ロック探偵のMY GENERATION

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『X-MEN フューチャー&パスト』

2019-05-07 17:55:48 | 映画
今回は、映画記事です。

以前『ターミネーター/新起動:ジェニシス』という映画について書いた記事で、X-MENシリーズに言及しました。そこで今回は、“リセット”がうまくいった例として、『X-MEN フューチャー&パスト』という映画について書きましょう。

X-MENシリーズは、いうまでもなくMARVELのコミックを映画化したもの。
『X-MEN2』、『X-MEN:FINAL DECISION』とシリーズが続きましたが、3作目までいったところで、よくあるパターンで『ファーストジェネレーション』という過去を描く話になりました。『ファーストジェネレーション』では、X-MEN誕生の経緯が描かれ、『フューチャー&パスト』は、その続編という位置づけです。
タイトル通り、未来と過去が交錯するストーリーとなっていて、それ以前のX-MENシリーズとも話はつながっています。ただ、『ファイナルディシジョン』とは矛盾する点があるようにも思えますが……

物語は、暗い未来から始まります。
この未来においては、ミュータントたちを抹殺するために作られた“センチネル”という兵器と、ミュータントたちの間で激しい戦争が起こり、世界は荒廃してしまっています。ミュータントたちの力をもってしてもセンチネルには歯が立たず、X-MENも壊滅の危機に。
そこで彼らは、起死回生の策として、「過去を変える」という手に出ます。
意識を過去にさかのぼらせる能力を持つミュータントがいて、その力で、ウルヴァリンを過去に送り込み、センチネル誕生のきっかけとなった事件を未然に阻止しようというのです。

過去に行くというところは『ターミネーター』シリーズと一緒ですが、このX-MENシリーズのほうでは、前回書いた『ターミネーター新起動』のようなぐだぐだ感がありません。
前作の『ファーストジェネレーション』も傑作でしたが、X-MENは、話を重ねるにつれてどんどん面白くなっていくという稀有なシリーズじゃないでしょうか。
タイトルが増えれば否応なしに話は複雑になるわけですが……それをうまく消化して物語に取り込み、エキサイティングに仕上げています。
過去と未来の交錯も、未来からやってきたウルヴァリンに、過去のプロフェッサーやビーストたちがどうリアクションするかというところで、面白みは尽きません。そこに、ケネディ暗殺やベトナム戦争など、歴史上のできごとも組み込まれてきます。そうして複雑にからみあう何本もの糸を巧みに撚りあわせて、最後はきれいな絵を描いて着地。その手際が鮮やかです。初期三部作では残念な結末を迎えたマグニートー&ミスティークにも、いくらか救いがもたらされたんじゃないでしょうか。

この作品の結末で過去を変えたことによって、これまでの流れがいったんリセットされることになるわけですが……以前書いた『ターミネーター』の場合と違って、これはリセットに成功した例といえるでしょう。

X-MENシリーズは、6月に『ダークフェニックス』という新作が公開されることになっていて、どうやらその後も続編はいくつか出る予定がすでにあるようです。
なにしろ、時間軸リセットを使えるわけですから、可能性は無限にあるということで……X-MENの新たな展開が期待されるところです。

The Police - De Do Do Do, De Da Da Da

2019-05-04 19:43:44 | 音楽批評
今回は、音楽記事です。

このジャンルでは、前回スティングについて書きました。
そこからの延長で、スティングの在籍するバンドであるポリスについて書きましょう。

ポリスといえば、今では「スティングのバンド」というイメージだと思いますが、そもそもはドラムのスチュワート・コープランドが中心でした。そこにアンディ・サマーズという名うてのギタリストをつれてきたグループであり、おそらく三人のなかではスティングがもっとも無名だったでしょう。ポリスが大ヒットしたために、スティングも大物になったのです。

ポリスにはアンチも多いと思われますが、かのマーティー・フリードマンさんがいうところでは、その革新的な音楽性は後のアーティストに大きな影響を与えていて、ポリスが嫌いという人でも影響を受けていることが少なくないのだそうです。

それは一つには、彼らのミュージシャンとしての高いクリエイティビティによるものでしょう。
PVなんかを見てるとおちゃらけたアイドルグループみたいにも見えてしまうんですが、実際のところ、彼らはミュージシャンとして卓越した技巧をもち、それをきわめてクリエイティブな方向にむけているのです。

ギターのアンディ・サマーズは、以前ちょっと書いたような気がしますが、アニマルズに一時在籍していたことがあります。アニマルズがアメリカに拠点を移して、サイケデリック的な音楽をやっていた時期にギターを弾いていたのです。また、彼はソフトマシーンなどにも参加していた人で、そもそもそういう実験的な傾向を持っているわけです。たとえば、「孤独のメッセージ」で使われている独特のアルペジオは、アンディ・サマーズが考案した形だといいます。「見つめていたい」にもその変化形のようなものが出てきますが、ただの甘ったるいラブソングのように思える曲でもそういう革新性がみられるわけです。

また、ドラムのスチュワート・コープランドは、カーブド・エアというプログレ系のバンドにいたこともある人で、やはりそういう実験的な傾向があります。ポリスの曲にはちょっとトリッキーなリズムがよく出てきますが、その発想は彼に負うところも大きいでしょう。

そこに、もともとジャズ畑の人であり、ウッドベースを弾いたりもするスティングが加わります。
卓越したテクニックと実験性が、ポリスの基盤にあるのです。
そして彼らは、その高い音楽能力で、レゲエとパンクの融合をハイレベルで成し遂げたと評価されています。
70年代に勃興した音楽ジャンルとして、パンクとレゲエがありますが、パンクをレゲエと融合させようという試みは、クラッシュ以来ずっとありました。ポリスは、その一つの到達点と目されているのです。

また、音楽性以外の部分でも、ポリスは非凡なところを見せてくれます。

たとえば、その歌詞。教師だったというスティングの知性が垣間見えます。
それがもっとも顕著にあらわれていると私が感じるのが、ドゥドゥドゥ・デ・ダダダという歌です。


The Police - De Do Do Do, De Da Da Da (Official Music Video)




この歌の何がすごいかというと、もう詞の技巧を否定してしまってるというところですね。
饒舌が自分の手を離れると、その論理が自分を縛り上げてしまう……それで、ドゥドゥドゥ・デ・ダダダというのが自分のいいたいことのすべてだというんです。それは何の意味ももたず、無垢であり、真実なのだと。
「言葉は極限まで突きつめるとスキャットに行きつく」というのが私の持論ですが、その理論でいくと、スティングもまた言葉の極限まで行きついているわけです。それでもう一周してしまって、技巧を放棄するという……これは、文学史上におけるダダイズムと同じ発想でしょう。「ダダ」という言葉も入ってるし。
実際には、他の楽曲と同様この歌でも押韻が多用されていて、そういう意味では“技巧的”なんですが、ドゥドゥドゥ・デ・ダダダというところでそれを否定します。

あらゆる言葉は、これまでに誰かが語った言葉である。したがって、本当の言葉を語ろうと思ったら、誰も使ったことのない言葉を使うしかない――そういうリアルの追求です。

そんなふうに考えると、前にスティングの記事で紹介した口パク拒絶のエピソードも、リアルの追及なのかもしれません。

口パクが行われていた場合、普通に放送されている限りでは、口パクなのかそうでないのか確かめるのは困難です。しかし、流れている音声とあきらかに違う動きをしているというような“放送事故”があると、それが白日のもとにさらされます。リアルというのは、こういうイレギュラーがあってはじめて明らかになるわけで、リアルの追求は、予定調和を破壊する“事故”と背中合わせなのです。
その意図がどうであれ、ポリスはここで“リアル”を見せてくれたわけです。

背景はだいぶ違いますが、かつて忌野清志郎がやったFM東京事件もそうだと思うんです。
ああいうふうに、事前の取り決めが無視される、調和が破られることで、リアルが垣間見える――そういうリアルを見せてくれる存在こそが、真のロックンローラーでしょう。スティング、そしてポリスは、そういう意味でリアルなロックンローラーなんだと思います。

宗像大社に行ってきました

2019-05-01 19:19:09 | 旅行
昨日、GWの一日を利用して、宗像大社に行ってきました。

宗像大社といえば、近年世界遺産にも指定されたところですが……
そもそもどういう存在なのかというのがなかなか複雑なので、はじめに、その点をちょっと説明しておきましょう。

私も今回行ってみてはじめて知ったんですが、「宗像大社」という一つの神社があるわけではないんですね。

沖ノ島にある「沖津宮」、大島にある「中津宮」、九州本土にある「辺津宮」の三つをあわせて、「宗像大社」といっているんです。つまり、本土と二つの島に散らばって存在する三つの神社を、まとめて宗像大社というわけです。これは、全国的にみてもなかなか独特なんじゃないでしょうか。

なかでも重要なのは、沖津宮がある沖ノ島。
海上にぽつんと浮かぶこの島は、古来航海者にとって重要な目印だったらしく、そのことから、航海を守る女神が祀られるようになったそうです。
古代の日本にとって、大陸との交易は重要でした。その交易路の要衝に位置しているということで、朝廷にとっても沖ノ島は特別な意味を持っていたようです。三つの神社に祀られる三人の女神は天照大神を守護する存在ということで、宮司である宗像氏は皇室とも深いつながりを持っていたといいます。


ただ、沖ノ島に上陸はできないので、ここには行けません。
私が今回行ったのは、大島のほう。


大島へは、神湊港からフェリーで。





およそ20分ほどで到着します。


島にはレンタル自転車があり、これで移動しました。
すべて電動アシスト仕様になっていて、なぜだろうとはじめは思ったんですが……島内を移動してみればその理由はわかります。とにかく坂道が多く、電動アシストがなければとても無理なんです。

以下、島をおよそ一周して見たものを紹介していきましょう。

中津宮の隣には、湧水が出ているところがあります。





なかなか雰囲気が出ていていいと思います。


中津宮を出ると、島の北西部へ。
山中の道を自転車で進み、北側の海岸に出ます。







ここには、洞窟があります。
ただし、自転車ではいけません。崖を開いてつくった階段を徒歩で降りると、海面近くまで降りたところに入り口が。



洞窟といっても、おそらく自然にできたものではなく、人が掘ったもの。江戸時代にキリシタンが潜伏していたそうです。


そこから、海岸線にそいって東へ移動すると、風車があります。



その近くには、砲台の跡。



戦前には、ここに砲台が置かれていたそうです。



この画像に映っているのは、あるいは後に復元されたものかもしれませんが……



日露戦争時の日本海海戦があったのはこの近海。近くには、日露戦争戦没者の慰霊碑もありました。


ここからは、島の中央部へ。

中央部へ行くほど標高は高くなり、電動アシストがあっても自転車ではかなりきつくなってきます。



最後の心臓破りの坂を上り切ると、そこにあるのが御嶽山神社。







同じ名前の神社は日本各地にあると思いますが、山岳信仰ということでしょう。
この日は周囲がかすみがかかっていて、神秘的な雰囲気でした。


アスファルト舗装された道路はここを終点として行き止まりになっている(ただし、遊歩道で南海岸に抜けることは可能)ので、いったん北の海岸に戻ります。



島の北部には、遥拝所があります。



沖ノ島にはそうそう行けないわけなので、ここから沖ノ島を拝むことができる、という施設です。



こういうさびれた廃墟感はいいですね。


さらに東のほうにまで海岸は伸びていますが、今回は、時間の都合で島の東半分は断念。ここから、南へ戻ります。


南東海岸にある、海の小道。



干潮時にしかあらわれない道といいます。



その近くにある、夢の小夜島。



飯尾宗祇が歌に詠んだのだとか。


南海岸に戻ってきたところで、フェリーで本土へ帰還。

帰路、道の駅むなかたに寄ってきました。

そこで売っていたソフトクリーム「玄海の塩」です。




本土にある、辺津宮にもいってきました。



本土にあるだけあって、中津宮と比べるとだいぶ敷地が広いです。
奥のほうには第二宮、第三宮というものがあって、ここに参拝すると沖津宮、中津宮も合わせて参拝したことになるといいます。
なんという裏技……
だったらわざわざ大島に行く必要ないんじゃないかという話になってきますが、私個人の感想としては、大島には行く価値が十分にあると思います。
北部海岸の崖や岩塊の存在感は、ここに載せた画像ではなかなか伝わりません。あれは、その場で体感してこそ価値があると思いますね。

ただし、自転車でまわるのはかなりしんどいので、大島に行こうと考えている方には、フェリーで車を持っていくことをおすすめします。