ガラケーでは、記事が読めませんでしたとおっしゃるので、コピペしました。長いので、ジュリーのところと、「パクパクコンテスト」の箇所のみ色を変えています。
川崎麻世さんが入所した時は、郷さんが退所し、ジャニーズ事務所は氷河期の頃だったのですね。
川崎麻世 ジャニーさんお別れの会での涙のワケ
4日に行われたジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長(享年87)のお別れの会に参列した川崎麻世(56)が、本紙の取材に応じてジャニーさんとの秘話を明かした。ジャニーさんにミュージカル俳優として期待されながら、1989年に妻カイヤ(57)の妊娠を機に同事務所を退所した。同会に参列後、会見で目をうるませ「長年の心のつかえがとれて心が晴れました」と告白したが、その涙のワケを初めて激白した。
川崎といえば、不倫騒動や現在、離婚訴訟中のカイヤとの度重なるトラブルなどで世間を騒がせてきた。主に舞台俳優として活動の場を広げてきたが、その根底には1976年、13歳でジャニーズ事務所入りし89年に退所するまで、ジャニーさんに叩き込まれた「ある教え」があった。
よみうりテレビの番組の素人参加コーナー(パクパクコンテスト)で西城秀樹のものまねでチャンピオンになった川崎の素質を見抜いたジャニーさん。事務所に呼びつけ「明日、日比谷の野外音楽堂でジャニーズのコンサートがあるから出ちゃいなよ」。川崎は「合宿所で音合わせして翌日にはステージにいた。“僕、本当にジャニーズに入ったんですか!?”と驚きましたね」と振り返る。
77年に歌手デビューするが、賞レースの最優秀新人賞は逃した。この時のジャニーさんの言葉「挫折は人を強くする」は、心に刻まれているという。
当時のジャニーズはジャニーさんを入れてもスタッフは少なく、フォーリーブスは解散前、郷ひろみも退所した後で、氷河期といわれた時代。その後、たのきんトリオ、少年隊などが出てくるが、川崎も大事に育てられた。
「麻布十番の新築のマンションに住まわせていただき、ジャニーさんは『麻世はアイドルではなく、役者の道。勉強しなさい』とミュージカルの勉強のためロンドンやニューヨークへの長期の修業をさせていただいた。2週間に一度、段ボールが届いて米飯やカップめん、梅干し、缶詰などが(入っていて)何よりありがたかった。メリーさん、ジャニーさんには感謝しかありません」
海外進出を果たした後も、ジャニーさんはほめることなく、川崎が出演したテレビ番組などを見ては「ジュリー(沢田研二)だったらここはこうするだろうね」などと、アドバイスした。
「西城秀樹さんが使った2メートル以上ある十字架のセットを見たジャニーさんは、テレビ局に電話して『そのセット、麻世のコンサートに貸して』と、自分で借りてきて合宿所でノコギリで切り始めるんです。新宿コマまで自ら搬入もしてくれました」
カイヤの妊娠を機に、事務所に迷惑はかけられないと退所を決意。出産に立ち会った米国から「生まれてくる子供のためにもがんばります」と手紙を書いた。以来、面と向かって謝罪していなかったが、数年前、帝国劇場の舞台上演中、思いがけずジャニーさんと再会した。
「『麻世、元気にしてる?」と声をかけていただいた。それが最後の思い出となりました」
お別れの会の控室では近藤真彦に促され、姉・メリー喜多川副社長(92)に会い、30年ぶりの謝罪がかなった。
「メリーさんが『麻世とマッチは似てる』と、その場にいたOBや現役の顔を見渡しながら『みんな似てる』と。似てますかね~と不思議がっていたら『みんな子供の時と同じ顔』。帰り際『ハグしていいですか?』と抱き合うと『チューしてあげる。I LOVE YOU。がんばんなよ』と言っていただいた。ジャニーさん、メリーさんには謝罪できず、心のつかえがずっとありましたが、心が晴れました」
お別れの会後、川崎は参列したジャニーズOBたちと「しのぶ会」を開催。二次会では“ジャニーズしばり”のカラオケをしながら、朝4時まで思い出話に花を咲かせたという。