脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

やんちゃ文化/カワイイ文化。

2011年01月29日 10時26分27秒 | コギト
カワイイは女の子文化である。
やんちゃは男の子文化である。

主に80年代以降、日本の文化状況は、カワイイに乗っ取られ、
女の子文化に押され過ぎて、今日まで続いている気がする。
カワイイ文化のカウンター・カルチャーとして、或いは、
文化の主導権を男に戻すには、「やんちゃ」文化が必要である。

元祖やんちゃはビートルズである。
他には例えば、SMAPはやんちゃである。
たけしもタモリもやんちゃである。
尾崎豊もやんちゃだったし、矢沢永吉も(多分)やんちゃである。

40過ぎのオバさんまでが、「カワイイ」をやりたがる時代に、
男には、なんで思慮分別のある紳士が求められ、男の子文化である
「やんちゃ」が認められないのか? おかしいとは思わないか。

いつだったか、SMAPのKさんが、深夜の公園で素っ裸で走り回った
かで事件になった。あの程度のやんちゃを法律沙汰にしてKさんを処罰
するが如きは、極めて無粋で寛容さに欠けている、と思う。

あれが事件となった背景には、「キレイ」とか「カワイイ」という
文化規範で下地塗りされた管理社会があって、Kさんのやんちゃが
排除されるべき異物・異端として前景化したせいである。


やんちゃは男の隠し味であり、ときにやんちゃは人生の賦活剤である。
ふざけっ放し、迷惑掛けっぱなしでは困るが、タフにやんちゃを貫ける
根性は今や貴重である。
重要なことは、やんちゃの倫理である。
やんちゃには、人を怒らせても、誰も傷付けない配慮が求められる。

管理的な「キレイ」社会は、やんちゃを嫌い、排除してしまった。
いじめもやんちゃな現象ではあるが、やんちゃの倫理とは、
自分より弱い者にはやんちゃを仕掛けないことである。
それ故、加害的ないじめは「やんちゃ道」から外れている。

寧ろ今日、いじめられる側にこそ、タフなやんちゃ魂が必要だ。
男がいじめを跳ね返すには、周囲など意に介さぬ、やんちゃ男子の
息吹を取り戻すことである。徹底して陽性の、頑健なるやんちゃで
たとえ負けると知りつつも、渡り合うことが、いじめという陰気な
事態を跳ね返す、始めの一歩になるように思う。


やんちゃの敵は「女」ではない。
また私は、「女」のキレイ・カワイイ文化に反対なのではない。
「男」/「女」文化の圧力バランスを問題にしているのである。
いや、もっと端的に言えば、男に元気がなさ過ぎるという問題である。

我々の敵は、暴君・専制者、権威主義者、管理主義者、等々である。
やんちゃとは、弱者や少数者がもつ優れた、否定力・批判力である。
やんちゃとは、脱構築である。
資本主義とは「強いが勝ち」のロジックである。
それは常に修正や調整的介入が不可避な、人類の方便でもある。
資本の論理に抗う戦略が模索されることもなく、
資本に飲み込まれて廻るだけの人間社会では、人間に幸福はない。


やんちゃには、制度に囚われた人間性から、
人間を解放させる自由とユーモアがある。
やんちゃとは、道化精神に発した非戦、不争でもあり、
ときに自分を地べたに笑い捨てつつも、関係と対立を廃棄し、
単独者の自由と無に向き合えるなら、道の身振りである。
(真直ぐに不屈にやんちゃであることは、人倫や美学にさえ道を拓く
 だろう)

男たちよ、同胞よ。
自分の内なる「男の子」を解き放て!
元気に、ラディカルに、やんちゃを楽しめ!







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