妻の「ちょっと見ていてくれる?」と、
夫や義父母の「ちゃんと見ておくよ」の間には、
アマゾン川の川幅ほどの相違がある、場合がある。
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たとえ、子どもが頭をぶつけて泣いていても、
おしっこで服まで濡らしたとしても、
子どもが、転んで、顔面流血して、周囲の女性が慌ててお母さんに叫び呼ばざるをえない状況となったとしても、
「見ているよ」と言ったお人が、
平然と、「『見ていた』ら、勝手に転んだ」と事も無げに言うことも、
実際、世の中にはある。
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いや、ならば、「言葉の定義」をきちんとすれば良いのではないか?
ここでいう「見ている」という言葉には、どこからどこまでの行為や意味が含まれるのか、決めればいいのでは?
そう考えても、みる。
だが、しかし。
事細かに、こういう場合はこのようにする、と説明やらメモをしても、言葉を尽くしても、伝わらないこともある。
逆に、言葉少なく説明したとしても、その言葉から想定する幅が広い人もいる。経験かもしれないし、想像力の故かもしれない。
たとえば、アマゾン川の幅。
実は、どこで測るかによって、同じアマゾン川であっても、川幅は、1kmから100km、河口に至っては、さらに広がっている。
同じ「アマゾン川の川幅」と表現したとしても、それぞれの心の内に思い描いているコトは違うかもしれない。
(サンふじ)
また、たとえば、「りんごのような」と比喩したとき、語り手と、聞き手とで、その「りんご」はどのようなりんごをイメージしているだろうか。
大きなりんご、
ポケットに入るくらい小さなりんご、
甘いりんごに酸っぱいりんご、
赤いりんごに黄色いりんご、
…一体、お互いの内にイメージされている『ソレ』は何だろう?
(王林)
『次のような主(しゅ)のことばがあった。
「何を見ているのか。」
そこで私は言った。
「アーモンドの枝を見ています」』
(旧約聖書·エレミヤ書 1章12節)