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(ミレー屈指の名作として知られる『落穂拾い(The Gleaners)』1857年)
当時、ヨーロッパの麦畑は、(同じくミレーの作品の『種を蒔く人』にみられるように)畑に種をばら撒き、育った株を柄の長い鎌で立ったまま薙ぐように刈り倒し、これをフォークで集めて(背景にあるように、地主が馬に乗って監督し、穀物がうず高く積まれていた・・・のかな
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そして、当然のことながら集めきれなかった落穂が多数地面に残される。
当時、旧約聖書の『レビ記』に定められた律法に従い、麦の落穂拾いは、農村社会において自らの労働で十分な収穫を得ることのできない寡婦や貧農などが命をつなぐための権利として認められた慣行で、畑の持ち主が落穂を残さず回収することは戒められていたそうな。
(ああ、ここか・・・
『あなたがたの土地の収穫を刈り入れるとき、あなたは刈るときに、畑の隅(すみ)まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主(しゅ)である。』
(旧約聖書・レビ記 23章22節) )
そうして、ある3人の貧しい農婦が、刈り入れが終わった後の畑に残った麦の穂を拾い集めている。そんな、フォンテーヌブローの森のはずれにある豊かなシャイイの農場の風景。
1857年のサロンに出展され、保守的な批評家たちから「貧困を誇張している」「社会主義的だ」など議論を呼んだそうだが・・・いい絵だなぁ、と感じる。
もっとも、落ち穂を拾わなければならない身としては、そんなふうには思えなかっただろう、とも思うが。
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本日のひとこと。
『私は一心に知恵を知り、昼も夜も眠らずに、地上で行われる人の仕事を見ようとしたとき、
すべては神のみわざであることがわかった。
人は日の下で行われるみわざを見きわめることはできない。
人は労苦して捜し求めても、見いだすことはない。
知恵ある者が知っていると思っても、見きわめることはできない。
というのは、私はこのいっさいを心に留(と)め、正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手(みて)の中にあることを確かめたからである。
彼らの前にあるすべてのものが
愛であるか、憎しみであるか、
人にはわからない。』
(旧約聖書・伝道者の書8章16節-9章1節)
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P.S-これを書いている途中(0:26)、地震があり(体感としては震度3程度)、八戸では震度6強、両親の家は生き埋め(カラーBoxのなだれによる
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