俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

再々入院

2016-06-09 10:01:39 | Weblog
 肺炎が悪化したために今日から3度目の入院をすることになった。食道と肺の間に穴が開いてそこから飲食物が流入するから肺炎が慢性化した。これを治療するには飲食を断つしか無い。飲食を断っても死なないためには点滴等による栄養補給が不可欠だ。
 要するに絶食することが目的でありそれを可能にするために入院して一日中点滴をするという実にくだらない事情だ。抗癌剤による副作用で悶々とした前回までよりはマシかも知れないが非常に退屈な入院になりそうだ。
 今回は何日の入院になるか分からない。前回までとは違って退院後には速やかにブログを再開できるつもりだがそれがいつになるかは分からない。

調べる

2016-06-09 09:44:33 | Weblog
 人間には知識欲がある。だから新しい知識や正しい知識を歓迎する。しかし知ろうとするだけでは不充分だ。自ら調べねばならない。私は最近、調べることの重要性に気付いた。知識のために最も重要なことは知ることではなく調べることだと確信するに至った。知るために調べることなど余りにも当たり前なのでこれまで全く自覚しなかったが、世間の多くの人は与えられた情報から取捨選択するばかりで自ら調べようとはしない。大学生にもなれば宛行扶持(あてがいぶち)の知識で満足することなく、自ら調べなければならない。
 例えば政治問題に疑問を持ったとする。知りたいだけの人はマスコミが騒いでいる間だけ関心を持って報じなくなれば忘れる。彼らは移り気なのではなく四方山話のネタとして情報を集めるだけだ。だから鮮度の落ちた情報には価値を認めない。
 「調べない人々」は世論に乗っかって集団ヒステリーとも言うべき騒ぎを起こす。自ら起こすと言うよりもアジテータ(扇動者)に乗せられていると見なすべきだろう。騒動の対象は何でも構わないが碌に調べもせずに踊らされる人々はこれを社会参加だと本気で考えているようだ。
 彼らの主張は常に上滑りだ。一々否定していれば切りが無い。私のブログでは彼らに対する怒りが多数を占める。敢えて新しい例として薬叩きを取り上げよう。
 散々薬の批判をしている私だが、薬叩きの仲間とは思われたくない。私が薬を批判するのは主に3つの理由に基づく。薬が同時に毒であること、対症療法が原因を無視して症状だけを緩和する偽医療であること、そして薬に頼るべきではない神経症などの患者に安易に薬が投与されて医原病を招いていることだ。
 不思議なことに2種類の批判がある。私はこれを抽象論と中傷論と名付けたい。例えば政治資金規正法という悪法がある。私はこれを政治家を利するだけのザル法だと考えており早急に廃止または大改正が必要と考える。その一方でマスコミは法の欠陥には触れずその法律に基づいて悪事を働いた政治家の内ごく一部を極悪人として吊し上げる。マスコミが権力者であることを誇示することが目的だろう。
 薬についても同様だ。彼らは特定の薬をまるで悪意に基づいて作られたかのように非難するがそうではあるまい。どの薬も善意に基づいて作られており、それが有害なのはその理念に根本的な誤りがあるからだろう。彼らのやっていることはモグラ叩きやトカゲの尻尾切りを招くばかりで枝葉末節に対する攻撃に過ぎない。こんなことを幾ら繰り返しても薬は改善されない。別の有害な薬が開発されるだけだ。
 憲法についても同様だ。彼らが非難するのは憲法を曲解する人であり曲解に基づく法律だ。私は曲解を許す曖昧な条文にこそ根本的な原因があり、曲解を許さない確固たる条文に改めるべきだと考える。なぜこんなに姿勢が異なるのかさっぱり理解できない。
 社会問題を調べれば個々の問題には必ず重大な原因があることに気付く。個々の問題に拘泥して根本問題を放置する限り何ら改善されることは無い。原因を無視して結果責任ばかりを追及する現代の風潮は耐え難い。