手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

8月15日  15の夏 あれから61年

2006-08-15 21:52:44 | 随想
昭和20年8月15日、この日だけは忘れられない。それが終戦の日だったことと、もう一つの事情によります。

 永山農業学校の1年生で、6月から援農に行き、この日が援農の最後の日だったのです。午前中に援農先の農家から一旦学校に戻り、そして遅い夏休みに入ることになっていたのです。援農の厳しい仕事から解放され、故郷に帰り暫くゆっくり出来る嬉しさで心は一杯でした。

 学校に着き、暫くすると「本日12時に重大放送があるので、全員事務室前の廊下に整列せよ」という連絡がきました。廊下にラジオが出されていて、天皇陛下の放送だと言うことでした。それがいわゆる玉音放送、ポツダム宣言受諾の放送だったのです。ラジオの感度が悪く、音量も無いので私たちには殆ど何を言っているのか判りませんでした。10日くらい前に旭川もグラマンの空襲を受けていて、戦局が切迫しているのは判っていましたが、日本は最後の一人まで戦うのだと信じていたので、多分厳しい情勢だけれど、一層頑張れといっているのだろうと思っていたのです。ラジオの近くで直立不動で聞いていた担任の先生が、涙を流しているのを不思議に思っていましたが、日本が降伏して、戦争が終ったと知った時、ただ茫然とするだけでした。何か信じられないことが起こったという、変な違和感だけが心に広がりました。この援農とのかかわりで、忘れられない日となつたのです。

 あの日から61年過ぎたのですか。アメリカ軍がきたら大変なことになるような噂などがありましたが、特に混乱することも無く、アメリカの占領政策を受け入れ、戦後の復興が始まったのでした。
 
 日本と同盟国として戦ったドイツ、イタリヤも順調な復興をとげ、文明先進国となったのでした。変な抵抗はせず、しかし、民族の誇りを保てる努力をしながら国民が一つになって努力し敗戦国とはいえないような現在の日本を作り上げたのです。

 まだ世界で戦争をしている国、もう、一定の結果の出ている国などがあります。しかし、復興への道筋も見えないイラク、一日も早い、国を挙げての新しい国作りが、恩讐を超えてなされなければならないのでしょう。ただ、怨念のぶつけ合いだけでは、不幸の連鎖しかないのではないでしょうか。

 よそ者だからいえるのかもしれませんが、何故という気持が強いし、宗教的対立とすれば、宗教って何なのだと思ってしまう。判りません、判らないものは口を出さないのがいいのですか。テロリスト、標的はアメリカ?テロでアメリカがテロリストに降伏するでしようか、テロリスト、口実はどうあれ、人殺し集団でしかないことになる。それにしても、このような人たちに武器がわたるってどういうことなのでしょう。
コメント
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