まず,NHKホームページから
「又兵衛の下で戦っていた武将、金万平右衛門が、ひん死となった又兵衛の首を、秀頼から又兵衛に与えられていた刀で落とし、秀頼に刀を返したと記されています。また、その際に首を持ち帰ることができなかったため、又兵衛の折れた旗を討ち死にの証拠として秀頼に差し出したなどと記されています。」
ATSU:これでは,介錯をした人間は,金万平右衛門と読み取れます。
また,秀頼から又兵衛に与えられた刀(行光)で首を落としたことになっています。
読売新聞
「脇差しの「行光」で首を討ち、秀頼に、又兵衛の折れた「指物さしもの」(旗か刀の意味)を渡して報告したことが記されており、」
大阪城天守閣(大阪市)の北川央館長は「介錯した人物は特定できない・・・。」
ATSU:確かに,読売新聞は,介錯をした人物が誰とは書いていません。
行光で首を落としたことになっています。
産経新聞
「同館(岡山県立博物館)によると、腰に重傷を負った又兵衛は配下の武士に自身の首を討たせていたが、書き付けでは、その際に秀頼から授かった脇差し「行光」を使っていたことが初めて分かったという。」
ATSU:確かに,産経新聞も,介錯をした人物が誰とは書いていません。
行光で首を落としたことになっています。
京都新聞も産経新聞と同様です。
朝日新聞
「致命傷を負った又兵衛が、秀頼から拝領した脇差し「行光(ゆきみつ)」で家臣に介錯(かいしゃく)を頼んだことが記されている。」
「大阪城天守閣の跡部(あとべ)信・主任学芸員の解釈によると、書面にはまず、又兵衛が長四郎という小姓に脇差しを渡し、自分の首を討って、又兵衛の最期はこうだったと秀頼に伝えるよう指示したが、長四郎は首を落とせず、脇差しだけを秀頼に渡したという内容が書かれているという。さらに、もう1人の小姓も討ち死にした証拠として又兵衛の旗のようなものを秀頼に持って行き、その後、金万平右衛門がその場に到着したと記す。」
ATSU:朝日新聞によると,介錯した人物はわからず,
又兵衛は,行光で介錯を頼んだが,行光で落としたとは書かれていません。
毎日新聞
「書付を見た福田千鶴・九州大教授(日本近世史)によると、又兵衛が配下の小姓の長四郎に秀頼拝領の脇差し「行光」を渡し、自分の首を落として秀頼に報告するよう指示した。しかし長四郎は実行できず、秀頼に行光を渡したと書かれているという。又兵衛はこの直後に配下の平右衛門に討たれたとみられる。」
ATSU:今回発見の書付では,介錯をした人物は書かれておらず,
行光で介錯したかどうかは書かれていません。
別に,配下に討たれたことを書いているが,書付に書いているとは書いていません。
そして,この書付を調査した岡山県立博物館
「書付「後藤又兵衛討死之時(ごとうまたべえうちじにのとき)」は、又兵衛の首を討った脇差が、又兵衛が豊臣秀頼から拝領したものであったこと、又兵衛最後の様子を秀頼に報告したことなどが記されており、」
ATSU:介錯した人物が誰かは言っていません。
秀頼から拝領した脇差で又兵衛の首を討ったと言っています。
この違いは何でしょうか。
ちょっと勉強になりました。
ちなみに,
「この資料は、11月25日(金)から来年1月15日(日)まで、岡山県立博物館にて展示します。」
「又兵衛の下で戦っていた武将、金万平右衛門が、ひん死となった又兵衛の首を、秀頼から又兵衛に与えられていた刀で落とし、秀頼に刀を返したと記されています。また、その際に首を持ち帰ることができなかったため、又兵衛の折れた旗を討ち死にの証拠として秀頼に差し出したなどと記されています。」
ATSU:これでは,介錯をした人間は,金万平右衛門と読み取れます。
また,秀頼から又兵衛に与えられた刀(行光)で首を落としたことになっています。
読売新聞
「脇差しの「行光」で首を討ち、秀頼に、又兵衛の折れた「指物さしもの」(旗か刀の意味)を渡して報告したことが記されており、」
大阪城天守閣(大阪市)の北川央館長は「介錯した人物は特定できない・・・。」
ATSU:確かに,読売新聞は,介錯をした人物が誰とは書いていません。
行光で首を落としたことになっています。
産経新聞
「同館(岡山県立博物館)によると、腰に重傷を負った又兵衛は配下の武士に自身の首を討たせていたが、書き付けでは、その際に秀頼から授かった脇差し「行光」を使っていたことが初めて分かったという。」
ATSU:確かに,産経新聞も,介錯をした人物が誰とは書いていません。
行光で首を落としたことになっています。
京都新聞も産経新聞と同様です。
朝日新聞
「致命傷を負った又兵衛が、秀頼から拝領した脇差し「行光(ゆきみつ)」で家臣に介錯(かいしゃく)を頼んだことが記されている。」
「大阪城天守閣の跡部(あとべ)信・主任学芸員の解釈によると、書面にはまず、又兵衛が長四郎という小姓に脇差しを渡し、自分の首を討って、又兵衛の最期はこうだったと秀頼に伝えるよう指示したが、長四郎は首を落とせず、脇差しだけを秀頼に渡したという内容が書かれているという。さらに、もう1人の小姓も討ち死にした証拠として又兵衛の旗のようなものを秀頼に持って行き、その後、金万平右衛門がその場に到着したと記す。」
ATSU:朝日新聞によると,介錯した人物はわからず,
又兵衛は,行光で介錯を頼んだが,行光で落としたとは書かれていません。
毎日新聞
「書付を見た福田千鶴・九州大教授(日本近世史)によると、又兵衛が配下の小姓の長四郎に秀頼拝領の脇差し「行光」を渡し、自分の首を落として秀頼に報告するよう指示した。しかし長四郎は実行できず、秀頼に行光を渡したと書かれているという。又兵衛はこの直後に配下の平右衛門に討たれたとみられる。」
ATSU:今回発見の書付では,介錯をした人物は書かれておらず,
行光で介錯したかどうかは書かれていません。
別に,配下に討たれたことを書いているが,書付に書いているとは書いていません。
そして,この書付を調査した岡山県立博物館
「書付「後藤又兵衛討死之時(ごとうまたべえうちじにのとき)」は、又兵衛の首を討った脇差が、又兵衛が豊臣秀頼から拝領したものであったこと、又兵衛最後の様子を秀頼に報告したことなどが記されており、」
ATSU:介錯した人物が誰かは言っていません。
秀頼から拝領した脇差で又兵衛の首を討ったと言っています。
この違いは何でしょうか。
ちょっと勉強になりました。
ちなみに,
「この資料は、11月25日(金)から来年1月15日(日)まで、岡山県立博物館にて展示します。」
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