ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

解読実践コース2年目第3回課題が返ってきました。次も頑張ります!

2018-04-06 14:55:31 | 古文書
解読実践,2017年度C.D第3回課題
私は「課題文書またはリポートについて,ご質問がありましたら・・・」
のところ,質問の前にこう書きました。
「解読実践コース13枚目のリポートですが,
 この13回の中で一番スラスラ解読できたと思います。」

課題が返ってきました。
確かにいつもよりよくできていました。
もちろん「A」です。

でも,やっぱり,間違えます。

先生は,
「全体に良い解読が出来ていましたよ。
 あとはくずしの形をしっかり確認してみましょう。」
と書いてくださっています。


満点めざして頑張ります!
といいたいところですが,
ほぼできている第4回目課題は,
第3回ほどできていません。
はい!
読みやすい課題はできても,
くずし方が大きかったら,とたんに読みにくくなるということです。

地道に頑張ります!

いつものように,
第4回の「あなたの声」といいたいのですが,
今回は,
ユネスコ「世界の記憶」登録記念企画展「脇坂安董と朝鮮通信使-易地聘礼 最後の通信使-」
とタイトルをつけたページの最後に書いた古文書の一部を載せました。
ここでは,書きにくいので,省略します。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ユネスコ「世界の記憶」登録記念企画展「脇坂安董と朝鮮通信使-易地聘礼 最後の通信使-」

2018-04-06 14:46:39 | 日記 博物館・美術館...
今日,たつの市立龍野歴史文化資料館に行ってきました。

今回は,
ユネスコ「世界の記憶」登録記念企画展「脇坂安董と朝鮮通信使-易地聘礼 最後の通信使-」
(安董は,「やすただ」と読むそうです。)

2月に行った,同じたつの市の
室津海駅館特別展と同時開催していたものです。

「朝鮮通信使」と思って会場に入ると,
まずあったのは,脇坂安治にあてた秀吉の朱印状でした。
いわゆる「朝鮮出兵」に関するものです。
しんみりと解説を読んで,
次のコーナーに行きました。

結果的に最後の朝鮮通信使となった文化8年(1811年)の通信使は
対馬での聘礼(へいれい)となりましたが,
実質的な責任者として,龍野藩の脇坂安董が副使として取り仕切ったそうです。

史料の中で私が面白かったのは,
聘礼にかかる費用を1万5千両を貸与され,
聘礼が終わるとその働きが認められ,その返納を免除されたというものです。

おもしろかった理由は,
単に,読みやすい字だからだったのかもしれません。


桜はもうほぼ散っていましたが,
ついでにのんびり龍野公園周辺を散歩してきました。


PS.
あとで思ったのですが,・・・,
脇坂安董がはじめ借りた「拝借」は,
のちに返さなくてよくなったとのこと,
これって,脇坂安董が立派に役目を終えたからでしょうか?
当時,「立派に役目を終えた」と言って,
このような重要な役目をした藩主は,みな,返さなくてよかったのでしょうか。

地震関係の史料を見ていても,
地震で困ったから,
藩主は「拝借金」をもらっています。
本来は,無利息で貸してくれるものだそうですが,
地震の後,藩主たちは返したのでしょうか?
それも,幕末混乱期に。

このブログの本題とはそれますが,
そんなことを思いました。
*裏まで考えないといけませんね。
(4月7日 追記)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『続徳川実紀 第三編』「温恭院殿御実紀」で安政地震を調べたら

2018-04-01 15:41:19 | 日記 安政地震関連・本・古文書など
『続徳川実紀』とは,・・・

『徳川実紀』(とくがわじっき)は,19世紀前半に編纂された江戸幕府の公式記録。
編纂は成島司直(なるしま もとなお)ら。
それぞれの記事の出典が記されているため、江戸時代を知る基本史料となっている。

で,成島家が引き続き実紀の編纂を続けたのが,『徳川実紀』
というようなことが,Wikipediaに書かれています。

その,『続徳川実紀』の「温恭院殿御実紀」,
つまり,徳川家定のところを図書のコーナーでめくってみました。
(見つからなかった漢字は,当用漢字で書いています。返り点等は省いています。)

安政地震があった嘉永7年(安政元年)の11月頃・・・

ありました。


11月4日  日光御宮別当住職 地震  
             日光山修人光樹院
(中略)
一此日辰刻江戸大地震 諸国破損有之
(箱根山が大いに揺れたこと,被害状況が書かれています。)
(伊豆下田湊は地震が強く,市中火災があったことのほか,
 大津波が打ち寄せ,市中18ヶ町のこらず平原になったこと,
 ロシア船(黒船)も破損したが,水難の者を多数救ったことも書かれています。)
(同時に,京都大地震, 
 主上(孝明天皇)が庭に立ち退いたことも書かれており,)

(翌5日夕,また大地震,それより夜になり,大いに揺れたこと,も書かれています。)

そのほか,7日以降,
ざっと見た限りでは,
東は駿河あたりから西は石見津和野あたりまでの大名が,
幕府から拝借金を借りていることがわかります。

「拝借金(はいしゃくきん)とは,江戸幕府が財政支援のために,
大名・旗本などに無利子に貸与した金銭」
と,Wikipediaにありました。

(細かく見たら,もっと広範囲かもしれません。)


ついでに,安政2年の安政江戸地震の方を『続徳川実紀』で見ようと思いましたが,
「温恭院殿御実紀」は安政2年4月29日の次は安政3年正月でした。
理由はわかりません。


ちなみに,『兵庫県史』にも
安政地震関連の史料がありました。

「嘉永7年の兵庫津地震記録」
としてあったのですが,
ここには,兵庫津の被害の外,
明石や姫路は大したことなかったというような記述がありました。

以前読んだ,
寺脇弘光氏の『兵庫県地震災害史 古地震から阪神・淡路大震災まで』の記述では,
網干(現在は姫路市)は震度6強~6弱とあったのに・・???

と思っていると,
横にいた職員さんが,
「自分が体験して書いた日記と,
 人から聞いて書いたものと分けて考えないと・・。」
とアドバイスしてくれました。


安易に始めた
安政地震調べ・・・,
さて,私の意欲と根性は続くでしょうか。
         
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする