『もし、やもめに子どもか孫かがいるなら、まずこれらの者に、
自分の家の者に敬愛(けいあい)を示し、親の恩に報いる習慣を
つけさせなさい。それが神に喜ばれることです。
・・・・・・・
もしも親族、ことに自分の家族を顧(かえり)みない人がいるなら、
その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。』
(新約聖書・テモテ第一 5:4,8)
自分の家の者に敬愛(けいあい)を示し、親の恩に報いる習慣を
つけさせなさい。それが神に喜ばれることです。
・・・・・・・
もしも親族、ことに自分の家族を顧(かえり)みない人がいるなら、
その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。』
(新約聖書・テモテ第一 5:4,8)
旧約時代、十戒に「親を敬え」とあるだけでなく、
新約時代になると、「親(祖父母)を顧みない奴は、(神をないがしろにする)不信仰なヤツより悪い!」とまで言われる程、
家族を大事にすることも、肝要(かんよう)らしい。
実際、
それまで長く住んだ地を離れ、ご両親の介護のために、地元に戻ったクリスチャンの方もいた。
またある場合、集会とは距離を置いているクリスチャンであろうとも、双方のご両親どちらの介護も行っている方もいる。(上記の聖句を知っているかは…わからないが、おのずと叩き込まれている様子)
未信者の親族から「どうして、嫁の親までそこの家で見ているんだ!」と
非難されても罵られても、他の親族から助けが得られなくても、黙って、嫁と孫たちとで介護を行っているのだ。
それに対して、何かを言うとしたら、・・・労(いた)わる以外にあるだろうか。
子育てと違い、介護は「(対象が)成長する」という楽しみもない分、しんどく、
介護される者の苦しみも、介護を行う者達の苦しみも、理解されにくい分、辛い。
「楽じゃないのよ、介護は。はっは~」(古い?)
なんて笑えない程、毎日、早朝から夜中まで休む間もないと、心もすさむことだってある。
介護される者の苦しみも、介護を行う者達の苦しみも、理解されにくい分、辛い。
「楽じゃないのよ、介護は。はっは~」(古い?)
なんて笑えない程、毎日、早朝から夜中まで休む間もないと、心もすさむことだってある。
だから、やっている人は、自分を責めないで。
できる範囲で、できることをやればいい。
(ワシが言えた義理ではないが…。全部ひとりで背負うのは倒れますぞ。)
これは、「レプタ銅貨」の逆ヴァージョン。
何がどう転ぶにせよ、主(神)は、全部ご覧になって、報いてくださる。