フェイスブックともだちの投稿で知ったこの本。自費出版なのに図書館にあったので、借りました。
「農耕勤務隊」というのは、太平洋戦争の末期、日本の農村に派遣され、農耕に従事した兵隊たちの部隊のことなのですが、実際に兵隊として働いていたのは、当時「半島人」と呼ばれていた朝鮮の人たちが主。それも、強制連行で連れてこられた10代の若者がほとんどなのだそうです。
この「農耕勤務隊」、戦後の日本ではほとんど知られておらず、謎だらけの存在なのだとか。編者の雨宮剛氏は、国民学校の生徒だったころ、西加茂郡猿投村(現在の豊田市猿投地区)に住んでいて、勤務隊の兵隊たちが木に縛り付けられて死ぬほど殴られるシーンも見ていました。彼らのことが戦後もずっと頭から離れず、大学教授の職を辞してから、当時の同級生たちの証言を集めたのがきっかけになり、全国の農耕勤務隊の実情を調べ、その証言をまとめたのがこの本です。
勤務隊は、昭和20年の初頭、陸軍に通達が出されて組織されたもの。その前年度末頃から朝鮮半島で勤務隊に入れるための強制連行が開始され、春ころから、順次、日本のあちこちの農村に、規模はさまざまながらこの勤務隊が派遣されたのだそうです。でも、勤務隊のことは敗戦直後にほとんどすべて文書が焼却されたため、詳しいことはわかっておらず、一般にも知られていないのだそうです。
農耕勤務隊という正式名は、今回初めて知ったのですが、わたしはずいぶん前から「農耕隊」という名前は知っていました。
なぜかというと、大正12年生まれの父が、まさにこの農耕隊に所属していたからです。
父は刈谷市出身で旧制中学卒業後、東京の獣医専門学校に入学。おそらく戦況の厳しくなったころ、繰り上げ卒業して入隊したと聞いた気がします。ニュース映像で有名な、昭和18年秋の雨の中の学徒出陣式より何か月か前に学徒兵として徴兵されたらしい。
徴兵されてすぐ、京都に配属。その後名古屋師団に転属。父の所属する部隊はほとんどが南方に移動命令が来たそうですが、父は免れ、戦争末期、当時の西加茂郡三好村に派遣されました。それが農耕隊です。
父の軍隊時代の最後の階級は少尉。だから農耕隊の一個小隊の隊長だったのかもしれません。詳しいことはわからないのですが、父は三好村の寺で寝泊まりし、朝鮮の人たちを連れて、「不良土の開墾に従事した」と聞いています。寺には、日本人兵士たちのほか、憲兵隊隊長夫婦も住んでいたそうです。
戦後になって寺を訪れた父は、寺の娘だった母とその後結婚し、わたしが生まれました。農耕隊の話は、父と母、それぞれから断片的に聞いたことはあるのですが、いったいその朝鮮の人たちはどこに寝泊まりし、どんな暮らしをしていたのか、開墾の目的は何なのか、そもそもなぜ父は南方異動から免れたのか、謎だらけのままでした。
謎だらけだなと思い始めたのは父が亡くなってから。でも、調べることもなく今日まで過ぎてしまいました。
その謎を半ば解き明かしてくれたのがこの本。本書によれば、三好村での勤務隊隊員の居住場所は三好中部小学校。「三好町史」(ママ・「三好町誌」が正式名)からの引用です。母の実家の寺から歩いて10分ほどのところにあります。
そして父や母、三好の友人のいう「不良土」という土地は、その小学校からさらに10~15分ほど行ったあたりにあります。友人の話では、その場所は「弥栄」という地名だそうです。
母からは、寺の奥座敷に憲兵隊夫婦が住んでいて、妻のほうが毎日、寺の厨で自分たちの食べる分のお米を七輪で炊いていて、それが真っ白の米だったと聞きました。食糧難の時代、農村で米作りしている家でもめったに白米など食べられないのに、「あるところにはあるのだな」と、うらやましいやら妬ましいやらの気持ちで横目で見ていたといいます。
父たちは二間ある玄関座敷で寝泊まり。彼らの食事は兵隊たちが作っていたのでしょう。彼らもたぶん白米を食べていたと思うのですが、母の記憶には残っていませんでした。
そもそも一般人を監視する役の憲兵が、なぜ軍隊と一緒に駐留していたのかも謎。両者は関わりがあるのかそれとも別の仕事に従事していたのか気になっていました。本書には、三好の場合と同様に、日本軍兵士とともに憲兵隊が監視役として駐留していたという話も載っているので、農耕隊員たちの逃亡や反抗を防ぐための監視役として派遣されていたのかもしれません。
農耕隊の目的は二つ。食糧の増産と燃料としての芋類の生産と松の根っこ掘り。松の根は油をとって、燃料に使われていました。しかし、サツマイモでんぷんからとった油では、飛行機はろくに飛ばなかったとの体験談も、本書には載っています。
本書には、子供たちが見た朝鮮人農耕隊員たちの悲惨な様子がたくさんのっています。おなかをすかせた日本の子供たちですら、びっくりするようなお粗末な弁当の中身。そして彼らは村人との交流は禁止され、口を利くことをとめられていたとか。それでも、空腹に耐えかねた隊員たちが農家にやってきて、食べ物を乞うこともしばしばあったそう。農家の主婦たちは戦地に行っている息子や夫のことを思って同情し、隠れて食べ物を渡していたそうです。でもそれが見つかると朝鮮人は殴る蹴るの暴行を受けるので、憲兵や日本人兵士が探しにやってくるのがわかると、農家の人たちは彼らをかくまい、裏口から逃がしたそうです。
本書によれば、おおかたの農耕勤務隊を引率する日本人兵士のリーダーは、大体30代以上の中年兵士。子供から見たら父親と同じ世代のオジサンがおおかったそうです。若くないため、外地にいかせるほど頑強でなかったのか、とにかくそういうひとがほとんどだったらしい。私の父は当時22歳くらい。体は丈夫だし、馬の命は人間の命より大事にされたというから、獣医の需要はあったとおもうのですが、内地の閑職のような仕事につかされたのはなぜなのだろうか。
本書のほとんどは、勤務隊を受け入れた農村の人たちの証言が多いのですが、中に一人だけ、引率する側の元日本兵の証言が乗っていました。彼は父より4歳上。彼は、「(朝鮮兵は二十歳くらいで)日本兵は四〇歳くらいだから、親子みたいな関係であった。中隊長(上司)・・・と相談して私的制裁は絶対やめようということにした。だから私の隊にはリンチはほとんどなかった。私的制裁は上官の考えやそれを肯定する雰囲気をかもしだしたりすると起こるものである」「戦闘行為でなく、農業そのものであり、明るい軍隊であったと思っている」と語っています。直接の当事者がこういう証言をしているのはこれだけ。
高学歴を持ち、若くて丈夫というところは父と変わりません。この方も、部隊で一人だけ内地勤務となったそうですので、この内地勤務そのものが結構重要な任務だったのかもしれません。本書には、推測としながら「自分は、この農耕勤務隊は米軍が本土に上陸した際、戦車の通る道に穴を掘って爆発物をもって自爆する要員とするつもりだったのではないか」といった意味のことを書いている人もいます。いわゆる「肉攻」と呼ばれる戦術です。
信州のある地区では、かなり大規模な開墾がなされたらしく、戦後この地は農地として地域住民に多大の恩恵をもたらしたとのことです。
ところでわたしは、子供のころ父から朝鮮民謡「トラジ」を教わりました。朝鮮語で、です。しばらく忘れていましたが、今回ユーチューブで見て、すぐに歌えました。つい最近まで、アリランとトラジを混同していましたが、教わったのはトラジだけ。父はアリランは歌えなかったのかどうか、しりません。おそらく、この農耕隊勤務の折、朝鮮の人たちから教わったのでしょう。
終戦後、父は農耕隊の隊員たちを連れて汽車で下関まで行ったと言っていました。今回、この本で8月24日に起きた帰還船浮島丸の事件~朝鮮人6,7000名を乗せた船が沈没した事件~を知ったのですが、父が送って行ったのはいつのころだったのか、秋といっていたような気もしますが、わかりません。この事件について、父が知っていたかどうかも今となってはわかりません。
本書によれば、朝鮮の人たちの帰還に関して、軍上層部からの命令はなかったらしく、いつの間にか日本兵だけがいなくなって朝鮮兵は取り残されたところもあったらしい。朝鮮の人達に現地解散の命令が出たものの、どうやって祖国に戻ればいいのかわからなくて、途方に暮れていたという記述もありました。先述した長野に派遣されていた方は、信州の駅から彼らを汽車に乗せ、門司か博多まで行くよう伝えた、と語っています。彼らも、中隊長の判断で帰国を決めたそうです。父が下関まで送って行ったのも、彼の部隊の隊長の独自の判断だったのかもしれません。
父がずっと持っていた軍隊手帳です。1945年2月までの記述で終わっています。後年書いたメモがはさんでありますが、農耕隊については記述なし。「昭和二十年二月二十一日獣医部見習士官を命〇(不明)」で記載は終わっています。その前には、前年の10月から11月にかけて「馬匹案領者トシテ」釜山から南京まで行ったことは記されています。「案領」の意味が分からないので、何をしに中国まで行ったのか不明。「視察に行った」と話していたことがありましたが、なんの視察だったのか聞きそびれました。
メモ書きには、「将校は手帳なし」とあるので、農耕隊のことは書く必要がなかったのでしょう。ということは、父が三好村の農耕隊勤務に就いたのは、2月25日以降ということだと思います。
今回ネットで調べていたら、「美味しんぼ」の原作者雁屋哲のブログが出てきました。彼は満州からの引揚者。戦争に関してものすごくよく調べたつもりでいたそうですが、この農耕勤務隊のことは全く知らなかったとのことです。謎の農耕勤務隊 | 雁屋哲の今日もまた (kariyatetsu.com)
余談ですが、膨大な資料を集めた本書には、農耕隊のことだけでなく、特筆すべき戦争体験ものっています。そのなかで驚いたことの一つにこんなのがありました。
ある牧場主が牛とともに徴収され、軍属として他の土地で自分の牛を飼い、軍隊に牛乳を提供していました。かなりの供出を命じられ、ずいぶん苦労したそうなのですが、ある時軍隊の基地に牛乳をも届けに行くと、上級の軍人が洗面器に牛乳を満々とたたえ、顔を洗っているのを目撃した、と書いています。書いたのはその牧場主の娘さん。父親から聞いた数少ない戦時中の話だそうです。よほど悔しい思いを抱かれたのでしょう。
さらに蛇足ですが、「三好町誌」のなかの農耕隊に関する記述を確かめたくて、みよし市図書館に行ってきました。1962年に出た旧版の「三好町誌」には、農耕隊の記述はごくわずかで、本書記載の部分しかなかったのですが、「新編 三好町誌」には、昭和初年ころから始まった不良土開墾事業のことが載っていました。愛知県全域で行われた開墾活動で、食糧増産を見込んで、畑地として不適なため放置されていた土地の開墾が県全体の事業として始まったのです。
ちなみに、旧版の「町誌」の編集主任を担当したのは、私の祖父。農耕隊を率いる父たちが泊まった寺の住職だったので、なんらかの記述がないかと期待したのですが、1冊だけの簡素な本の上梓にとどめたためか、そこまで踏み込んだ記載はありませんでした。今世紀に入ってから編まれた新編の記載を読んで、やっと少しだけ謎が解けました。
「四四年には、(中略)宝栄地区で開墾が進められた。この開墾事業は、朝鮮人の兵士からなる陸軍農耕隊により行われ、三好村第一国民学校を寄宿舎として炮録山の開墾を行い、宝栄集落を誕生させた」
「不良土」は、開墾事業の当該地を指していただけのようです。弥栄と宝栄はすぐちかく。焙録山は宝栄のすぐ隣のあたりのようです。現在のみよし市明知町の一部から三好町東山の東端一帯が広く開墾地として対象になったのではないでしょうか。
父が亡くなったのは2005年。雨宮氏が農耕勤務隊のことを調べ始めたのがその前後だったらしい。父の生前、もう少し詳しく話を聞いておけば、もしかしたら氏のお仕事の役に立てたかもしれません。
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