Junky Monologue

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モーツァルトという音楽、あるいは楽しみのための楽しみ

2016年01月24日 13時42分53秒 | 音楽
ずっとモーツァルトが苦手だった。嫌いという訳ではない。
その苦手意識が何処から来るのか自分の中でずっと引っかかっていた。
そんな今日この頃、こんな本を古本屋で見つけた。



著者は音楽の専門家ではなくドイツ文学者のようだ。
そのせいか特に前半はモーツァルトが生き音楽活動のために旅した地域と時代背景の特質が
とてもイメージし易く述べられていて、たいへん示唆に富んだ内容だった。

以下はこの本の感想でも紹介でもなく、この本に触発された私の個人的なメモというか、モーツァルト苦手意識の克服に向けての備忘録みたいなもんです。

モーツァルトの時代についてちょっと想像力を膨らませてみる。
フランス革命を間に挟んだヨーロッパ近世の末期である。
中世的遺制を残しつつ、近代の能率的な生産様式を獲得しつつあった時代。
中世の残滓のような感性と近代的意識の芽生えが綯い交ぜになったある種不思議な時代。
身分と人格あるいは職能と人格(強引に言葉を変えれば社会と個人)がまだ分化の途上にあった時代の感性。
現代と比較してそんな時代が人にとって良かったかどうかなんて事はどうでもいいが、現代の人間とは明らかに違う感性がそこに存在する。
モーツァルトはそうした時代の代表的感性であるだろう。
もうひとつ言える事は近代以降急速に進展する社会の分化(生産の分業化)とそれらを統合するための政治概念の劇的な変化は「人権」や「政治的平等」と引き換えに「法」という厳格な強制力をもたらしつつ、抽象的な感覚だがこれは社会の「曖昧さ」(曖昧さは良い意味では『大らかさ』の母体でもある)の死滅の始まりを意味するということ。
そこに至ってしまう直前のタイミング、フランスに比べればかなり牧歌的で国家としての体裁すら定かでなかったドイツ・オーストリアの状況(マリア・テレジア→ヨーゼフ2世の時代)。
モーツァルトにとっては絶妙なタイミングだったのかもしれない。
彼自身が目標としただろう身分や地位には登り切れなかったのだろうが、
その代わり職業として自立した音楽家あるいは作曲家への道程を図らずも開拓する結果になった。

音楽の専門知識を何も持ち合わせない私がただ音楽を聴くという範囲に於いて、
モーツァルトの大先輩であるバッハ、少し先輩であるハイドン、後輩のベートーベン、
これらの作曲家にはある種共通項というか、連綿と続く音楽的継続性を感じるのだが、
その間にいるモーツァルトには少し異質な何かを感じてしまうのだった。
その謎の全てが前述の歴史的社会的背景にあるとは思わないが、かと言ってそれが言い伝えられるモーツァルトの奇人的資質にあるとも思えない。

多くの音楽は「音楽のための音楽」というモチーフを少なからず内包しているが、
モーツァルトにはその部分が無いのか、相当に希薄に感じるのである。
もしかすると方法論としてそれらを打ち消してしまうだけの技巧を発揮しているのか・・・。
だとすればその目的は・・・『愉しみのための楽しみ』さらには理屈無用というより『脱論理』に向かっているとか・・・。
恐るべしモーツァルト。言葉ではなく音楽で思考している・・・。

誰でも聴けばわかるモーツァルトの音楽の特質は『優しさ、優美さ、そしてなにより邪気の無さ』にある。
昨年の大ヒットアニメではないが『ありのまま』がモーツァルトの方法論であり手法なのだろうか。
あまりに『ありのまま』であるため、その時代的感性に惑わされていたのかもしれない。
キーワードは、悩むな!考えるな!受け入れて楽しめ!と言うことか。

苦手なら聴かなければいいのだが、そういう形では打ち捨てられない重大な何かがあると今のところは思っている。
要するに聴いて慣れろという当たり前の結論か・・・う~ん、何か違う・・・。

てな事でこれから日曜日には必ずモーツァルトを1回は聴くことにしよう。


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