電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

『葛生』という漢詩

2004-08-11 16:39:27 | 文芸・TV・映画
 片山恭一さんの『世界の中心で、愛をさけぶ』はベストセラーであり、誰でもが知っていると思う。遅ればせながら、私も最近読んだ。映画では、1986年頃という設定だが、小説では、もっと最近の設定のようだった。しかし、主人公たちの高校生活は、1970年以前の私の高校時代とそう変わらないような気がした。なんだか、とても懐かしいものに出逢ったような気持ちになった。
 
 その本の中に、主人公の松本朔太郎と彼のおじいさんの二人がおじいさんの昔の恋人の遺骨を墓場から盗んでくるところがある。そして、盗んできた骨を前にして、おじいさんが朔太郎に『葛生』という漢詩の話をする場面がある。ちょっと興味を持ったので、Googleにこの言葉を入れて、検索してみた。その結果、この漢詩は、『詩経』にあるもので、次のような詩であることを知ることができた。

葛はえ いばらをおおひ、
かずら 野にはびこる。
よが美しきひと ここにねむる。
誰とともにかせん ひとりおり。

葛はえ こなつめをおおひ、
かづら はかにはびこる。
よが美しきひと ここにねむる。
誰とともにかせん ひとりいこう。

角枕 きらめき、
錦衾 かがやく。
よが美しきひと ここにねむる。
誰とともにかせん ひとりあさす。

夏の日、
冬の夜。
百歳の後、
そのはかに 帰る。

冬の夜。
夏の日、
百歳の後、
そのはかに 帰る。


 これは、「詩詞世界」というサイトの中にある『葛生』から、読み下し文を漢字を少しひらがなにして引用したもである。こういうページがすぐに見つかったということより、こういう漢詩のページがあることに驚いた。すごいことだと思った。

 この場面については、長谷川樹さんが「朔太郎とアキのいる風景」というファンサイトの中で「主人公と祖父と忍び込んだ寺」というページを作って、紹介している。

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「電脳くおりあ」の編集ルール

2004-08-10 13:32:07 | デジタル・インターネット
 このブログの世界は、<私>の世界である。電脳くおりあの集合こそが、<私>の世界である。従って、この世界は、<私>の独断ですべて物事が決められることになる。

 ところで、トラックバックとか、コメントとかいろいろなコミュニケーションツールがあるが、これらは、私の世界を豊かにしていくためのツールである。だから、私は、私の役に立つ限りにおいて、それらを利用する。

 ここまでは、当然である。しかし、私の勝手とはいうものの、コミュニケーションに対しては、誠実に対応したいと思っている。対話とはそもそも相対的なものなのであるから。しかし、これからいろいろなことが起こりうるとして、齟齬が起きた場合どうするかという最低限のルールを決めておきたいと思った。

 私は、インターネットの匿名性について、それなりの意義を認めるが、<私>の世界については、匿名性を認めない。少なくとも、Web上で身元が保証されていない限り、それらの匿名者の存在を無視することにする。

 また、私の世界に対するコミュニケーションに対して全てに返答するということは不可能だし、そういう義務があるわけではないが、返答するためのルールはあるということだ。本来ならばすべての言及に対して返答すべきかも知れないが、そのための労力は不可能であり、それならば、初めからその旨、断っておいた方がいいと思う。

 初めからこんなことを書くのは、気が引けるが、要は、リアルの世界でもし当人に出会ったときに、笑顔で挨拶できる関係でありたいということだ。たとえ思想的に対立し、論争していたとしても。そのための努力だけは惜しまないようにしたいと思う。

 というわけで、次のようなルールを決めてみた。当然、これは、私が他のブログに関わる場合にも当てはまる。また、このルールを作るに当たっては、MAOさんのblog::TIAOを参考にさせて頂いた。

1) 「電脳くおりあ」のサイトは、あくまでもNatsu(沢瀉夏生)の個人的なサイトであり、すべての記事の編集権はNatsuにあります。
2) 「電脳くおりあ」を公開したのは、Webでの「コミュニケーション」のためであり、誠意のある対話は歓迎します。
3) お互いリアルの世界では忙しいと思われるので、勝手ながら、誠意の感じられない対話については返答しない場合があります。
4) Webにおける「匿名性」の意義については理解するが、このサイトの「コミュニケーション」では、すべての匿名の対話は拒否します。
5) 「匿名」でないとは、名前がハンドルネームやペンネームはだめと言うことではなく、メールアドレスがはっきりしている、自分のサイトがあるなど、Web上にIdentityがある場合をいいます。


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始まりにあたって

2004-08-09 09:54:36 | デジタル・インターネット
「電脳くおりあ」というのは、茂木健一郎さんの『脳内現象』(NHK出版)に依拠している。

……クオリア(qualia)とは、もともとラテン語で「質感」をあらわす単語であり、その単数形はqualeである。1990年代の半ばから、物質である脳内の神経細胞の活動から意識が生み出されることの不思議さを象徴する言葉として、研究者の間で広く使われるようになった。
 現代の脳科学では、およそ「意識の中で<あるもの>として把握されるもの」の全てがクオリアであると考えられている。コップの透明感も、舌に載せたチョコレートの甘さも、バラの香りも、そこはかとない寂しさも、こみ上げる怒りも、確かに覚えているのだが思い出せないというもどかしい感覚も、およそ意識の中でユニークな質感として把握されるものは、すべてクオリアである。
 私たちの意識は、クオリアのかたまりとして世界の中に存在しているのである。(P24)


 私には、脳に比べられるのは、コンピュータというより、Webの世界のほうがあたっているように思われる。そう、セマンティックウェブとなったインターネットの世界がふさわしい。

……目が覚めると、突然、そこに<私>が現れる。様々な質感(クオリア)を感じる<私>が現れる。(p24)


つまり、ブラウザを立ち上げると、そこに世界とつながった自分が感じられるのだ。そして、最近Weblogの世界を知ることにより、その感じが実感として感じられるようになった。

というわけで、自分も、Weblogの世界に参加することになった。


コメント (2)
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