俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

「ある」と「無い」

2013-06-12 09:52:44 | Weblog
 社会に蔓延する虚妄の多くは「無い」ものを「ある」と思い誤ることが原因だ。これは証明責任に対する無理解のせいであり、「ある」と主張する側に証明責任があるということを小中学生の時点で常識として教えておくべきだろう。
 一番分かり易い例は神・幽霊・ネッシー・雪男などだ。所謂オカルトの類であり、「無いと証明されていないのだから存在を否定できない」という無茶な理屈だ。オウムも同じ手を使っていたことを最近知った。「空中浮遊が超能力でできないことを証明せよ」と機関誌で開き直っていた。勿論「証明不可能」と言いたいだけだ。
 冤罪も同じ構造だ。犯人でないなら「犯人である」という証拠などある筈が無い。それでも犯人にされてしまうのは検察が余りにも上手く物語を作りそれに沿って集めた状況証拠に裁判官が騙されるからだ。「無い」ものを「ある」と思い込むことは有害だ。
 痴漢の冤罪の場合は事情が違う。幾ら女性を守るためとは言え、これは酷い法律だ。証拠が無くても有罪にされるのだから冤罪だらけになる。冤罪を免れる方法が無いのだから、言い掛かりを付けられた時点で運が悪かったと諦めるしか無い。
 朝日新聞による強制連行説も同じトリックだ。先日(7日)の記事では「文書の不在は、そのまま事実の不在を意味しない」(8日付け「朝日新聞の詭弁」のコメント欄参照)と書いていたが、この本音は「たとえ『無い』ということが明らかになっても『ある』ということを否定させない」という意思表示だろう。ここまで来ればオウム以下のオカルトのレベルだ。しかしこのことは「文書が存在しない」つまり「証拠は見つからなかった」と朝日新聞として認めざるを得なくなったということなのだと思うのだがどうだろうか。単刀直入に尋ねたい、強制連行の証拠となる文書はあるのか?

楽しい認知症

2013-06-10 10:13:28 | Weblog
 幸・不幸の判断は主観的なものだ。人が羨むような境遇でも本人が不幸と感じていれば不幸であり、北朝鮮の人民のような境遇でも本人が幸福と感じていれば幸福だ。これらを偽りの幸・不幸と否定する訳には行かない。脳科学者の中には、幸・不幸を決めるのは脳内のセロトニンの量だと極論する人までいる。
 軽度の認知症の老人は知力の低下を自覚して苦しむが、重度の認知症になれば何の悩みも無くなって幸せそのものらしい。泥酔した人がこの世を極楽と感じるようなものだろうか。
 カントは晩年、認知症を患ったらしい。窓から首を出して「空中電気を測定する」と言っては周囲の人を「あの天才が何と痛ましい姿になったのか」と嘆かせたらしいが、本人は幸福感で一杯だっただろう。
 何という映画だったか思い出せないが、治療された狂人が「何の権利があって私を苦し過ぎる現実に引き戻したのか」と激怒するシーンがあった。狂うことによって現実から逃れていた人にとっては、正気に戻ることは地獄へ連れ戻されることを意味するのかも知れない。
 健康な人なら動くことを禁じられたら苦痛だが、あちこちが痛む老人にとっては動くことこそ苦痛だ。元気だからこそ死ぬことが辛いのであって、生きることが苦しければ死を受け入れ易くなる。認知症は老いの苦しみから解放される僥倖なのかも知れない。老醜や衰えは正気の人には耐え難いが認知症になれば苦しまずに済む。

冤罪

2013-06-10 09:47:47 | Weblog
 状況証拠を積み重ねて有罪判決を下すべきではない。裁判の原則は「疑わしきは罰せず」あるいは「疑わしきは被告人の利益に」の筈だがこの原則が守られていない。だから冤罪事件が生まれる。
 人は事実をそのまま知覚することはできない。自分というフィルターを通して初めて外界を認知する。だから好き・嫌いが露骨に反映される。古くから「アバタもエクボ」と言う。好きであればアバタでさえエクボに見える。その逆に「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とも言う。嫌いであれば当の本人だけではなくその周辺の物まで悪意を持って見てしまう。
 偏見の塊である人間に客観的な判断は難しい。だからこそ「疑わしきは罰せず」が大原則として必要になる。確かな証拠が無ければ有罪判決を下すべきではない。増してや死刑判決など言語道断だ。
 イギリスで死刑が廃止されるきっかけとなった事件をご存知だろうか。妻と娘を殺したとして1950年にエバンスという男が絞首刑になった。ところがそれから3年後に真犯人が見つかった。妻と娘を殺された被害者の筈のエバンス氏が国の誤審によって殺されたということだからこんな無茶苦茶な話は無い。1969年になってようやくイギリスは死刑を廃止した。
 疑わしい死刑囚は日本にも少なからずいる。名張毒葡萄酒事件の奥西勝死刑囚がその一人だ。1972年に最高裁が上告を棄却して以来41年間を死刑囚として暮らし現在87歳だ。法務大臣が死刑執行を認めないから記録的長寿の死刑囚となっている。
 和歌山砒素カレー事件の林真須美死刑囚も疑わしい。ワイドショーなどで放映されたふてぶてしい態度から私も彼女を疑っていたが、判決を読んで驚いた。総て状況証拠に過ぎず決定的な証拠は何1つ無い。大原則に戻るべきではないだろうか。「人には人を裁く権利は無い」などと馬鹿げたことを言う気は無いが、冤罪は犯罪であり誤った有罪判決を下した裁判官は犯罪者だ。

朝日新聞の詭弁(2)

2013-06-09 09:44:06 | Weblog
 昨日(8日)の「朝日新聞の詭弁」について少し書き加えたい。「文書の不在は、そのまま事実の不在を意味しない」という文章になぜ私が呆れ果てたのか。何でも良いから実際の言葉をこの文章に当て嵌めてみればこの文章がいかにナンセンスなのかがよく分かる。例えば「ネッシーが存在するという文書の不在は、そのまま事実の不在を意味しない」となり、ネッシーの存在でさえ正当化できる代物だ。これはいかにももっともらしい文章によって読者を欺くレトリックに過ぎない。確信犯だろう。
 八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を代入すればもっと凄いことになる。実在する可能性を認めるどころか、文書まで存在するのだから「実在した」ということにさえなりかねない。これは全く無意味な言葉遊びであって、文筆を仕事とする者が絶対にしてはならないことだ。言葉に対する冒涜だ。
 こんな詭弁を弄せざるを得なくなったところに朝日新聞の苦しい立場が表れている。吉田某によるデタラメを記事にしてそれが国際的な反響を呼んだ。ところがその記事が間違っていることが分かってしまった。今更、引くに引けない。社を上げて強制連行の証拠探しに励んだが何十年掛かってもそんな証拠は見つからなかった。優秀な朝日新聞のスタッフを総動員しても証拠が見つからなかったのだから諦めれば良かったと思うのだが、詭弁という邪道を彼らは選んだ。それが「強制連行は無かったという証拠を出せ」だ。元々無いものを証明するための証拠などあろう筈が無い。「ある」と主張する側に証明責任があるという論理の鉄則まで無視して強弁を続けているからいよいよ無理に無理を重ねることになってしまった。遂には論理まで否定して、得意の文章力で煙に巻くという戦略を選ばざるを得なくなったようだ。イソップ寓話の狼少年よりも哀れだ。
 教訓:誤りに気付いたら素直に謝りましょう。

採用試験

2013-06-08 14:25:09 | Weblog
 企業は「個性的な人材が欲しい」と言う。しかし実際に選ばれるのは無難な人だ。そうなる理由は2つあり、このことを理解するためには選ぶ側の立場に立って考える必要がある。
 二者択一なら大博打もあり得るが、多くの選択肢がある場合、人は長所の多い物よりも短所の少ない物を選ぶ。このことは行動経済学の定説だ。この傾向は家電であれ食品であれ同じだ。店頭に並ぶ商品で最初に対象外にされるのは傷のある商品だ。性能が良いか、あるいは美味しいかは使ってみなければ分からないが、傷の有無は一目瞭然だ。傷だけではなくまず欠点のある物を排除することが多い。これと同じ理屈で、優秀な人よりも欠点の少ない人が選ばれる。
 もう1つの理由は採用担当者の保身だ。長所も欠点もある新入社員の場合、長所はなかなか周囲から理解されず、先に目に留まるのは欠点だ。長所が評価されるのは欠点が見つかるよりもずっと遅いので、仮に彼が能力を発揮しても社内で育ったと見なされてしまう。これでは採用担当者としては面白くない。だから配属早々から使えそうな人を優先することになる。その一方で、どんなに優秀な人を落としてもそのことは誰にも分からない。毒のある天才を落としてもバレないのだから、当然、そのことによって非難されることは無い。そもそも社内で評価されるのは採用された社員だけであり、採用されなかった社員については誰も評価できない。
 こんな事情だから就職活動においては、無難な人間を演じるほうが有利だ。だから個性が無いと言われようとも全員が紺のスーツを着て就活に励む。

朝日新聞の詭弁

2013-06-08 13:44:25 | Weblog
 昨日(7日)の朝日新聞の「記者有論」に上丸洋一編集委員による「従軍慰安婦 強制連行はなかったのか」という記事が掲載された。その結びは皮肉なことに「正視に堪えぬ歴史をこそ、正視しなければならない。」だった。この言葉をそのまま朝日新聞社に突き返したい。吉田某によるデタラメ(6月7日付け「玉虫色」参照)を掲載して日韓関係を悪化させた張本人という社の負の歴史を正視して貰いたい。
 この記事は吉田某には全く触れていない。不可解な話だが、かつて従軍慰安婦問題を提起した記事を無視して新しい根拠を3つ挙げている。吉田某に触れることは墓穴を掘ることになると判断したのだろうか?
 1つは慰安所の「親父」による証言だ。「無理やりに連れて来る様にして連れて来た」とのことだ。これを根拠にして「強制連行はあった」としている。「連れて来る様に」は強制連行を意味するとは限らない。「ボーナスを弾んで」でも「様に」に含まれる。
 2つ目は石原元官房副長官の発言の「意に反して慰安婦になった人たちがいる」だ。なぜこれが強制連行の証拠になるのか全く理解できない。意に反して慰安婦や売春婦になった人など大勢いるだろう。筆者は皆が喜んで売春婦になったと信じるほど脳天気なのだろうか。(3つ目の根拠についてはその本をまだ入手いないのでコメントしない。)
 極め付けはこれだ。「文書の不在は、そのまま事実の不在を意味しない。」これは詭弁そのものだ。5月16日付けの「証明責任」でも書いたとおり、証明責任は「ある」とする側にある。「ある」と証明できなければ「無い」と考えるのが正当であり、これは証拠が無いことに対する開き直りとしか考えられない。厚顔無恥ここに極まれり!
 私は決して朝日新聞が嫌いな訳ではない。今でも購読しており、一番マシな新聞だと思っている。それだけに過去の中国・韓国に関する誤報を率直に認めた上で、読者の期待に応える良き情報源であって欲しいと思う。悪しき先輩による悪事を糊塗することなく断罪して、正しい報道機関としての道を歩んで欲しいと切望する。
 (朝日新聞の記事はコメント欄から参照してください。)

奪三振

2013-06-06 10:44:42 | Weblog
 奪三振をどう評価するかは野球ファンの間だけではなく選手にとっても大きく異なっている。江夏豊氏や江川卓氏なら三振こそ投手の勝利と考えるだろうが桑田真澄氏は違った理想を持っていた。全員に初球を打たせて27球で試合を終えることを理想として掲げていた。
 投手の最優先課題はできるだけ点を取られないことだ。失点しないためには出塁を最少化することが必要であり、そのためには安打や四死球だけではなくエラーによる出塁まで考慮する必要がある。
 一旦バットに当たればあとはどうなるか分からない。ボテボテの内野安打やポテンヒット、あるいは味方によるエラーもあり得る。そう考えれば三振の価値は高い。バットに当てさせなければヒットにもエラーにもならないからだ。
 しかしここで視点を変えることが必要だ。0点に抑えても味方が点を取らなければ勝てないからだ。味方が得点し易い環境を作ることも投球術と言えよう。ではどうしたら得点し易いか、守備時間を減らすことだ。
 守備時間の短縮には2つのメリットがある。1つは野手の負担が減ることだ。守っている野手は突っ立っている訳ではない。1球ごとに打球に備えた動作をしている。この守備時間を減らせば打席での集中力が高まる。もう1つは、相手投手の休み時間を減らすことによって打者が有利になるということだ。
 私の印象としては、打たせて取る投手の時は味方がよく点を取り、力ずくで抑える投手の時は投手戦になり易いように思う。打たせて取ることこそ投球術の極意だろう。
 しかしノーアウト1・3塁のような大ピンチでは事情が異なる。打たせて取ろうとすれば1失点を覚悟せねばならない。これを無失点で切り抜けられるのは、狙って三振を奪える豪腕投手だけだ。
 メジャーリーグの入団以来の通産300奪三振のスピード記録で2位と3位にダルビッシュ有投手と野茂英雄氏がランクされている。三振かホームランかという力勝負が大好きなので日本以上に三振を高く評価するメジャーリーグでの記録だけに価値が高い。

玉虫色

2013-06-06 10:03:30 | Weblog
 中国がインドによる大気汚染を非難しても、北朝鮮がアメリカの核兵器を非難しても、国際社会からの共感は得られまい。「己の問題を先に解決しろ」と反応するだろう。
 北朝鮮による拉致を日本が訴えても各国の反応が鈍いのも同じ事情ではないだろうか。つまり「戦時中に朝鮮人を拉致して性奴隷にした日本が北朝鮮による拉致を騒ぐな。盗人猛々しい。」ということだ。それほどまでに韓国によるプロパガンダは成功している。この間、日本政府は何をしていたのだろうか。
 拉致問題解決の障害にまでなっているのなら従軍慰安婦問題を曖昧なままにはしておけない。しかしこの問題の真相は呆れるほど単純だ。虚言癖のある吉田某による主張を朝日新聞と赤旗が掲載し、その後それが事実無根と判明しても朝日新聞は誤報と認めなかった。たったこれだけのことだ。
 こんな単純な話がなぜ何十年も政治問題化して未だ未解決なのか。それは玉虫色の解決を図ったからだ。玉虫色にしておけばお互いに傷付けずに済む。しかしこんな曖昧な形にせずにたった2つのことを認めるべきだった。①日本軍は日本人と朝鮮人と台湾人(どれも当時は「日本人」)の売春婦を帯同した。②朝鮮人拉致や誘拐は無かった。河野談話はこの2項目を曖昧にしているから勝手な解釈を許している。玉虫色にすることによって曖昧な状態にしようとする日本的解決策が失敗を招いたと言える。
 日本人なら玉虫色にすることで相互に歩み寄る。しかし外国人はそうではない。どの国も自国にとって最も有利な解釈をして優位に立とうとする。これは中韓だけではない。アメリカもロシアもそうだ。
 朝日新聞社にはこう尋ねたい。「拉致した朝鮮人を従軍慰安婦にしたと御社が報道した日本人には、北朝鮮による拉致を非難する権利は無いのか?」朝日新聞社は「拉致は許されない」としか答えないだろう。こんな禅問答はもう沢山だ。いい加減、玉虫色による解決という日本特有の悪弊から脱却して事実を白日の下に晒すべきだろう。

不磨の大典

2013-06-04 11:00:09 | Weblog
 日本国憲法を不磨の大典と考えている人がいるようだ。この人達の意識構造は戦前のままなのだろうか。戦前だからという理由で否定する気は無いが、余りにも硬直化した意識は特別天然記念物かシーラカンスかと思う。
 聖書やコーランなら神様から与えられた真理とされているのだからおいそれとは変更できまいが、日本国憲法は人間が作ったものだから何らかの不具合があっても当然だ。不具合を放置せよとはどういう意味だろうか。
 文面を変えずに解釈を変えれば良い、と考える人もいる。この人達はそのことの危険性を感じないのだろうか。解釈によって変えられるのならその時々の権力者が好き勝手に解釈して骨抜きにしてしまう。憲法9条が典型例だ。そうさせないためにも明文化する必要がある。
 因みに私は自衛隊は違憲だと思っている。今更軍備放棄などできないから、違憲状態を黙認するか、憲法を変えるかの二者択一になるだろう。この場合、改憲のほうが安全だ。そうしなければ済し崩しにされて歯止めが効かなくなってしまうからだ。 
 ドイツは戦後だけで59回も改憲しているそうだ。このことによってドイツは危険な国に変わっただろうか。私は現代ドイツこそ世界で最も正常な国だと思っている。最近、英国のBBCが行った国際アンケートでも「最も良い影響力を持つ国」にドイツが選ばれている。
 現実とルールに矛盾があるなら、ルールに基いて現実を改めるか、現実に基いてルールを変えるかのどちらかしかあり得ない。どちらも変えずに超法規的措置を認めるということが、権力者に民意を無視した恣意的な国家運営を委ねることになると気付かないのだろうか。

仮説

2013-06-04 10:16:23 | Weblog
 科学は適切な仮説とその検証によって成り立っている。検証を怠った仮設などオカルトにも等しい。
 ところが「地震は活断層で起こる」という仮説を検証しようとさえしない似非科学者達がいる。彼らは100ほどの断層を活断層と指定して「次の地震はここで起こる」と主張し続けている。しかし未だかつて彼らが活断層と指摘した断層は1度も動いていない。それどころか地震が起こる度に「未知の活断層が動いた」と取り繕う始末だ。もし未知の活断層が無数にあるのなら活断層の指定など無意味だ。彼らは反証例までも仮説の証明として使おうとするほど恥知らずだ。更にはコンクリート柱を活断層だと発表するほどの無知ぶりまで曝け出す始末だ。もし彼らに科学者としての良心があるのなら、定義さえいい加減な活断層という仮説で世間を惑わせることを一刻も早くやめて貰いたいものだ。誤った仮設は無益なだけではなく明確に有害だ。
 誤った仮設が招いた惨事として文豪・森鴎外(本名:森林太郎)の失敗から学ぶべきだろう。彼は文筆家であると同時に陸軍省医務局長でもあった。彼は医師として大変な間違いを犯して約27,000人の兵士を死に至らしめたと言われている。それは脚気を感染症とする仮説を信じ続けたためだ。今では脚気はビタミンBの欠乏症だと分かっているが、当時はまだビタミンの存在は知られておらず、感染症と信じて対応したために被害が拡大した。一方、海軍では脚気は広まらなかった。
 なぜこんなことになったのか。陸軍では白米を食べ、海軍では麦飯を食べていたからだ。当時の意識では白米はご馳走で麦飯は粗食とされていたから、温情がアダとなったとも言えよう。
 文型・理系の双方の学問に通じた森がこんな大失敗を犯すとは俄かには信じ難い話だが、これが誤った仮設の恐ろしさだ。現代でも、エイズが当初は男性同性愛者特有の奇病と誤解されたために対応が遅れたように、その危険性は決して過去のことではない。
 科学とは仮説の検証であり、それを怠れば却って被害を拡大しかねない諸刃の剣だ。その意味で、仮説の検証を怠る傲慢な態度は早急に改めねばならない、