俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

優劣

2016-06-26 10:57:50 | Weblog
 最近、視力が低下した。読書が難しかった時期は寝転がってテレビや漫画を見、症状が軽減してからは4か月間のブランクを埋めようと猛烈に読書をしているせいだ。読解力は回復したが未だ体力の回復は不充分なため相変わらず寝転がって読書をしているから目に悪いのだろう。新聞を読むために眼鏡が欠かせなくなってしまった。
 ここで奇妙なことに気付く。我々は子供の頃から「悪い姿勢で本を読むと近視になる」と教えられた。ではなぜ私は近視ではなく老眼になったのだろうか。悪い姿勢で目を酷使すれば視力の劣化を招くということだろう。近視にせよ老眼にせよ原因は目の水晶体の調節機能の低下だ。それが招くのは子供であれば近視であり老人であれば老眼だ。原因が同じであってもその結果として現れる劣化は全く違ったものであり得る。
 そう考えれば同じような事件が原因になって人が凶暴化しようと抑鬱化しようと不思議ではない。事件が原因となって精神が異常化するということだ。異常化には予め方向性が備わっている訳ではないから、個々の事情に基づいて異なった劣化が現れ得る。
 個人ごとの違いはあくまで個体差に過ぎず優劣ではないという考え方がある。例えば背の高さはスポーツでは優性として扱われ勝ちだが人間としての優劣差ではない。これを優性と見なすことは人を目的のための副次物に貶める。人はスポーツの副次物ではないからこれを優劣と評価することは不合理だ。
 個人を時系列的に見た場合、優劣はあり得る。視力の例のように劣化があり得る。同じ個人であれば優劣があり得るのに他人との比較では優劣は無いとする考え方はいかにも奇妙で不自然だ。
 背の高低差や肌が白いか黒いかを優劣と見なすためには何らかの評価基準が必要だ。スポーツで長身者が優者とされるのは長身者が有利になるようなルールがあるからに過ぎない。競馬の騎手であれば小柄な人のほうが優者とされるだろう。日本人は色の白さを評価するが黒人であれば黒い肌こそ美しいと考えるだろう。背の高低や肌の色に対して優劣の評価をするためには何らかの基準が必要でありそれは相対的なものだ。
 その一方で眼鏡の要不要は絶対的な差異だ。どんな状況であろうとも補助器具など不必要な目のほうが優れている。同じように知性の有無も優劣たり得る。できるかできないかの違いは何らかの評価基準に基づく相対性ではなく絶対的な差異だろう。
 常識的であり過ぎれば非常識に陥り易い。それは常識そのものが矛盾しているからだ。常識を極めれば常識の自己超克が起こり得る。例えば生命の尊重という思想は自己の生命の否定に繋がり得る。生命体を犠牲にせねば生きられない自分の存在を許せなくなるからだ。無条件の生命尊重という理念こそ間違いだ。この理念に根拠は無い。根拠の無い理念を公理のように扱うから問題が生じる。生命は条件付きで尊重されるべきだ。もし凶悪犯罪者が人質を連れて立て籠もった場合、両者の生命の価値は対等ではなく人質の生命が優先されるべきだろう。生命に貴賤は無いという綺麗ごとに基づいて凶悪犯を守ろうとすることは悪平等に過ぎない。優劣の差は確実にありその差は正当に評価されるべきだろう。