで消火する意)
意図的に 自分で問題を起こしておいて 自分でもみ消すこと。
また、そうして不当な利益を得る人。1966年の政界の不正事件で広まる。
(広辞苑 第六版)
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それを使った人々が、どういうことを指して、どのように理解して言ったかは
多少理解できる。
だが、そうではないと、私は考える。 1)
少なくとも、私は、
神を『畏(おそ)れる』ことを、知っている故に。
その恵みを、感じている故に。
…ただ、…認識されている人は少ないかもしれないが…
前提条件が異なる中で、
異なる世界観同士で、
異なる背景がある中で、
どのように何を伝えるべきかは、
一部の人だけではなく、本来、
一人ひとりが模索していく必要があるのだろう。
この場合で言うなら、
「神を畏れることを知らない方に、
その恵みを感じていない方に、
何をどのように共有して(味わって)もらいたいのか」
だ。
端的には、
「ユダヤ人に対してギリシャ人のように
ギリシャ人に対してユダヤ人のように、
-ex.使徒13章と17章の、対象と内容を逆転して-
語ったら、とんちんかんだよね」
という、自明のこと。
どこを共通項として、話をすることができるのか。
何もない?
それなら、お互いが『違う』のだということを
認識すれば、いい。
ありがたいことに、
人一倍、ことばを紡ぐのさえ四苦八苦する私を、
周りは暖かく見守ってくれているがf(^^;)
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【注】
1)私は考える: I think…という表現は、日本的でない上、クリスチャンとしては
慣れない物言いではある。「私は」という表現は、自己を強く出している
印象を持つからだ(私や私の周りにいるクリスチャン達にとっては)。
だが、それを用いない場合、『逆に、エゴ(自我)を無意識に、それも、強く、高圧的な形で
表現し、しかも、それにさえ自分では気付いていない』という、相反する現象を生み出す。
『自己』を無にし、『己(おのれ)』ではなく神を第一に、と真心からしようとしているのに、逆に、神ではなく、『自己』を強く表に出してしまう、
(言いかえると、他者の目には「自己を神と同一の位置に置こうとしている」と映ってしまう)
という不思議な、奇妙なことになってしまうのだ。 …※1。
※1 むろん、これは、「ある価値観・信念・世界観を持つ者と、
それを知ろうと思う者/他者/他の「価値観・信念」を持つ者etcとの間を想定して
考えている。
逆に、「同じモノを持つ(共有している)者同士においては、
『私は~と考えます』という表現は、『邪魔(不必要、無駄、愚か、傲慢)』以外の何物でもない。
・・・本人(pl)は、全くその気はなく、それどころか、逆であるのに。
・・・(ある時)・・・それを認識したとき、頭を抱えた。
恐らく、このメモを残したとしても、理解できる人は多くはないだろう。
このようなメモを残したことで、わからない人のうちある人々は、憤慨するかもしれない。
だが、私は、-書けないでいる多くの事がら(メモ)が残っている中-
なぜか、これを示されてしまった。
(クリスチャン以外の人に言うならば「書かずにはいられなかった/どうしようもない衝動に駆られた」となる)。
どうか、何らかの益となりますように。
あるひとつの例を挙げてみる。
ex.「聖書はこう言っている!!」
という表現(をできるの)は、『自己を前面に出している』典型例。(みことばonlyを除く)
自己の知識・理解・知恵に全面の信頼を置いている、と誤解される。
(←優しい表現で言えば)
同じ内容であっても、
「聖書を通して/聖書から、私は~~と示されています」
と言うならば、
(=と、自然と言えるようであれば)
相手には、おそらく、違った印象を与えるだろう。・・・※1
…ちなみに、「印象を与える」「映る」という言葉に不慣れな方(違和感を感じる方)は、
「~と伝わる」ということばに変換していただければ、わかりやすいのではないか、と思う。
そう、そのように、
「伝わってしまう」のだ。 …※2
本来、伝えたかったことが何であるかは伝わらずに、
ただ単に、「この人は、エゴが強い/自分を高みに置いているのだな」ということだけが残る。
※2・・・ここで「そのように伝わってしまう」
というのは、とりもなおさず、(主観的には違うつもりでも)客観的にそうなのだ/そうしているのだ、
ということ。
つくづく、言葉は難しい、と感じる。