このブログを始めて今日が、ちょうど100日になる。
書いた作品もこれまた、ちょうど100本だ。
アッ違った。今書いているのは101本目になる。
まあ、1日1本のペースで書き続けたわけだ。
この中に実の母と、義理の母について書いたものがある。
「母恋」と「昭和からのはがき」が、それである。
100日を記念して、この2本を合体させてみた。
母に寄せる思いはやはり強い。
結婚すると、たいていの人は2人の母を持つことになる。
その2人の母は今、マリア像(我が家は代々のクリスチャンだ)の横で、
写真となって仲良く並んでいる。
どちらも含み笑いしているような柔和で、やさし気な顔だ。
実母が亡くなったのは平成7年、義母はそれより4年早かった。
どのような人であったか、もう容易には思い出せなくなってしまっている。
写真に、その面影をしのぶばかりだが、もちろん幾ばくかの記憶は残している。
実母の話から始めると、最後の5年ほどは病院暮らしだった。
軽い脳梗塞がきっかけだったが、当初はまだ元気だった。
だが、どうしたはずみだったのか院内で転倒し、大腿骨を骨折してしまったのである。
年寄りが足腰を骨折すると、それが引き金となって
寝たきりになるとよく言われるが、その通りであった。
母を見舞ったある日。その日はちょうど昼食時だった。
歩けないのでそのままベッド上で食事をしようとしている。
母の側に寄り、ベッドの端に少しだけ尻を乗せた。
おかゆみたいな流動食、それをスプーンで母の口に運んでやった。
すると、看護師がそれを見とがめ「やめてください」と言うのである。
「なぜ?」と語気を強めた。ささやかな孝行を邪魔された思いだった。
「手助けすると、もう自分では食べようとしなくなりますよ」
母の手を取り、そっとスプーンを握らせた。
やがて、認知症みたいな症状も出てきた。
病室に入り顔を見合わせると「遠くからよく来たね」と言う。
僕が住む福岡から母のいる長崎まで、高速道路を利用しておよそ2時間の行程。
それを分かって「遠くから……」と言ってくれたのだと安心したら、
それもわずかの間。
その後は誰と話しているのか、話がまったく通じなくなった。
たまらず「ちょっとトイレへ」と言って病室を出た途端、頬が濡れた。
母は子を思いて泣き、子は母を憐れみて泣く。
「もう少しお母さんを見舞ってあげたらいいのに……」
妻はしばしばそう促した。
だが、「うん、そうだな」の生返事ばかりだった。
母が亡くなったのは、それから間もなくのことである。
髭を剃ろうと鏡を覗き込んだ途端、母がすーっと出てきて
「ほれ、眉が下がっているよ。ぎゅっと上げなさい」と言う。子供の頃から始まった、
このおまじないみたいな母との掛け合いは、
独り立ちして家を出るまで、いや今でもなお続いている。
小さい頃は、母に言われるまま指を湿らせ横に引くと、眉は一文字に近くはなった。
だが今はもう喜寿、77歳なのだ。あの頃の垂れ方とは違う。
同じようにやってみても、そうはいかない。
それでも母はしつこい。「ほれ、ほれ」と人差し指を伸ばしてくるのだ。
仕方なく指先を舌で湿らせ、眉を横にきっと引いた。
義母の記憶は、もう少しはっきりした形で残っている。
薄茶色にくすんでしまった、『昭和63年9月15日』消印の
はがきが大切に残されているからである。
記憶をより強くしているのは、宛名が書かれていない
奇妙なはがきだったせいでもある。
もっとも、差出人はすぐに分かった。本来は宛名が書かれるべきところに
義母の名が宛名と見まがうほど大きな字で書かれていたのだ。
この年の敬老の日、私たちの2人の娘、言うまでもなく義母にとっては孫娘が、
77歳のおばあちゃんに何か贈り物をしたらしい。
娘たちは、「何だったか、よく覚えていない」と言うのだが、
文面には「これを着れば、ばあちゃんも5歳くらい若くなります。
それで、これを病院に着て行ったら、先生がハイカラですねって……。
おまけに、おばあちゃんもハイカラですものねとか言われたので、
大笑いしてしまいました」と書かれているから、
何かシャツみたいなものだったのだろう。娘たちは当時まだ中・高校生で、
そんな孫からのプレゼントとあれば、それほどのものではなかったはずだが、
「ありがとう、ありがとう」と、何度も繰り返している。
また、「お正月には帰っておいで。お年玉貯めておくからね。待っているよ」と添え、
さらに「お父さん、お母さん元気にして居ますか。2人ともしごとから帰ると、
つかれて居るので、出来るだけお手つだいして上なさい。
お母さん、少しはらくになるように」とも言い、
「べんきょうも、がんばってね。元気でね。気を付けてね」と、
孫に対する祖母の思いのたけを書き連ねているのである。
通信手段は大きく変わった。
今はメールやLINEで時を置かず自分の意を伝えることができる。
だが、わずか100×148ミリのスペースの中にぎっしりと並べた
大小の字、蛇行する行、とつとつとした言い方等、
これらが義母の思いの強さを切々と伝えるのである。
同じ文面をスマホの画面に打ち込んでみても、
義母のこれほどの情感を果たして伝えることができるであろうか。
宛名がないのに、よく届いたものだ。
文面を読まれたのかどうか知りようもないが、
郵便局の方が義母のこれほどの喜びように「この便りはぜひ届けてあげよう」と
思われたのかもしれない。
義母はがんに倒れ、私たちが住む福岡の病院に入院した。
妻は看病のため毎日のように通った。
そして、孫にあれほどの情を見せた義母は、あのはがきが届いた
2年後に他界したのである。
妻はこのはがきを31年間も書棚の中に大事にしまっていた。
そこには孫への思いとは別に、義母の自分の末娘=妻に対する
いたわりがこめられているようにも思え、
妻はそれを感じ取って大事にしまっていたのであろう。
今もなお書棚の中に静かに置かれている。
母二人、それぞれどのような人生を送ったのだろうか。
幸せであったのなら、子は何を言うことがあろうか。何もない。
ただ、ありがとう、とだけ。