ノラたちの幸せをどう実現するか。
当ブログのテーマであるこの問題に関しては、シリーズ「ノラたちとの共存を目指して」を中心に様々な角度から議論してきました。同シリーズ記事のうち特に法律関係を題材としたものは、
◆ その5 闘魂編「許さない、虐待に不法投棄に暗闇ビジネス」
◆ 番外編1「罪と罰」(法の実行と刑罰の妥当性)
◆ 場外編2 続・死刑に処すべし? ~死に体・動物愛護法の復活を期して~
◆ 場外編3 どうしてこんなに軽いのか <続・続・死刑に処すべし>
いずれも検察・司法の甘さを指摘しています。
ノラ猫の遺棄や殺傷に関して動物愛護法は2020年に下記のように改訂(厳罰化)され、2021年6月に施行された。
愛護動物の殺傷罪:5年以下の懲役又は500万円以下の罰金(旧:2年以下200万以下)
愛護動物の虐待罪:1年以下の懲役又は100万円以下の罰金 (旧:懲役刑なし)
愛護動物の遺棄罪:1年以下の懲役又は100万円以下の罰金 (旧:懲役刑なし)
愛護動物の虐待罪:1年以下の懲役又は100万円以下の罰金 (旧:懲役刑なし)
愛護動物の遺棄罪:1年以下の懲役又は100万円以下の罰金 (旧:懲役刑なし)
ところがその前後の判例を見ても、猫を何匹殺してもどんなにむごい殺し方しても罰金10万~20万円程度(最高でも30万円)、もしくは2年以下の懲役(すべて執行猶予付)。つまり何も変わってない。しかもここまで軽い罰金刑、あるいは執行猶予付き判決となると実質的には罪に問われないのとほぼ同じだ。さらに・・逮捕されても検察による起訴率は20%台と低いまま変わらず、猫をいたずらに殺傷しても70%以上が不起訴、つまり罪に問われてないのです。
「俺たち最近までノラでした」ダイフク
最高額の1割にも満たない罰金刑、無罪放免と同様の執行猶予付、いくら犯人を捕まえても起訴されるのは2割そこそこ。検察と司法(裁判官)が力を合わせて動物愛護法の厳罰化を無にするだけでなく、この法律自体を無力化している実態が見えてくる。人間尊重動物蔑視の風土が、まだ彼らの中に残っているということです。
日本は動物福祉後進国だと言われて久しい。でもお隣の韓国や中国はもっとひどいから、そんな情報に触れるたびに日本人の人間性はまだましだなんて自尊する。ごく一部の知識人を除いて自分が後進国の人間だという自覚がないから、当たり前のように猫を捨てる文化が根強く残っているのです。猫を物として扱い、売れ残るか売れそうもない猫は捨てる。あるいは'引き取り屋'に渡して身動きすらできない檻の中で死ぬのを待つ。しかもそれで合法的だと強弁する。こんな業界の売上が伸びているのも、動物福祉後進国たる所以でしょう。
猫がどうなろうが死のうが生きようが関係ない。牛や豚を食べてるのにどうして猫や犬ばかり擁護するのか。と、開き直る御仁も多いでしょう。確かに人間は肉食です。動物福祉先進国と言われる欧米の人たちも肉食です。でも(韓国中国は別として) 猫や犬は食べますか? 食べないのに殺す。面白がって殺す。あるいは傷つける。そういった犯罪は世界各国どこにでもあります。しかしその犯罪に対する司法や検察や警察それに立法府にメディア、つまりは世間の姿勢が違うのです。
「ただいま家猫修行中です」ヒョウ
動物福祉先進国とは、そういった犯罪(いたずらに動物を虐待殺傷すること)に対する国民の反発感情が強く、それを警察検察裁判所がきちんと汲み取っている国です。そこにはメディアの果たす役割が大きい。メディアの不作為は、国民の意思が国に伝わらないという重大な欠陥を生じる。日本のメディア、特にテレビやネットにはかわいらしい猫や動物の映像で花盛りだ。しかしその動物たちが人間によってどんな仕打ちを受けているかなど殆ど報道しない。たまにノラ猫保護団体の活動を紹介しても、ノラ猫が減らないのはその繁殖能力の強さに起因すると言う。だからノラ猫には餌をやるなと。将来の不幸なノラを減らすために、目の前にいる衰弱したノラにすら餌をやらずに見殺しにしろと主張する。実は猫捨てこそが真の原因なのに、それを伝える番組は皆無なのです。
メディアは国民の目です。だから国民の質はメディアの質によって決まる。共産圏の某国と某国のように、国によって制御されたメディアは国民だけでなく世界をも不幸にする。たかがノラ猫じゃないかと言うなかれ。家族の中心にいる家猫も寒風の下空腹に耐えるノラ猫も同じ猫です。信頼し合えば喉を鳴らして甘えてきます。ペット天国=猫捨て天国。今の状況を打開するには、慧眼たる著名人の有志が輪となって集い発信を続けることがもっとも効果的な道筋なのだと思うのですが。
「俺たち慧眼はないけど、第六感ならあるぞ」モドキ
12/18 関連するサイト記事の添付を忘れていました。