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七十人訳旧約聖書について気づいたこと

2017-04-17 12:20:35 | モルモン教関連


[Zondervan, 1980. 沼野所有]

イエス時代のキリスト教徒にとって七十人訳は、
 末日聖徒に対する欽定訳聖書の関係に相当する。
  その心はいずれもその翻訳から多大の影響を受けている。

以前、七十人訳は単に紀元前にヘブライ語からギリシャ語に翻訳された旧約聖書くらいに見ていた。暫くして、初期のキリスト教徒はこの七十人訳を読んでいたことを知った。そして最近、この七十人訳が英語圏のLDSが欽定訳聖書(略してKJV)に依存している関係にそっくりであることに気づいた。

注意しなければならないのは、いずれの翻訳もオリジナルの聖書本文を正確に反映しているとは言えず、それが原始キリスト教に、またモルモニズムに受け継がれている点で共通していて興味深い。ここでは七十人訳の翻訳(の特徴)がキリスト教に引き継がれている例を少しあげてみたい。

よく指摘されるのは、イザヤ7:14の「若い女性」を意味するヘブライ語が、LXXでは virgin 「処女」と訳されているケースである

語義の微妙な変化では、1) ギリシャ語で「人の側から神をなだめる、赦しを求める」を意味したのが、「神の側から罪をあがなう、赦す」という語義で用いられるようになっている。(口語訳申命21:8, 詩篇65:3和訳「ゆるす」)。 2) 「法」という硬い意味になっていた nomos がトーラーの訳として「教え、原則」という広い語義で訳されている。3) 出エジプト3:14の「わたしは有って有る者」(I am that I am)は「私は自ら存在する者」(I am the Self-Existent) となって、神人同性論を排除する方向に向かっている。

そのほか、語句が異なったり追加されたりする事が生じている。例、アモス9:12 「わが名をもって呼ばれるすべての国民を所有するためである」→「わたしの名を唱えているすべての異邦人も、主を尋ね求めるようになるためである」(LXXに基づく使徒15:17)。ほかにもLXXイザヤ40:3がルカ3:4に引用され、ヘブライ語聖書と異なり、LXXイザヤ29:14 がIコリント1:19に引用され、ヘブライ語聖書(KJV)と異なるといった具合である。

七十人訳は聖典の翻訳としては、柔軟・融通性があり、翻訳の過程でギリシャ語にヘブライ語的な語義がかぶり、逆にヘブライ語聖書にヘレニズム的なニュアンスが加わっている。そしてこのLXXに依存した新約の信徒や記者はその強い影響を受けた。ちょうどLDS教会がKJVの強い影響下にあるのとよく似ている。


[七十人訳(Septuagint, LXX)と現代語訳の関係] [ヘブライ語聖書本文の流れ。no change に注目]

参考 
C.K.Barrett, “The New Testament Background,” 1956, 1961, pp. 208 –

S.Kent Brown & Richard Neitzel Holzapfel, “Between Testaments from Malachi to Matthew,” Deseret Book, 2002, pp. 110-



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47 コメント

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お祈りの仕方とかって (たまWEB)
2017-04-25 00:09:32
どうなんでしょ??
モルモンでは父なる神に呼びかけ、願いや感謝をのべ、御子イエス・キリストの名で終えるわけですが、いつだったか映画でクリスチャンの祈りの仕方はまちまちなのかなぁとびっくりした記憶が・・・
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Unknown (Unknown)
2017-04-24 19:38:04

ううん・・・何と言いますか、率直な気持ちですが、
そこまで公式サイトに書いてあるのでしたら当然ながら伝統的クリスチャンからは受け入れられないでしょうねぇ。逆の立場で考えれば明らかではないかと思います。

ところでLDS教会では専門の聖職者がおらず、一般会員が教師をするとのことですが、このブログの読者様方も教師となりました際には先ほどの教材のような質問をされるのですか?

『今日の世界で見受けられるもので,分かりやすく貴い真理が欠落していることが原因で非常に多くの人がつまずいているという証拠には何がありますか。』

その際にどのような回答を望むのでしょうか?『証拠』とは?
関心をそそられます。
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Unknown (教会員R)
2017-04-24 18:33:16
末日聖徒の日曜学校のテキストが理想状態とは思わないが・・・・

意図的なテキストの選択や聖書上の用語の意味を変化させることでキリスト教に混乱が生じているのは明らかでしょう。

最近ではスマホやタブレットの利用が可能ですから、公式ホームページより以下を引用すれば概ね解決できると思います。


末日聖徒は,新約聖書時代以降のキリスト教信仰が生み出した信条を受け入れません。

最も初期のクリスチャンの神についての見方は,何世紀も経つうちに著しく変化したことを学者たちは長い間認めてきました。初期のクリスチャンは神を,その後数百年をかけて記述された信条から出てきたものと比べて抽象的でなく,より人格を持った人間的な御方であると考えていました。使徒の権能が失われた後,紀元二世紀に始まった重要なイデオロギーの変遷はキリスト教の教義とギリシャ哲学の概念が混ざり合った結果です。3

末日聖徒は初期のキリスト教の教義がギリシャ哲学と混じってしまったことは憂慮すべき誤りであると信じています。この過程で失われた教義の中で最も重要なものは神会の本質でした。父なる神,その御子イエス・キリストと聖霊の本質は,預言者ジョセフ・スミスを通して回復されました。その結果,末日聖徒は父なる神が肉体を持った存在であるという信条を持っています。これは多くの初期のクリスチャンが神の属性として説明していたものと一致しています。4 この末日聖徒の信条は新約聖書時代以降の信条とは異なっています。

「モルモンはクリスチャンでしょうか」より

当初は理解しやすかったイエスの福音だったのが、ギリシャ哲学と混じったものが結果的に主流のキリスト教になってしまったが、モルモンではそれを憂慮すべき間違いとしています。
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Unknown (Unknown)
2017-04-24 17:38:23
そうですか、しかし実際のところ日曜学校(?)に出席していて、教師から
『今日の世界で見受けられるもので,分かりやすく貴い真理が欠落していることが原因で非常に多くの人がつまずいているという証拠には何がありますか。』
などと質問されたら、どのように返答するのでしょうか?
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いえ、いえ、NON、NO (たまWEB)
2017-04-24 13:29:18
で御座候。たまWEBの意見、みつけた!みたいな感じ。誰からもこれといって反応はなしにて。
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Unknown (Unknown)
2017-04-24 11:52:40
一例を挙げていただき感謝いたします。ご指摘の記事を拝見いたしました。いろいろ申し上げたいことが浮かんできましたが、一つだけ。

LDS教会の公式な教義として『聖餐の祈りは聖書から失われた部分である』と、あなた様を含めLDS会員はみな受け入れている、と言うで理解してよろしいのでしょうか?
(先ほどの教材でいうところの『証拠』として挙げられると?)
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分かりやすく貴いのひとつに (たまWEB)
2017-04-24 10:51:29
聖餐の祈りがあげられるんではと思うわけです。
http://blog.goo.ne.jp/numano_2004/e/dbc7423df32732f6188dbd726c3ed56d
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Unknown (Unknown)
2017-04-24 10:22:28
土日の間にいろいろな議論が出て来たようですね。たいへん興味深く関心をもって拝見しておりました。ところでLDS教会の公式サイトにある日曜学校(?)の教師が利用するテキストを読んでいますと、果たしてこれはいいのだろうかと違和感を持ちました。

参照サイト:
https://www.lds.org/manual/teachings-and-doctrine-of-the-book-of-mormon-teacher-manual/lesson-7-the-book-of-mormon-and-the-bible?lang=jpn
モルモン書の教えと教義 教師用手引き, 2015年
第7課:モルモン書と聖書

分かりやすく貴い真理が回復された、というサブタイトルの元にLDSの教師は『預言者ジョセフ・スミスが,欽定訳聖書を霊感のもとに改訂するように主から命じられた』ことを生徒に思い起こさせるとあります。

解釈ではなく『改訂』だそうです。

そしてLDS教会の教師は、ジョセフ・スミス自身の以下の言葉を生徒に伝えます。
『わたしは原著者の筆によって書き記されたままの聖書を信じています。無知な翻訳者や不注意な転写者,あるいは腹黒く腐敗した聖職者たちが多くの間違いを犯してきました。』

この後でLDS教会の教師は生徒に以下のような質問をするようです。
『聖書の霊感訳が必要であったのはなぜですか。』

この流れですと素直に話を聞いていた生徒は、ジョセフの霊感訳は言語間の翻訳だと認識せざるを得ませんね。そうなんですか?ジョセフの霊感訳は彼自身の解釈を示したものだという意見をこちらのブログで以前に拝見しましたが、LDS教会の教師はそのように教えるように指示されていないようです。


さらに大きな違和感を感じたのは、次の部分です。
『生徒たちに1ニーファイ13:26-28を読み,聖書にどのような理由で何が起こるかについてニーファイが学んだ事柄を探してもらいます。』
『27節によると,これらの分かりやすく貴い箇所が取り去られた理由は何ですか。』

この質問に答えることで素直な生徒の心の中には、聖書からは貴く分かりやすい箇所が取り去られたのだという概念が事実として刷り込まれると思います。ただしその概念はモルモン書に書かれたものであって教師やLDS教会の指導者が公式な教義として明言したものではないのですね。

続いて教師は、
『一人の生徒に1ニーファイ13:29を声に出して読んでもらい,他の生徒には聖書から分かりやすく貴い箇所が取り去られたことによる結果を探してもらいます。』

そして生徒へのすり込みを決定づける強烈な質問をします。
『今日の世界で見受けられるもので,分かりやすく貴い真理が欠落していることが原因で非常に多くの人がつまずいているという証拠には何がありますか。』

この質問に真面目に返答するには、聖書から貴い部分が失われたこと
を単なるLDS教会の宗教上の概念としてだけではなく、完全な事実として受け入れその証拠を自分の意思で見つけなくていはなりません。もちろん例外的に捻くれたギャグで返答をかわす生徒もいるかもしれませんが。

果たして素直にLDS教会を信じ、学なび、救われたいと願う人がいたとして、その人は聖書をどう見るのか? 悪人によって貴い部分が抜け落ちたと信じ込むのでは? 世の中の人はつまづいておりモルモン書を持つLDS教会だけが唯一正しいという考えになるのでは?

まぁ何を信じるかは個人の自由なのでそれは良いのですが、私が違和感を感じたのはこの教本によるLDS教師の役割なのです。教師は生徒に『聖書は不完全だ』『モルモンこそが正しい』という概念を植えつけることになります。しかしそれは生徒が勝手に思い込んだ、あるいは勘違いしたのであってLDS教会としては、そんなことは全く明言していないんですね。勝手に勘違いしたことに教会は何の責任も無いということになるのでしょうか。LDS教会の教師とはそういうポジションなのだなと思いました。
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Unknown (教会員R)
2017-04-24 00:15:06
今調べてみたのですが、ミュンスター再洗礼派と末日聖徒には共通点があるみたいですね。

http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/2004443 再洗礼派とはどんな人々でしたか

共通点1 両者とも予言者が立てられた。

共通点2 両者とも真エルサレムの到来を宣言。再洗礼派はミュンスターに、末日聖徒はアメリカ大陸に。

共通点3 どちらも反カトリックが原動力になっている。

共通点4 幼児のバプテスマを非難している。

共通点5 どちらも旧約聖書の記述をきっかけに一夫多妻を推進した。

共通点6 どちらも初期に財産共有制度を行おうとした。

共通点7 軍隊に包囲され戦争状態になった。

共通点8 両者とも初代予言者が裁判を受けずに殺害されてしまった。

一方の教団は壊滅、一方は譲歩して発展した点は異なっている。

こういうのを比較している論文はテーマとしてはありと思います。
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NJさんの太陽射手座は宗教を・・・ (たまWEB)
2017-04-23 08:39:40
「射手座は実は宗教という意味合いもあるのです。

射手座に太陽あるような人は宗教に入信してないとしても、宗教的価値観を重んじる。

仏教的なのかキリスト教的なのか、それは人それぞれによるものの、宗教的なものへの興味はすごい。

人生どう生きるか?

宗教的・哲学的なのが射手座。

そんな射手座太陽の人が今年はいろいろ世間を騒がせてるところもある。

トランジットの魚座の海王星にスクエアをくらいやすい射手座の人たちは、今うまく自分と向き合っていかないと混乱に陥りやすい。

そういうことを常に考えるのが射手座。
http://ameblo.jp/gekishi4704/entry-12267781346.html

射手座 海王星 スクエア
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E5%B0%84%E6%89%8B%E5%BA%A7%20%E6%B5%B7%E7%8E%8B%E6%98%9F%20%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%82%A8%E3%82%A2
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ウイキより・・・一妻多夫というのもありんすな (たまWEB)
2017-04-23 03:30:21
キリスト教における一夫多妻制

ミュンスター再洗礼派における一夫多妻制

16世紀のドイツ農民戦争後に台頭した再洗礼派の指導者ヤン・ファン・ライデンは、1534年のミュンスター包囲の際に一夫多妻制の導入を布告し、自らも15人の妻を所有した。理念上は旧約聖書を根拠とした原理主義的な主張だったが、最も大きな理由は、当時のミュンスターの男女比が男性1に対し女性が3倍以上という不均衡な状態にあった事にある[1]。この布告は強制力を持っており市内の未婚の女性は強制的に結婚させられたが、市内の男女関係は混乱し諍いが多発した。

モルモン教における一夫多妻制

アメリカ合衆国のモルモン教においては末日聖徒イエス・キリスト教会の第2代主管長のブリガム・ヤングによる約束の地へのモルモン開拓者の移動で信者約6000人失って準州ユタ、現ソルトレイクシティに到着した際に一夫多妻制をとったが、ウィルフォード・ウッドラフの神から中止啓示により1890年に廃止されたとされる。このことと引き換えにより1895年に準州からユタ州に昇格した。ただし合衆国上院公聴会にて第5代大管長ジョセフ・フィールディング・スミスは一夫多妻状態にあることを認めておりモルモン教主流派では少なくとも20世紀初頭まで、またアリゾナ州など他州との州境においては、近年までみられたという。20世紀半ばにモルモン教主流派から分離したFDLS(モルモン教原理主義派)は現在も一夫多妻の教義を保持している。

日本の一夫多妻制度

日本では、江戸期までは上流社会において男子の跡取を生むという名目の元で側室制度があった。「室」というのは妻女を指し、普通は正室は1人、側室は複数人だったが、例外もあって厳密なものではなかった。跡取となる息子は彼女らの内の誰かが生母となるのである。男子の跡取を生んだ側室の扱いは、時代や身分によって大きく異なり多様であった。天皇や武士に限らず、富裕商人が「妾」を持つ例は少なくなかった。明治3(1870)年に制定された明治国家最初の刑法典「新律綱領」は、妾を妻と同じく二親等と認めることで、一夫多妻制の法整備をした。さらには妾を正妻に格上げすることも認められた。明治6年8月の大政官指令では戸籍上でも妾を妻の次に記載することが定められた。近代キリスト教国的な民法の施行により一夫多妻制は制度的にはなくなったが、近代において地位ある男性が妻と別に愛人をもつ風潮は広くみられた。

その他

日本における一夫多妻制の社会を物語る文献記述として、『魏志倭人伝』には、「大人皆四五婦下戸或二三婦」とある。このことから、日本では3世紀頃から一夫多妻制の社会が確認できる。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%A4%AB%E5%A4%9A%E5%A6%BB%E5%88%B6


一妻多夫は、ヒマラヤ近辺のヒトでは減少傾向にあるが、通常の結婚制度である。チベット、インドの南の一部の地方、ナイジェリア、ネパール、ブータン、スリランカ、北極圏の一部、モンゴル地方、アフリカとアメリカ州の先住民、ポリネシアの複数の共同体で、伝統的な制度として現在でも存続している。実態は一妻多夫というよりは多夫多妻、いわゆる乱婚と言ったほうが正確な地域もある。

江戸時代の江戸においては、人口比が圧倒的に男性が多く、町人においては結婚出来る者が限られていた。そのため長屋の住人は、ひとりの女性が長屋の他の男性とも関係しており、実質的な一妻多夫制によって町内の連帯が保たれていたという説がある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%A6%BB%E5%A4%9A%E5%A4%AB%E5%88%B6
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Unknown (教会員R)
2017-04-22 19:27:10
一夫多妻が悪いもの後ろめたいものだという感覚は、イエスがもたらしたものではなくて、実はローマの市民が守るべきモラル(王は例外)としてローマ皇帝が徹底した結果、刷り込みされて、ローマ帝国がキリスト教に影響させたものであって、一夫一婦制が常に聖書的で素晴らしいというわけではないんですよね。

その点は聖書のみのマルチンルターも、反一夫多妻思想が聖書的とは言えない(そのような聖句は聖書にはない。モルモン書にはある。)と結論しているようです。

聖書にはなくても、一夫多妻は家庭内が不穏で悲劇になることの方が多いので違法はもちろん合法でも、人道的には好ましくないのは明らかと思いますけど。

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その女性はヘレン・マー・キンボール(1828 - 1896) (たまWEB)
2017-04-22 15:46:43
で、43年初夏くらいに父ヒーバー・C・キンボールに多妻婚について聞かされ、親からジョセフの妻にという希望を言われた。ジョセフ(37歳)から同年5月に申し込まれ、承諾・・・

https://en.wikipedia.org/wiki/Helen_Mar_Kimball

ジョセフの死後、1846年ホレイス・ホイットニーと結婚(現世だけの結婚、ジョセフとのは永遠にわたる結婚、ホレイスは永遠の結婚を別の女性とした。 ホレイスはジョセフの別の妻の弟、その別の妻はヘレンの親友)、子供11人(3人夭逝)、一人はオルソン・F・ホイットニー(1855-1931)。
https://blogs.yahoo.co.jp/yamano0305/50052348.html

17~19世紀コロニアル・植民地時代の影響が残っていて、その当時は女性が14で結婚もそれほど稀ではなかったという話。13じゃなく14だにゃ。

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Re;ブーメランのように (オムナイ)
2017-04-22 15:18:22
ごもっともw

で、ですね。

初期のキリスト教徒は古代ローマの公用語ギリシャ語で書かれた七十人訳の誤訳に影響され、

モルモンは当時唯一の英語訳聖書(欽定約)の誤訳に影響され、

現代のキリスト教徒(特にプロテスタント系)は信仰のみによる義認の誤解に影響されて最新の翻訳になっている気がします。

しかし、それぞれの訳はその当時の最新の研究成果だったのでしようね。

初期のキリスト教会は数多ある書から精査して新約聖書を編纂しただろうし、プロテスタントも「この書は嘘くさい」的な書を排除したと。

それをカトリックから見ると主義主張に合うものだけをつまんで聖典にしている。と見えたのでしょうね。

これはさらに先輩のユダヤ教がキリスト教を見る目でもあるんでしょうね。
返信する
ブーメランのように (あらんどろん)
2017-04-22 09:18:31
オムナイ氏の発言を読んで私がプロテスタント信者ならこう思うだろうなと想像してみました。

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生ける予言者はモルモン教会にとっては根幹ですし、昔の人への尊敬もあるのですが、聖書解釈としては不完全なもののように思えます。

霊感訳聖書が山上の垂訓を思い付きで焼き直したとに見えてしまう、その一点からして怪しい。

ジョセフ・スミスが書した「モルモン書」こそ笑の書だ!。。なんて開眼したものでした。あー、恥かし。

ジョセフが高価な真珠としたパピルスも考えてみればエジプトの古文書を見て妄想を説いたもの。

当時いろいろな宗派が信者獲得をしていたことを考えれば「全ては間違っている。モルモン教会こそ唯一まことキリスト教会」と劇薬を処方するのは適切なことだったのでしょうね。

ただまぁ、調子に乗り過ぎたのか、ジョセフさんは「多妻結婚、信者の妻に手を出す、13歳の少女も妻にする」とか有名になったり、モルモンの信徒さんは黒人差別や同性愛者への迫害など一般人以下の道徳観しか持ち合わせていなかったりで伝統的なキリスト教とは逆の悪い面もあったのかもと思います。

悪口や批判をつらつら述べたその口から『他人を裁いてはいけません』というモルモン会員は、義認バランス取れてていいのですか?

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パウロは正しいがルターは間違った。 (オムナイ)
2017-04-22 07:10:59
教会員Rさんの引用

>パウロとルターは、実質的には同じ事を言っていることが分かります。

信仰義認はプロテスタント特にルター派の教会にとっては根幹ですし、先輩キリスト教への尊敬もあるのですが、聖書解釈としては不完全なもののように思えます。

山上の垂訓の焼き直し的ヤコブ書が藁の書に見えてしまう、その一点からして怪しい。

ルターが書した「キリスト者の自由」こそ笑の書だ!。。なんて開眼したものでした。あー、恥かし。

ルターが最も価値ある書としたローマ書も考えてみればモーセの律法からキリストの律法への脱却を説いたもの。

当時ローマ・カトリックは律法主義化していたことを考えれば「律法や権威そのものが必要ない。キリストへの信仰のみで救われる」と劇薬を処方するのは適切なことだったのでしょうね。

ただまぁ、解放されすぎたのか、ルターさんは「酒と女と歌を愛さぬ者は、生涯愚者である。」とか有名になったり、プロテスタントの信徒さんは一般人並みの道徳観しか持ち合わせていなかったりでカトリックとは逆の悪い面もあったのかもと思います。

モルモンの義認バランス取れてていいっすよ。

信仰と行いは一体のもの。当たり前です。
ただし、他人を裁いてはいけません。
 
返信する
あ、その88章のもありましたかぁぁ (たまWEB)
2017-04-22 06:11:48
将来、主イエスの再降臨、福千年となってシオンの町に復活した人たちも住むようになるのかな。その時地球は日の栄えではなく月の栄えということですね。(現在は星の栄えの状態)月の栄えでは主イエスの臨在はあるけれど父なる神の臨在は受けないという話ですね。

古代イスラエルの民については「23 さて、このことを、モーセは荒れ野の中でイスラエルの子らに分かりやすく教え、その民が神の顔を見ることができるように、彼らを聖めようと熱心に努めた。
24 しかし、彼らは心をかたくなにし、神の臨在に堪えることができなかった。・・・」「21 昔の預言者たちの証と警告を拒んだ不従順な者は、御子の臨在を目にすることも、御子の顔を仰ぎ見ることもなかった。
22 これらの者のいる所では暗闇が支配していた。しかし、義人の間には平安があった。 」

回復された福音の教会員としては、古代の民のようならないよう気をつけて、第一の慰め主を受けて、個人への啓示の道を歩んで、主イエスを求めた信仰生活を通じ救いをまっとうしていくみたいになるのかな。
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Unknown (教会員R)
2017-04-22 00:38:17
それで、話の腰を折られてしまったのですが、ルターの“信仰義認(ソラ・フィデェ ~人は信仰のみによって救われる)”は、個人が聖書のみを拠り所として信仰生活に励むもので、教皇や司教の権威を認めないとしました。

http://mizuho-church.info/koramu/1010.html 日本バプテスト教会さんの説明

人は、あがないの死と苦しみによって、全人類の罪をあがなわれたキリストを信じる信仰によってのみ、神に和解され、また、救われることを私たちは確認する。

http://www.nishinomiya-lutheran.jp/
ルーテル・キリスト教会さんの説明

両教会とも全く正しい説明ですし、ルターが間違ってるとかそういうことを言うつもりではありませんでした。 

宗教改革者のマルチンルターがヤコブの手紙を藁の書と呼んで嫌い、聖書から削除しようとしたのは、以下の聖句

こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。

これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。 同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。(ヤコブの手紙2) 

(人は行いでは義とされないというスタンスと真逆に読めてしまう)からでしょうと意見を述べさせて頂いただけです。

これは私だけの思いつきではありません。

http://www.igmtokyo.com/sermon/2001/04/sermon010422.html

信仰義認を宗教改革の柱としたマルチン・ルターは、このヤコブの手紙の価値を認めず、「藁-わら-の手紙」と読んだ程です。燃やすしか価値が無い、と考えました。

しかし、その前後関係を詳しく学ぶと、このパウロとルターは、実質的には同じ事を言っていることが分かります。 竿代照夫牧師さんの一例を読むと分かるように、一般的にもそう理解されていることは分かると思います。

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Unknown (Y.M)
2017-04-21 23:39:13
たまWEBさんのヤレドの話を読んで一つ聖句を思い出しました。


教義と聖約88:67ー68

あなたがたがわたしの栄光にひたすら目を向けるならば、あなたがたの全身は光に満たされ、あなたがたの中に暗さがないであろう。そして、光に満たされるその体はすべてのことを悟る。

それゆえ、あなたがたの思いがひたすら神に向いたものとなるように、自らを聖めなさい。そうすれば、あなたがたが神を見る日が来る。神はあなたがたにその顔を現すからである。それは神自身の時に、神自身の方法で、神自身の思いに従って起こる。
返信する
救いということでは (たまWEB)
2017-04-21 22:25:58
そのような最後の審判的な話につらなることもありましょうが、今、現時点となりますれば、第1の慰め主、聖霊の助けとかを身に受け感じて、信仰において励まされいきいきとしたものになるということになるのかもしれません。
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”わたしたちは,永遠の父なる神と,その (たまWEB)
2017-04-21 22:07:44
御子イエス・. キリストと,聖霊とを 信じる”

このイエスを信ずる信仰、信仰にはしるしが伴うとはありますが(09 しかし見よ、信仰はしるしによっては生じないが、信じる者にはしるしが伴う。)、究極のしるしともいうべきは、ヤレドの兄弟のように(主は彼に御自身を現して言われた。「あなたはこれらのことを知っているので、堕落から贖われ、わたしの前に連れ戻されている。そこで、わたしはあなたにわたし自身を現す。)主の臨在を受けることなのでしょう。

「モーセは荒れ野の中でイスラエルの子らに分かりやすく教え、その民が神の顔を見ることができるように、彼らを聖めようと熱心に努めた。」とも。

第二の慰め主  
https://www.lds.org/scriptures/gs/comforter?lang=jpn

「1:7 こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。」(1ペテロ)
信仰を十分試され、確固とした者に現れ・・・

「1:10 兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。」(2ペテロ)
別名 召しと選びを確かなものにする とも。
返信する
Unknown (Y.M)
2017-04-21 20:21:25
私たちがイエス・キリストの教えや模範を信仰し、すべての行動において慈愛と愛を持ってすることで義認とされるのではないでしょうか。
末日聖徒以外の義人や善人の人々も救われて当然です。
信仰、行動よりもそこに慈愛、愛が無ければ救われることはないでしょう。
「無」ですから(聖文より)。
返信する
信仰によって人は義とされる ( オムナイ)
2017-04-21 19:47:55
https://si.lds.org/bc/seminary/content/library/manuals/institute-student/new-testament-student-manual_jpn.pdf

信仰義認について末日聖徒の教材で最もよく書かれているのはインステの新約聖書ではないでしょうか。

39章「人が義とされるのは信仰による」

ここ10数年

信仰義認とはなんぞや?
プロテスタントの信仰義認はデタラメだ!
いや、モルモンの義認に共通する部分もあるな。尊敬し見習うべき

など愚考を繰り返しております。
返信する
聖書のアナザーストーリー、モルモン書 (オムナイ)
2017-04-21 19:28:27
七十人訳という名は聞いたことがありましたが、なるほどそいう影響ありそうですね。

>「わたしは有って有る者」(I am that I am)は「私は自ら存在する者」(I am the Self-Existent)

興味深いです。

言葉のちょっとした解釈が三位一体や信仰義認などある意味飛躍した信仰見える思想になるのですから難しいものです。

原点としているヘブライ語聖書(旧約聖書)も

キリスト教では新約聖書と一体でキリスト誕生を予言している箇所もユダヤ教ではキリストを神とは認めていないわけですし、

その新約聖書もカソリック系とプロテスタント系ではそれぞれ誠実に呼んでも「救い」の思想が違ってくる。。。

モルモン書が解説する本当の聖書の心。真理だと思うなぁ。
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『行ないと救い』 ()
2017-04-21 13:24:48
「行いによって救われる」と本心から思い込める人は、行いによって救われます。
同様に「信仰によって救われる」と心底思い込める人は、信仰によって救われます。

 ただ、豚が思うのは、「そう思い込めない救いようのない人をどうやって救うか?」です。

宗教者の仕事は、その様に思い込めない人を、思い込ますことです。
「私は救われる」「私は救われた」って、思い込ませることが出来ない宗教者なんて、何の役にも立ちません。
教団もしかりです。

宗教指導者は、「あの人の言う事なら信じられる」と思われる必要があります。もちろん、全ての人にでなくても構いません。
少なくとも、その宗教集団の信仰者にはそう思われないと、存在意義がありません。

「救いは行いのよるのか?信仰によるのか?」等と思い悩む信仰者が居るのは、宗教指導者が能力不足だからです。

どっちでも良いんです。どっちでも思い込めたら、救われます。

ま、このブログで、救いについて論議してるような人は、まだ救われていない不幸な人なんじゃないですか?

モルモンなら、「私はバプテスマを受けて、什分の一、知恵の言葉、安息日、その他の戒めを守り、神殿にも行ってるから、必ず救われる!」と信じるのが、救われる近道じゃないですか。
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Unknown (Unknown)
2017-04-21 13:17:34
「救い」についていろいろな意味がある、とはまぁそうなのでしょうけれど・・・

聖典に書かれている「救い」について話し合うときは以下のような暗黙の了解があるのではないでしょうか?


わたしたちは,イエス・キリストの功徳,憐れみ,および恵みによってのみ救われることができる。救われる,または救いを受けるということが何を意味しているかの次の定義を分かち合ってもよいでしょう。「救いの完全かつ真の意味は,昇栄または永遠の命と同義であり,日の栄えの王国にある3つの天国のうち最高の受け継ぎを得ることにあります。幾つかの例外を除き,これが聖文の言う救いなのです。
( モルモン書の教えと教義 教師用手引き 第8課:救いはイエス・キリストによってもたらされる )
https://www.lds.org/manual/teachings-and-doctrine-of-the-book-of-mormon-teacher-manual/lesson-8-salvation-comes-through-jesus-christ?lang=jpn
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LDS教会幹部の’信仰’’行い’関連の (たまWEB)
2017-04-21 11:46:42
説教には・・・・98年総大会説教でオークス長老のが。

98年7月号『聖徒の道』p62 ’あなたは救われていますか--- 末日聖徒が救われるや救いという言葉を用いる場合,少なくとも6つの異なった意昧があります。’
http://www.ldschurch.jp/bc/content/Japan/Liahona/1998/1998-07_S.pdf
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Unknown (Unknown)
2017-04-21 10:14:51
話を混ぜ返すようで申し訳ないのですが・・・
私自身は『行いによってでは救われない』と考えております。

しかしながらLDS会員の多くは『救いのために行いが必要』と信じておられますね。それはモルモンの生ける予言者は間違いを犯さない、教会はいつも正しいと信じているLDS会員が多いのと同じだと思います。

こちらのブログは昔から拝見しておりますが、『LDS教会はいつも正しい』という点には疑問を提唱する方々の意見を良くお見かけしますが、『行ないと救い』についてはいかがなのでしょうかと、大変興味を持って読ませていただいております。
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Unknown (教会員R)
2017-04-20 19:50:02
>信仰の完成に、御心にかなった行いが必要であるならば、行いも大切にすべきと信じている者に向かって、行いによってでは救われないなどと、マッチポンプのようなことを言えば、得られるはずの理解も得られないですよ。

誤解させてすみませんでした。 この最後の一言はUnknownさんへではありませんでした。 私が出会ってきたクリスチャンたちが私に言う台詞が大体このフレーズなので、つい感想をつぶやいたのみでした。
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Unknown (Unknown)
2017-04-20 10:27:03
教会員R様へ

マッチポンプという言葉の意味をお間違えになっておりますよ。それはともかく、私は『行いによってでは救われない』などと言っておりませんが。

私の発言で何か誤解をさせてしまったのであれば申し訳ありません。LDSの公式な教義かどうかは分かりませんが、LDSで『信仰と行ないにより救われる』と教えられていることは存じておりますよ。

『信仰義認』については、LDS会員が話題にする場面にでくわすことが過去にしばしばありまして、その際に『信仰義認』そのものを理解されていなかったので、なるべく丁寧に説明させていただいたつもりなのですが、「信仰だけで救われるのなら何をしても構わないのか」などと言われたわけです。このときはまぁ、かなり嫌な思いをさせられたのですが、私の方も言葉足らずだったかと反省もしております。

それで言葉足らずは承知の上で端的に申し上げれば
●LDS『信仰と行ないにより救われる』
●信仰義認『信仰により救われたので良い行いをするようになる』
となりますね、という説明を書かせていただいたわけです。

ただ、このことで『モルモンは間違っているとけなす』かのように言われるのは心外です。
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Unknown (教会員R)
2017-04-20 07:15:13
Unknownさんへ

偽善の行いそのものは報いは地上で受けとるだけで別に悪いこととは限らないが、いくら沢山行ったところでイエスの説く「行い」にはひとつもカウントされないことくらい、末日聖徒は十分に理解しています。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」 マタイ7章より

いくらLDS会員に言っても理解しないとけなす前に、神の命令である十戒(の精神)を守りましょうと教えたり、(偽善でない)良い行いは救いにかかせない要素だと言う者に、モルモンは間違っているとけなす代わりに、それはそのとおりです、お互い頑張りましょうと肯定すれば、話は早いんじゃないでしょうか?

それをけなしたり、否定すれば、当然ながら「では戒めを守らなくて良いのか」「信仰で救われるのならどんな悪い事をしてもいいのか」と質問されるのは、頑迷なことではなく、理論的かつ自然な流れでしょう。

信仰の完成に、御心にかなった行いが必要であるならば、行いも大切にすべきと信じている者に向かって、行いによってでは救われないなどと、マッチポンプのようなことを言えば、得られるはずの理解も得られないですよ。
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あれと、あれの、ヤコブの手紙の (たまWEB)
2017-04-19 20:46:43
「1:9 低い身分の兄弟は、自分が高くされたことを喜びなさい。

1:10 また、富んでいる者は、自分が低くされたことを喜ぶがよい。富んでいる者は、草花のように過ぎ去るからである。

1:11 たとえば、太陽が上って熱風をおくると、草を枯らす。そしてその花は落ち、その美しい姿は消えうせてしまう。それと同じように、富んでいる者も、その一生の旅なかばで没落するであろう。」

まぁ、11節はともかく、この聖句と教義と聖約104の

「15 万物はわたしのものであるから、わたしが意図しているのは、聖徒たちに必要なものを与えることである。
16 しかしそれは、わたし自身の方法で行われなければならない。見よ、富んでいる者を低くすることによって貧しい者を高くすること、これこそ、主なるわたしが聖徒たちに必要なものを与えるために定めた方法である。
17 地は満ちており、十分にあり余っているからである。まことに、わたしはすべてのものを備え、人の子らが自ら選択し行動する者となるようにした。
18 それゆえ、わたしの造った豊かなものの中から取りながら、わたしの福音の律法に従って貧しい者や乏しい者に物を分け与えることをしない者は、悪人とともに、地獄で苦しみながら見上げるであろう。 」
16節は、同じことを指しているんだと、つまりは、主イエスの方法ですよね、と思えたんだが・・・ヤコブがそう言えたのは、使徒行伝2章にある物を共有したという成功例を踏まえてですよねぇぇ・・・ところが、英文聖典のでも参照欄にはどちらの聖句でもお互い出てないんですよねぇぇ、たとえ奉献の律法に不成功のモルモンであっても主の方法は変わらない、説明をする意味でも互いに参照欄に入れるべきと思うんだが、もう40年近くも(1979年かな、現在の英文聖典が新たに出版されたのは)ほっておきっぱなしで・・・ネット検索でもゼロに近いのかなぁぁ・・・・
まぁ、わからんですけど、なんか理由があるんか・・・教義と聖約インスティチュートテキストなんかもお互いの参照ゼロですよねぇぇ・・・
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クムラン集団はエッセネ派説が優勢 (たまWEB)
2017-04-19 09:30:56
なのかな。http://mikio.wada.catholic.ne.jp/Vox_DDS03.html
なんか、後代の男一色の?修道僧、修道院みたいな。

ヤコブなる人物は、エルサレムでユダヤ人改宗者やユダヤ人向けに語ったと見られてるようですね(キリスト教徒迫害の後(ステファの殉教)散ったユダヤ人にも)。
彼の警告はユダヤ人の慣習にみられる弱点をついているんでしょうかね。ルターはユダヤ人ではなかったですかぁぁ。

貧富については挙げれば・・・1:9-11 ・ 2:1-10、15、16 ・ 5:1-8あたりでしょうか。
『哲学の慰め』というのがあって・・・
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%AE%E6%85%B0%E3%82%81
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Unknown (Unknown)
2017-04-19 09:30:11
ルターと言えば『信仰義認』ですね。でも信仰義認についてLDS会員と話をすると何回説明しても理解されないのですよね。必ずと言って良いほど「では戒めを守らなくて良いのか」「信仰で救われるのならどんな悪い事をしてもいいのか」と頑迷に否定なさるのです。

ルターは決して、悪いことをしても構わないなどとは教えていません。十戒についてでも、クリスチャンが守るべき教えだと説いているんです。

では信仰義認とは何か?端的に言えば、もし行いによって救いがもたらされるなら偽善によって救われてしまう、そうではないという事です。ルターの時代、金持ちの領主が多額の献金をして教会から特別な地位を与えられるという事がしばしばありました。救いが確立されたと宣言されるんですね。しかしその献金は元を正せば貧しい領民から取り立てた租税だったりするのです。表面的には大きな貢献をした領主と何もできない貧しい民、どちらが救われるのか?そこでルターは行いによって救われるのではないと教えたわけです。

モルモンでは良く『信仰 + 行い』で救われると言ってます。これが公式な教義かどうかは知りませんが、信仰義認とは少し違います。信仰によって救われたことで人は自然と良い行いをするようになる、そういう人になることが救いの完成なのだという考え方なのです。良い行いは救われたから生まれるのであって、救いのために良い行いをするんじゃないわけです。

しかし面白いことですが、信仰によって救われたはずなのになぜか『私はさらに神に近づくぞ』とばかりに、この世と隔離して修行に励むという行動に出る人がいつの時代にもどの宗派にも現れるようです。まぁそれも個人でなさるのは結構ですが、他の人に良い行いをしろ、神に近づけ、でないと救われないぞと言いだすようになるとそれはもう信仰義認じゃないだろうなと、私は思うのです。
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Unknown (教会員R)
2017-04-18 21:34:29
御言葉は聖書のみ、とか行いは救いに関係なしというルターがヤコブの手紙を嫌ったのは、都合の悪いことが書かれてるからでしょう。



こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。

これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。 同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。(ヤコブの手紙2) 

人は行いでは義とされないというスタンスと真逆に読めてしまいます。


そして有名な聖句もなくなるところでした。

あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。(ヤコブの手紙1章から) 知識は聖書のみのスタンスとはマッチしていなように書かれてあります。

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Unknown (教会員R)
2017-04-18 21:11:12
末日聖徒は現役の預言者がその都度コメントするので、エスカレーターに乗ってるようなものであり、何書が誰に抜かれたとか、どこの訳がが間違ってるとか、一々具体的に気にする必要性がないのです。

単に情報が抜かれているから注意せよということだけ知っていれば良いというスタンスですから楽ですよ。

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ヤコブの手紙も危うく (たまWEB)
2017-04-18 20:21:40
はずされるところだったようです。ヤコブの手紙なかりせば・・・「特にマルティン・ ルターは『ヤコブ書』をあまり価値のないものと考え、『藁の書』と呼んで何度も正典から 外そうとした」
ヤコブの手紙 ルター
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E3%83%A4%E3%82%B3%E3%83%96%E3%81%AE%E6%89%8B%E7%B4%99%20%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC
「04 それゆえ、それを読む者は、御霊が真理を明らかにするので理解しなさい。
05 御霊に照らされる者は、それから益を得るであろう」  
理想的には読んでいて何らかの霊感を受けることなんでしょうね・・・
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Unknown (Unknown)
2017-04-18 16:53:57
モルモン書は、悪魔の教会によって聖書から真理が抜き取られたと教えていますが、では具体的に誰がいつ何を抜いたのか、LDS会員は誰一人答えられないと思います。

ところが実は、歴史的に有名な聖書から抜き取られた書物がある!のです。これもほとんどのLDS会員は知りませんが、それは以下のとおり。
●トビト記
●ユディト記
●マカバイ記1,2
●知恵の書
●シラ書
●バルク書
抜き取った人物は宗教改革で有名なマルチン・ルターです。だからプロテスタントの聖書には上記が含まれません。外典扱いです(カトリックでは聖書に含まれます)。これって悪魔の大教会の仕業じゃないの?重大な背教行為じゃないの?・・・かと思いきや教義と聖約でジョセフが受けた啓示では、外典は不正確なので必要ないという事に。

何だかなぁって感じです。
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的な (教会員R)
2017-04-18 15:23:10
NJさんへ

この図解分かりやすいですね。

ただ実はそうでもないのに、正統派の神学者たちの太鼓判でいかにも聖書不変の証明がされてしまったと一般論になって蔓延しているのが、私からしたらいささか強引さを感じてしまいます。

(疑い始めるとキリがないのですが、権威筋によっていつの間にか洗脳されてないかは用心するポイントだと思います。)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E6%B5%B7%E6%96%87%E6%9B%B8#.E6.B4.9E.E7.AA.9F.E3.81.A8.E7.99.BA.E8.A6.8B.E3.81.95.E3.82.8C.E3.81.9F.E5.86.99.E6.9C.AC.E3.81.AE.E4.B8.80.E8.A6.A7

私から見れば、ソマラ本文から聖文が結構抜かれてるように見えるんですよ。 

過去に抜かれた未知のテキスト(例えば「神殿の書」とかです。)は「教団文書に分類されることで」批判を免れてるみたいに印象操作されてないかですね。 

(だからと言って物的証拠もなくJSが正しいと持ち上げているわけではないですよ。)
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ユダヤ人の口とは?? (たまWEB)
2017-04-18 14:48:35
この口というのは、神が直接召した予言者のことで、予言者は語って直接予言者が誰かに書き取らせたものを言うのかも・・・ピュア・オリジナル?!

「あなたはその書物がユダヤ人の口から出て来たのを見たが、それがユダヤ人の口から出て来たときには、主の完全な福音が載っていた。この主については、十二使徒が証をしており・・・」
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『死海文書』宗団ー>サドカイ派説 (たまWEB)
2017-04-18 14:33:04
というのも。

「2015年3月26日木曜日 - - - シフマン「第3章:死海文書の宗団はサドカイ派から生まれた」

ローレンス・H・シフマン「第3章:死海文書の宗団はサドカイ派から生まれた」、ハーシェル・シャンクス編(池田裕監修、高橋晶子・河合一充訳)『死海文書の研究』ミルトス、1997年、79-98頁(Law」
http://virtrilinguis.blogspot.jp/2015/03/3.html
炭素年代測定では、古いので紀元前250年という話だな。
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そもそも聖書とは・・・ ()
2017-04-18 13:03:12
聖書と言うのは、宗教者が教義や教えを次の時代の人々に教えるために編纂されたものです。

ユダヤ人の聖書は、バビロンに連れていかれて、ユダヤ民族が崩壊の危機に瀕した時に、当時国土を持てなかったユダヤ人が、民族の宗教的一致を目指して、その基礎となる教本を作ったものです。

新約聖書も、数あるキリストの教えや足跡、キリスト教初期の指導者の言葉等を集めて編纂したものです。

つまり、人間が自分たちの都合で作ったものです。
ですから、聖書に「完全な聖書」等と呼べるものは何処にも存在しない。

聖書の文言をいくら正確に翻訳しても、それは、真理を示すのもではない。

しかし、長い歴史の中で、生き残ってきた聖書の文脈の中には人間の生きるべき道が示されている。
それを見つけるのは、ただ読者の努力による。

いくら沢山のダイエット本を読んでも、痩せるわけではない。だが、痩せるためのヒントには成る。
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うぅぅんん・・・とすると、モルモン側と (たまWEB)
2017-04-18 11:13:42
しては、完全な状態の(或いはそれに近い)聖書には、少なくとも、ジョセフの霊感訳と同様のものがないと話が合わないということに。
死海写本は既に削られていたものだったということになるのでしょうか??
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Unknown (Unknown)
2017-04-18 09:52:17
モルモン書第1ニーファイ13章によれば、聖書はユダヤ人からでてきたときには完全な状態だったのだけれども異邦人に伝わってからは多くの貴重な真理が抜き取られてしまった、それは悪魔の大教会が原因だということです。

つまり・・・
●翻訳や編集の過程で真理が伝わらなかったのではなく、意図的な悪意で抜き取られた
●ユダヤ人の側にある聖書は完全な状態で、異邦人側にあるのは不完全である
しかし残念ながらモルモン書のこの主張を支持する証拠は学術的にも歴史的にもありません。

またモルモン書では聖書を『一冊の書物』『ユダヤ人の記録』と表現されています。ところが歴史的には聖書(特に新約聖書)は、異邦人に広まってから現代の形式にまとめられ一冊の書物という体裁になりました。
旧約聖書が現在知られている形に構成されるのはさらに後年になってからです。
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聖書本文は案外正確に現存 (NJ)
2017-04-17 21:43:45
ところが、イエス時代のへブル語聖書本文は死海写本に残されていて、後世、多くの写本群から復元された本文マソラ本文は死海写本とほぼ変わらないことが分かっています。下のサイトに分かりやすい図があります。

http://considerthegospel.org/wp-content/uploads/2012/03/OT-MSS-timeline-to-today2.jpg

記事本文にも加えます。
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Unknown (教会員R)
2017-04-17 21:15:47
聖書が様々に編集されて分かりやすい福音が分からなくなったというJSの主張(感覚)は正しかったみたいですね。

となるとクリスチャンとしては、イエス時代のヘブル語のオリジナル聖書の理解が重要になってくるわけで、残念ながら現存しないのなら、啓示に頼る以外方法がないわけで、

出来の良し悪しは別として、JSが手元にあったKJVを基本にして霊感聖書を作ろうとした原動力もそこにあったのかも知れません。
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Unknown (Unknown)
2017-04-17 17:13:13
そういう意味では日本のLDS会員も口語訳聖書の影響下にありますね
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