12月14日のブログで「49日とはどんな日か」と投稿した。きょうは「初7日」について書き留めておこう。
唐の時代、道明和上という僧が罪によって冥界の死者に連れられて中有(チュウウ)に行き、閻魔王の裁きによって人違いだと判明し、放免されて蘇生した後、その時見聞した中有の世界を世間に伝え広めたといわれている。
中有では意生身(イジョウシン)といって、身体が滅びて霊魂になるため、香煙だけを食べるといわれ、そのために葬式や供養のとき香を焚いて弔い、香を絶やさないようにあうるのである。
死者は逆さ水(水に湯をさしたぬるま湯)で清められ、死装束を身につけて、釈迦の涅槃にならって北枕に寝かされる。死装束にはも一つ一つの意味がある。死者はまず、経帷子(一重の木綿の着物で、縫い糸の尻は止めず、返し針や玉結びをしない)を左前に着る。
頭には天冠という三角の白い帽子をかぶる。中有では王の審判を受けるため、礼を失することのないようにとの配慮である。手には白い手甲をはめ、足には白い脚絆、白足袋に草履をはく。首から頭陀袋を下げ、中には予備の草履や、三途の川渡し賃である六文錢、数珠、旅の無事を守るための守り刀などを入れる。(守り刀は刃先を顔に向けて身体の上に置く)。
沙汰、身支度を整えた死者は白装束に身を固めて、杖をたよりにただ一人真っ暗な広野を死出の旅に出かける。死者の歩む冥土の旅は、死出の山から始まる。冥界の牛頭(ゴズ)、馬頭(メズ)が鉄棒で打ちかかってくるのを防ぎながら八百里の道を歩く。死出の山には郭公がいて、山を無事に越えたかどうかを知らせてくれる。
初めての審判が秦公王(シンコウオウ)の前で行われるのが七日目である。仏教には因果応報の思想にもとづいて、現世悪行の結果は地獄へ、善行の結果は天国へという教理があるため、審判が必要となるわけである。
秦公王のもとでは、書類審査のみで生前の罪の軽重に従って裁きを受け、六道のいずれに転生するかが決まることになるが、最初の関門では結論はなかなか出ないのが普通である。
この秦公王の憐みのもとに佛果を得て、より良き世界に成仏できるように供養を営むのが「初七日」である。秦公王の判決が下れば、死者は生を得て六道の一つに転生出来るが、結論が出なければ七日ごとの次の審判に委ねられることになる。
現在の葬儀とはかけ離れたところもあるが、何か教えられるところがあるのではないだろうか。