花鳥にゃん月

カメラにはまり、心に入り込んだものを写して遊んでます。
日常のどこにでもある風景・・・

街歩きは 驚きがいっぱい

2016年01月21日 | 自然大学校

森ノ宮から 玉造辺りを歩いてきましたが

想像を超える 面白い場所を 教えてもらいました

 

森ノ宮駅から西に向かって 大阪城公園沿いに歩いていくと

ピースおおさか』の建物があります

ここは 大阪の戦争の いろいろな資料などを展示されてます

残念ながら 私はまだ 一度も入ったことはありません

 

そのピース大阪の建物を通り過ぎた場所にあったのがこれ

これは 『城中焼亡埋骨墳』と書かれています

 

明治維新となり 大阪城が火事になります

なぜ焼けたのかは 諸説いろいろあるようですが

その折に たくさんの人が亡くなった

それを弔う目的で 建てられたようです

 

驚くのは その裏側

あの仲の悪かった 薩摩藩と長州藩が連名となっています

なんか すごくないですか!!

 

そしてその横にちょこっと置かれていたのが

淀君のお墓?

 

私には 『淀君』という名が なじんでいますが

これはあまりいい呼び名ではないそうですね

最近は 『淀殿』と 呼ぶようになったようです

 

次は 『越中井』

この場所は 細川ガラシャが 命を落とした場所

”井”とは 井戸のことで

ここにあった屋敷の 台所だった場所のようです

 

 

 

ここは 大きな通りの 真ん中にぽつんとあるんです

道路の真ん中ですので 本当ならつぶされても仕方ないのですが

残っているのには 何か訳があるんでしょうかね??

 

とてもりっぱな 教会もありました

聖マリア大聖堂

開いていたので 入って中を見てきました

建物の中はとてもきれいで 素晴らしい物がたくさんありました

 

善福寺(どんどろ大師)

 大阪夏の陣で亡くなった方を弔うためのお寺のようです

ここは 傾城阿波の鳴門でも 有名です

 

そして ほんとに驚いたのが 『真田山陸軍墓地』

こんなに たくさんのお墓が こんな場所にあったことに

ビックリしました

ここは明治4年に設立され その後のさまざまな戦いで

亡くなった方たちを お祀りしています

墓には どこでどんなふうに亡くなって どんな人だったかという事が

詳しく書いてあるようです

 

どんどん 戦争の規模も大きくなり 死者の数も増え

一つ一つじゃ間に合わなくなり 合同の墓になり

第二次大戦の頃には 大きな納骨堂に 納められるようになりました

 

納骨堂

 

コメント (4)
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