俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

野合

2016-06-05 10:30:04 | Weblog
 野菜中心の食事は本当にヘルシーなのだろうか。野菜には各種ビタミン類が含まれており必要な食材ではあるが、肉や魚などと比べて特に優れた食材とは思えない。栄養に対する評価以外に何か信仰に近い強力な力が介入していると考えざるを得ない。
 最大の力は痩せ願望だろう。野菜の主成分は人類には殆んど消化吸収できない食物繊維であり大半がカロリーゼロの食材だ。3大栄養素である澱粉・蛋白質・脂質を殆んど含まない低栄養価食にも拘わらず「ヘルシー食」と詐称され得るのは、健康よりも痩せることを重視する歪んだ健康常識がすっかり根付いているからだろう。日本人の得意技の「言い換え」や「ラベリング」が効果を発揮している。
 しかしこんな変な願望だけでは大きな力とはなり得ない。痩せ願望は意外な勢力と結託した。それは宗教だ。刹那的で現世利益しか考えないだけではなく将来の健康をも犠牲にする痩せ願望と宗教との野合は、民進党と共産党との野合にも負けないほど不自然なものだ。
 ムスリム(イスラム教徒)は豚を食べない。ヒンズー教徒は牛を食べない。キリスト教徒は基本的には「海にありてヒレとウロコを持たない動物」を食べない。仏教徒は一切の殺生を咎める。これらに共通するのは殺生回避だ。徳川綱吉の生類憐みの令と同様、根拠の薄弱な禁忌だ。
 科学的根拠の乏しい痩せ願望は宗教と野合することによって倫理的根拠を獲得した。これは強力な推進力となった。ほんの少しでも肉食に疚しさを感じさせれば充分な抑制力として働く。禁忌は必ずしも自覚的である必要は無い。何となく悪そうというイメージを植え付けるだけで充分な効果を発揮する。むしろ自覚的でないからこそ「倫理的に悪そうだ」が「健康に悪そうだ」に変質しても気付かれない。
 しかし動物は駄目だが植物なら幾ら殺して食べても構わないとすることはかなりの無理を伴う理屈だ。インド仏教とヒンズー教は一切の殺生を否定する。その思想を如実に表しているのが牛を神聖な動物として崇める思想だ。
 牛は殺生をしない。どれほど飢えても植物を根こそぎ食べることは無い。だから牛の住む草原の草は滅びず牛と共存する。その逆なのが山羊だ。根こそぎ食べて植物群を滅ぼす。山羊の群が通過すればペンペン草さえ生えていない。西洋の悪魔の姿が山羊の姿を模することが多いのはこんな事実に基づくからだろう。しかし長所が短所になり得るように短所もまた長所になり得るものだ。公園や広場の除草をしようとするなら、山羊のように植物を根こそぎ食べて絶滅させる悪魔のような動物こそ理想的だ。植物の殺生に関する禁忌が殆んど無い日本人には山羊は悪魔ではなく天使のように見えるだろう。その温厚な性格も相俟って、山羊が犬・猫に次ぐ第三のペットになることも決して夢ではなかろう。
 胡散臭い倫理的根拠を無視して科学的根拠を見れば、これまた何とも心許ない。3大栄養素を欠きカロリーも殆んど無い野菜ほど健康に役立たない食材は珍しいのではないだろうか。逆に必須アミノ酸と必須脂肪酸を豊富に含み高カロリーの肉類こそ理想的な健康食だろう。肉類の欠点は栄養価が高過ぎてしかも旨過ぎることだろう。だからこそ食べ過ぎによる肥満を招き易い。この欠点を補うために栄養価が低くて不味い野菜と組み合わせたことは人類の優れた叡智とさえ思える。野菜の価値は肉類の補完として優れているということであってそれ自体は決して健康食ではない。脇役は所詮脇役に過ぎず無理やり主役に据えるべきではない。