「日本残酷物語」シリーズの3冊目。今回も、1冊目、2冊目に劣らず、過酷な世を生き抜いた人々の記録がつづられています。
「外に向かう自由なエネルギーを封じられ、抑圧と束縛の中を生きた人々、禁教下のキリシタン、漂流民、流刑者、また身分制の重石を一身に受けた者ら、そしてその苦闘は、近代の幕開きとともに終わったのではなかった」
「中世の終りごろの日本では、武士をふくめた民衆のエネルギーはすばらしいいきおいで爆発をつづけていた。政治的な支配力が弱まり社会秩序がみだれると、民衆はそれぞれの生活環境のなかで放恣無頼な生き方をはじめた。」そこに到来した西洋文化。キリスト教の考え方とは相いれない権力者にとって、はじめは貿易による利益が優先されたが、それではお追いつかなくなり、一部を除いての鎖国状態が始まる。
「しかしそれまで沸騰しつづけていた民衆のエネルギーはどうしてしずめられただろうか。それを冷却させなければ鎖国をながく維持することができない。幕府はその手段として民衆の前進しようとするあらゆる芽を摘みとろうとし、また民衆の生活をきびしい枠の中にはめた」
刑罰は重く、長崎から江戸まで旅したオランダの使節たちがしばしば見たのは、道すがら磔になった罪人やさらし首。当時の西洋では、そうしたことがあったのかなったのか知らないけれど、記録に残されているくらいだから、異様なものと映ったのでしょう。
本書を読むまで考えてなかったのですが、国内に戦争がなくなり、鎖国によって他国に侵略することも、貿易によって富を得ることもなくなったということは、「日本の土地はもはや大きくなる気づかいはなかった」だけでなく、各藩それぞれも、同様に国盗りができなくなったということになります。ということは、国内あるいは藩の中での年貢の取り立てを厳重にすることによって、幕府及び藩の財政を整える必要があったということになります。
そして「やり場のない民衆の憤り」は、外へ向かって噴出することは不可能にさせられ、自分より抑圧された下の階層への差別意識を増大させることになります。キリシタン宗徒への弾圧に被差別部落民をつかい、反目しあうよう仕向けるなど、為政者は互いの分断を意図的に進めたようです。
キリシタンだけでなく、日蓮宗の一派不受不施派、浄土真宗の一派?かくし念仏に対する弾圧もすさまじく、薩摩藩に至っては、なんと浄土真宗そのものが禁制になっていたそうです。それでも、虐げられたの農民たちにとって念仏の教えは心のよりどころとされ、禁を犯して信じられていたとのことです。
「南部三閉伊の一揆」は圧巻。想像を絶する圧政に苦しんだ百姓たちが何万人も参加した一揆。その指導者の老人「弥五兵衛」がすごい。一揆勢の統制ぶりはすばらしく、ある藩の家老をして、「まことに武士にまさって鎮まりかえって控えたること、これ古今稀なる強訴なるべしと諸人肝魂を失い、恐をなしぬ」といわせています。この老指導者は、17年の間、領内を説得して歩き、歩いた村は総数636か村に及んだといいます。この一揆は一揆勢の成功となるものの、彼は本当の解決にはならないことを見越し、再起を勧めるためにさらに領内の村々を説いて回ったのだそうです。志半ばで彼は非業の死を遂げますが、その遺志は次の指導者に受け継がれます。
被差別部落民、百姓だけでなく、士族の生きづらさも記録に残されていて、なかでも土佐藩の執政野中兼山の娘えんの話には、胸がふさがります。
この巻もまた、知らなかったことばかり。日本の歴史の裏面を多方面から探求したこのシリーズ、やはりとても興味深い。ただし、あとがきにもあるように、刊行されたのが70年代なので、それ以降研究が進んだ分野も多く、間違いも指摘されています。中身を読むひまがなかったら序文だけでかなり全体像がつかめますが、あとがきも読むことを勧めます。
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