手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

百田宗治  安足間

2006-08-14 21:59:01 | 随想

昨日、名古屋の妹(亮子)から、3本の冊子が送られてきた。私がブログに「安足間」の思い出を書き、その中で百田宗治の詩「安足間」をうろ覚えのまま書いたのを知り、自分の持っている資料を私に送ってよこしたのです。

 その一冊が写真のもので、これは安足間で「宗治祭」がもたれた折、実行委員会が発行したものなのです。写真は安足間に建てられている宗治の詩碑の拓本縮図なのです。以前に私がブログで紹介した詩文は、やはり大分間違っていました。改めて書いておきます。

       安 足 間       百 田 宗 治 

あんたろまから,こいという
     縁側から、正面に、大雪山の雪渓が
     見えると いう。
     石狩の上流が あふれて、
     泥やなぎの 根を洗っているのを、
     身にこいと いう。
     山女を 食いに こいと いう。
     寺もある。郵便局もある。
     望みなら、てごろの住居も
     建てて やると いう。
     薪にも 不自由は させぬという。
       埋もれに 子よという。
     死にに こよという。

 これが正確な詩文でした。名古屋の妹がこんな資料を持っていたのです。妹は旭川師範の予科に入学し、私が旭川師範の本科一年に入学した年、予科を卒業、家計の問題もあり、旧制中学卒の資格で、上川小学校の代用教員になったのです。その教員時代に、百田宗治の詩の主人公、安足間の万葉寺住職白川了照さんの主宰している短歌会に入っていたのです。(実は私、そのことを知らないでいました)

 今回、一緒に送ってくれた、冊子のもう一本は「村の本」という、昭和26年に発行された、これは歌誌なのです。中に百田宗治さんの「自伝的に・・・」という一文もあり、妹の短歌4首も収められていました。この村の本は第二号で継続発行を予定していたけれど、終に出せなかったのだそうです。百田宗治さんも続きを次号に書く予定にされていたようですが、それが実現できなかったのです。ともあれ、村の本の歌会を通して、つながっていたのです。

 さて、もう一本の冊子は、「北の大地」特別演奏会のシオリです。200年12月旭川で、DAN YEAR 2000の一環として、団伊玖磨先生が作曲した、混声合唱曲「北の大地」、その作詞をしたのが小野寺与吉さんなのです。小野寺さんは旭川師範の先輩で、安足間から通学していました。師範在学時代から詩人として活躍されていて、私もあこがれた先輩です。妹は、私より先に小野寺先輩とは交流があり、村の本の同人たちも皆交流があるのです。先に書きました宗治祭の実行委員にも名前を連ねています。そのシオリだったのです。

 北の大地の一郭、名さえ知られない安足間、そんなところで点されていた一つの明かりが、この送られてきた資料から今懐かしく私の胸に蘇る。

   

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