“For whatever things were written
before were written for our learning,
that we through the patience and comfort of the Scriptures
might have hope. ”
(Romans 15:4, NKJV)
before were written for our learning,
that we through the patience and comfort of the Scriptures
might have hope. ”
(Romans 15:4, NKJV)
先日、友人らに会う道すがら、あるところで、興味深い学びを聞いた。
それは「中傷に対する訓練」というテーマ。
しばしば、「××してはならない」という話は聞くものの、逆に、そういったことに
どう対処するかが主題となるというのは 面白い切り口だ、と感じた。
それは、確か、このようなことから始まった。
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(一応許可取得済み)
今回は、「中傷に対する訓練」というテーマですが、
集会(教会)の中でそういうことはないとしても、私たちは、社会生活において、中傷を受ける、ことはあるのではないでしょうか。
もちろん、一言、「中傷」と言っても、「まったく、いわれのないもの」もあれば、
「よくよく考えてみると、そう言われても仕方のないもの」もある。どちらなのか、識別する必要がある。
中傷を受けると、怒りを覚えるものだが、
後者の場合、神様が、未信者を通しても教えてくれるのであって、
教えられたら、悔い改める必要がある。
前者の場合は?
この場合であっても、背後に神の御手(みて)があることを覚え、へりくだる必要がある。
イスラエルの2番目の王ダビデを通して、これについて考えてみましょう。
→ (続く)