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沖縄コンベンションセンター(12月3日)

2017年12月04日 | ライブ・公演・舞台

沖縄に参加したJ友さんに、ライブレポをお願いしました。どうも有難うございます


空港からホテル経由でタクシーで来ました。遠いです。

会場は辺鄙なところにあるので 帰ってくるのが大変でした。

コンベンションセンターは古くて3階まであり、ほぼ満席だったけど
ちらほら空席もあったかな、1階席も半分以上の人は座ってましたが
雰囲気はよかったですよ。

ジュリー❗️とかキャー❗️とかほとんど聞こえず、でも拍手はすごくて
沖縄の人たちが歓迎しているのはよくわかりました
ジュリーの声の調子は、ちょっとお疲れでしょうか

前回沖縄に来たのは還暦の時で、9年前だったこと。
タイガースの時から何度か来ていたと言っていました。
初めてタイガースで来た時はパスポートを持ってきた。

ソロになってからは、ちょうど沖縄が返還されて、
右側通行から左側にかわる日に来ていて、びっくりしたそうです。
信号機も付け替えて、大変だった、でも全然事故もおこらず
感心したと言っていました。

ホテルのエレベーターでいたずらしている子供を叩いたら、
ヤ〇ザの息子で後であやまりに行ったこと、そのヤ〇ザから大阪フェスに
ビールが2ケース届いたことなど話していました。
来年も沖縄には来るそうですよ😊

大河ドラマの「琉球の風」に出演した。
自分も関西弁のドラマを観ると こそばゆくなるので、
沖縄の人に聞いたら、「見ない」と言われて、そうだろうなあと思った。

ジュリーが、ありがとう、サンキュー、ありがとうねー
というたび、沖縄の人たちにウケてました。男の人も多かったですよ。


美ら海水族館行ってしました。


J友さん、どうもご報告を有難うございました

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みちものがたり「慶応日吉キャンパスの銀杏並木」朝日新聞be

2017年12月04日 | 新聞・雑誌 記事

土曜日の朝日新聞別版beの恒例企画「みちものがたり」は、日本全国の「道・みち」を通して そこに関連した人生や歴史を辿る企画です。2日は、ピーのみちものがたりでした。

※ピーに関する部分のみ、抜き出しました。

(みちのものがたり)慶応日吉キャンパスの銀杏並木 横浜市 タイガース「再会」いざなう


黄金色に染まった慶応大学日吉キャンパスの並木道で、3世代の家族が散歩を楽しんでいた=11月10日、横浜市港北区日吉4丁目

 晩秋の夕暮れ。慶応大学日吉キャンパス(横浜市)の銀杏(いちょう)並木を、学生や買い物袋を持った人、会社帰りの人が行き交う。キャンパスには門がなく、近くに住む人たちの生活道路にもなっている不思議な場所だ。

 1972年春。瞳みのるさん(71)=本名・人見豊(みのる)=は、緑に芽吹く銀杏並木を見上げながら希望に満ちていた。「新しい人生が始まる」。25歳で慶大に入学、「第二の人生」にこぎ出した。

 1年と少し前までは、グループサウンズ「ザ・タイガース」のドラマー。「ピー」という愛称で、沢田研二さんに次ぐ人気者だった。「花の首飾り」などヒットを飛ばしたが、事務所との考え方の違いからデビュー後4年で解散する。岸部一徳さんらメンバーは、地元・京都の小中高以来の親友だ。しかし、「アイドル路線」で売ろうとする事務所の言いなりになっているようで許せなかった。

 「10年後に会おう。君らはきっと乞食(こじき)になっているだろう」。71年1月に東京・日本武道館で開いた最後のコンサートの夜、そう言い残して京都に帰った。「自分を鼓舞するために、あえてそういう言い方をしました」

 高校に復学した瞳さんは、大学で中国文学を学ぼうと決め猛勉強した。そして翌年、見事に慶大文学部に合格。同期生の加藤正彦・慶応高校教諭(64)は、教室の一番前でテープレコーダーを回しながら講義を聴く瞳さんの後ろ姿を鮮明に覚えている。     *

 「大学の教員になる」と計画を立てた瞳さんだが、少し違う人生を歩む。東京・三田のキャンパスで学んでいた大学院修士課程2年のとき、教授のすすめで日吉の慶応高校で漢文を教え始めた。その後教諭になった。「正直いうと都落ちした気分でしたね」

 35歳で結婚、育児にも積極的に関わった。大学予備校で漢文も教えた。忙しかったが、生徒たちとのふれ合いは刺激的だった。高校では生徒による教員評価アンケートを導入。教員同士が競争することで第2外国語・中国語の授業の質を高めようと考えた。

 率先して真剣に取り組んだ結果、中国語の履修者数が大きく増えて独、仏語を抜きトップになった。「銀杏並木では、遅刻しそうになり、いつも走っていた記憶しかありません。朝は授業に、夕方は保育園と予備校に」と笑う。

 元メンバーや芸能関係者と連絡をとることは全くなかった。芸能界とは無縁の家族に迷惑をかけたくない、との強い思いがあったからだ。

 しかし、2008年11月、ザ・タイガースのマネジャーだった中井国二さん(故人)が突然、学園祭の日に瞳さんを訪ねてきた。銀杏並木が黄金色に色づき始めるころだ。瞳さんは不在だったが、このとき何かを感じ、後日、居酒屋で会うことになった。

 「力不足で、5人の固い友情をバラバラにしてしまった」。中井さんはわびた。そして「ほかのメンバーが、みんな君を待っている」と、会うことをすすめた。沢田さんが「もしかしたら、ピーに会えるかも」と、瞳さん行きつけの飲み屋に時々顔を出していたことも知らされた。

 この直前、沢田さんら元メンバーが、瞳さんへのメッセージを込めた曲「ロング・グッバイ」をテレビで歌った。「こんなに長い別れになるとは思わなかった。いつも君のことを気にかけている。一度飲まないか」という内容だ。

 その年の12月、ついに元メンバーとの再会が実現した。38年ぶりに杯を重ね、語り合い、バンド結成前の気持ちを取り戻していった。「違う道を歩んだからこそ、元の道のステキさがわかるんです」

 翌年、瞳さんは「ロング・グッバイ」への返歌として、「道」を作詞作曲し、「僕の心にも君がいる」と仲間に語りかけた。「ずっと平行線だと思ったそれぞれの道が、また交わった」と喜ぶ。

 33年間の教員生活を終えた瞳さんは、11年秋から沢田さんのコンサートツアーに参加。約41年ぶりの芸能活動だった。13年には、ザ・タイガースのオリジナルメンバーとともにステージに立った。

 いま瞳さんは「仰げば尊し」など明治期の唱歌が長く歌い継がれるようにと、新しく日本語と中国語の詞をつける活動をしている。沢田さんの協力で集めたメンバーと「瞳みのる&二十二世紀バンド」を結成、そうした曲を日本や中国、台湾で歌う。

 音楽から文学、そして音楽と文学の融合へ――。「第三の人生」は始まったばかりだ。

 

 

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