ユタ大学でヘブライ語、聖書、末日聖典について教えたデビッド・ボコボイは、著書「旧約聖書の編集過程」(2014年)の中で末日聖徒の間に聖書の「高等批評」(or 「歴史的、厳密な研究」)を受け入れている人たちがいると述べている。これは聖典を常に字句通り受けとめるのではなく、批判的な視点で吟味しながら読む会員の存在を認めるもので私は注目した。これらの人々は聖書学の研究成果を取り入れ、聖典に現代人の視点で接し浮かび上がってくる真実を知ろうと努める。
ここに言う「高等批評」Higher Criticismないし「歴史的、厳密な研究」Historical Criticismの中心的な内容は、1) 旧約聖書のモーセの五書と言われる創世記から申命記までが「J」、「E」、「P」など複数の文書が編集され織りなされて出来上がっている、とする文書説、2) 新約聖書の共観福音書がやはり複数の作者(福音書の記者)が異なった伝承に基づいて綴ったものと見る説、である。いずれも源泉となる史料を確定しようとしている。
末日聖徒の間では、(1) 修正・調整しながら慎重に参考にしたJ.E.タルメージ、B.H.ロバーツ、BYUの宗教学教授たちがおり、(2) 修正傾向を伴いつつもやや積極的に取り入れた学者ヒュー・ニブレー、S.K.ブラウン、J.W.ウェルチなど、(3) そして積極的に批評的視点を取り入れた研究者A.A.ハッチンソン、K.L.バーニーなどが出て今日に至っている。ボコボイはその最新の世代になる。
この厳密な研究には基層をなす「本文批評」があり、その後進められた「文学批評」、「様式史」、「編集史」が含まれている。
伝統的な立場に立つ末日聖徒にとって高等批評の適用は、受け入れ難く重い問題提起であると思う。しかし、理解して採用する人にとっては聖典に接する時に余分なつまづきが取り除かれてすっきりし、遙か遠くの地平まで見通せる心境に達する。この自由と、真実の姿がそれだけ把握できたという気持ちは得難いものである。そして私は矛盾をかかえているとしても依然末日聖徒であると意識している。
・・・聖書?
モルモン書については?
巨大組織のカトリック教会も2000年頃を境に(基本教義は継承しつつ)急速に脱カルトして、現在に至ると私にはそう見えます。
高等評価なんて言ってもね・・。
なんせ、旧約聖書の勉強が、いきなりモーセ書とアブラハム書で始まる。それも、1か月半引っ張る。(今年の日曜学校)
旧約聖書の研究なんてどうでもよくて、モルモンの教義を教え込むのが、モルモン日曜学校の目的だとは心得ていますが、それにしても、天地創造から、ノアまでを、ほとんど旧約聖書を見ないで済ませるのは、いかがなものでしょうか??
確かに、創世期の最初の部分は、「神話」の要素が大きく、事実認定が困難な(不可能な)部分ですが、しかし、その中には、現代にいたる西洋文明の根幹をなす思考要素が含まれている。
それをバッサリと切ってしまって、アダムとイブの解説書の様なモーセ書とアブラハム書を張り付けるのは、もはや旧約聖書の勉強とは言えない気がする。
高等評価なんて言う高尚な言葉は、この様なモルモンの日常を何とかしてから使ってほしいもんです。
うちのワードの日曜学校の会長に一言言ってやらんといかんな~
って話は置いといて。
例えば、アダムは原罪を犯した「罪人」って話が、モーセ書では、「神に忠実な功労者」って言う話になってしまっていて。
ここから、キリストの贖罪の意味が大きく変わってしまう。
高等評価って言うのなら、その辺のとこも、キッチリと評価してもらいたいんですけど・・・。
これって、キリスト教の根本の話なんですけどね・・・。
大体高等批評を末日聖典に適用した研究は多くなく、読者も理解者も少数派です。しかし、モルモニズム研究(Mormon Studies)に携わってきた研究者には相当前から何人かいました。このブログに紹介したM.D.トマスもそうです(彼は文学批評から)。
Bokovoy の著は、モーセ書、アブラハム書、モルモン書について1章づつ充てて高等批評の適用を試みています。彼は聖書学の鋭い手法で解説していてレベルが高いと思います。いずれも「偽典」のジャンルに属すること、しかし預言者の産出するものとして読む事ができるという立場で解説しています。
旧約聖書から原罪を学ぶことは自然な流れとは限らないでしょう。
当然ながら旧約聖書を肯定していたイエスがアダムの原罪を説いていたかについては、モルモン教を外したとしても疑わしいのです。
イエス曰く「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」(マタイ19:14)
イエスが生まれながらの幼児にも何らかの罪があると考えていたら、こうは言わなかったであろうと私は思います。
またユダヤ教から派生しているイスラム教では、西方キリスト教会の支持している原罪論を真っ向否定しており、神はアダムに自由意志を与え、命令に背くまでは不安定な状態であったが、背いた瞬間にアダムは本来の作られた目的を果たしはじめたことで、神はアダムの背きを喜んだ、そして幼児は罪のない状態で生まれて来るので救われるために、洗礼のようなものは必要ないと教えているそうです。
そういえばNJさんは、過去にこのブログでクルアーンの構造はモルモン書よりもむしろ教義と誓約に似ていると指摘されていたように記憶しています。 それで不正式とされているクルアンの日本語訳を読んでみるとアブラハム曰く「云々」モーセ曰く「云々」と聞いたことがありそうでそれでいて面食らうような聖句が色々と書いてあって、普通のクリスチャンが高価な真珠やD$Cを読むと、こんな風な気分になるのかも知れないなと思ったものでした。
Bokovoyさんは彼の著述において末日聖典について、クルアーンと比較していたりしてませんでしょうか?
「高等批評」という言葉の意味について理解していたつもりでしたがこの機会に調べなおしてみました。高等批評に対して下等批評という言葉もありますが、これはどちらがより高度であるとか格上であるという意味でなく、対象に対する方向性の違いであるということですね。
まず下等批評とは原文に対してもっとも正式な形態は何かを追及するもので、翻訳や写本の過程でのミスや欠損を踏まえつつ原文へと遡及する取り組みのようです。正確な原文を探し求めることが目的ですので一般的に原文に対する疑いは持ちません。
一方、高等批評とは原文が成立する過程や背景を追及するもので、この文はいつ、だれが書いたのか、なぜこういう内容になっているのかという取り組みです。ですので例えばタイトルが「○○の書」となっているが実際に書いたのは別人物だし、書かれた時代も違うだろうという調査結果が出てくることがあります。ここが誤解されやすいのだろうと思うのですが、ある書を別人物が書いたと結論付けてもそれを理由に原文を貶めることが高等批評ではないのです。なぜ事実と異なるのか、何を意図していたのかとさらに探求を進めていくのが高等批評です。
聖書に対する高等批評が盛んになってきたころ当時のキリスト教会は非常に警戒しましたが、それでもキリスト教自体が滅びるようなことにはならなかった。むしろより科学的な目線での理解が深まったと言える、と私は思います。高等批評により滅びたものがあるとすれば「聖書は完全な事実でありその上に成り立つしていた教会と聖職者の権威」ではないかと。
モルモン書に対する高等批評が進むことが、聖書に対するそれと同等の結果をもたらすのであれば非常に興味深いことだと思います。