大阪、樟葉であった「シラケ世代の旗手 沢田研二論」の講座に参加してきました。
沢田研二・萩原健一・井上堯之バンドの音楽を聴きながら、1970年代の文化と社会を振り返ります。1971年結成のPYGに端を発する三者の交流を中心に、1960年代後半のGSの音楽が、挫折を経て1970年代に どのように花開いたのか、私達の青春に、その後の人生にどのように影響を与えたのか。当時の音楽や映像を見ながら改めて体感しましょう。
という講座です。
※しらけ世代とは、1950年代から1960年代前半に生まれた世代のことです。学生運動があった前の世代とは逆に、政治に対して無関心で三無主義(無気力・無感動・無関心)などといわれました。真面目や一生懸命なことが格好悪いという風潮がありました。
ジュリー自身が「しらけ」ているとは全く思わないが、学生運動後の「しらけ世代」、三無主義(無気力・無感動・無関心)という言葉自体が、いまや すごく懐かしい。ジュリーはこの世代に支持されていたということか。
教室で渡されたプリントには「時のすぎゆくままに」「悪魔のようなあいつ」「花・太陽・雨」などの曲名が書かれて、曲と絵像が流れて、音楽を聴きながら教授の講義です。1974年から 1979年のジュリーの絶頂期を、今は亡き井上さん、ショーケンを絡めてジュリーを語るせいか、1時間半の講座の時間中がずっと、寂しいトーンに彩られている感じがしてしまいました。
1974年の紅白でジュリーが鳩を出す、ドラマチックさが忘れられない「追憶」の映像。比叡山フリーコンサートの映像では「お前は魔法使い」を歌うジュリーの映像に、思わず今のジュリーを重ねて比べる自分がいた。まだ28歳のジュリーの魔法使いには、今の凄みを感じさせる迫力はなかったけれど、動きに羽根があるような若さがあって、思わず見とれた。
講座では、井上堯之さんの言葉や音楽、人生論。ショーケンのジュリー論、自分とジュリーを比べた発言など、すでに2人のいなくなった今、その言葉が身に沁みる・・
「太陽にほえろ」でマカロニに射殺される、犯人役のジュリー。ショーケンとジュリーのパブリックイメージ、演技の違いが、短い場面に表れていました。「寺内貫太郎一家」でジュリーと見もだえする、おきん婆ちゃんの樹木希林さんは、当時はまだ30代の若さで樹木希林の名前ですらなかった。その希林さんも、もういない。
流されたYOUTUBEなどの映像は、すでに見たことのあるもので、時に言い間違いもあるが、先生が解説すれば それはさらに特別なものに思えてくる・・気がする。
講座で流れた曲で心に一番響いたのは、昨年の古稀のツアーのラストでも流された、井上さんがジュリーを歌った「JUST A MAN」。 井上さんの晩年の、渋く老成したイメージとは違い、その声は甘くて高く若々しく、心の中に沁みとおった。
教授は出版社の人から「ジュリーは難しい人だよ」と言われたという。18歳の時から人から裏切られ、利用され、騙されてきたのだろう・・と。
ジュリーが好きだという、ジョージ・ハリスンの「Somthing 2002」のカバーが流れ、そこに曲とは関係がないのだけど、比叡山のフリーコンサートで泣いているファンの女の子の映像が重なる。あの女の子たちは、あの日の私の姿でもある。「Somthing」がこんなにいい曲だと思ったのは、私には初めての事だろう。→こちらで「Somthing」
「彼は語らない。」「皆さんはジュリーを通して、皆さんは何を見ましたか?」半世紀の間に、ジュリーの波瀾の芸能生活を通して時代の流れ、時代の移り変わりをヒシヒシと、この身に感じてきた。
ジュリーはこの先も、安住、安定、安穏の芸能人生を拒否し、歩き難い道をわざわざ探して歩くのだろうか。たやすく想像できる生き方よりも、私達の想像以上を行くのがジュリー。まだまだ、ワクワクドキドキさせてくれることでしょう。
1974年から、井上バンドと別れることになった1979年までの5年間の、何と濃密な事か。その濃密な5年間を、1時間半という講座の時間で、ジュリーの歌声や映像を見ていると、あっという間に時間は過ぎました。我々が知っている事よりも、もっと掘り下げたお話が聴きたい気もしますが、いかんせん時間が少なすぎました。
しかし、ジュリーの歌声を聴いて 各人が思い思いにそれぞれ静かに思いをはせればいい。その時間が大事なのかなと思いました。終わった後、教授に今のジュリーの事を書いてください、とお願いをしてきました。