パスカルの「パンセ」に次のような断章を見つけた。引用して感想を記したい。
「245 信仰には、理性、習慣、霊感の三つの拠り所 (英訳source )がある。理性を伴う唯一の宗教であるキリスト教は、霊感によらず信仰に到る者を真実の信徒と認めない。だからと言って、キリスト教は理性と習慣を排除するものではない。むしろ、信徒は証拠となるものを受け入れる広い心がなければならない、また信仰は習慣によって確立されなければならない。そして謙虚に霊感を受ける姿勢を持つ。そうして初めて、真の、救いをもたらす力が発揮される。」(英語から沼野訳)。
確かにキリスト教信仰には理知的な響きが漂って見える。若い時に改宗した私は、回復された福音というメッセージや救いの計画(現世の目的)という教えが新鮮で、理屈っぽい私に説得力を持って迫った。また、晩年北京でクリスマスを祝う合唱を聞いて深く感動する自分がいた。(長年教会生活を送るうちに賛美歌を喜び、感動する層ができていた。習慣のなせるわざ)。また、生活の中で、自分が言うのはおこがましいが、時に霊感(インスピレーション)を感じて選び、物事を進めることがある。そう考えれば、私は信仰のうちに留まっていると言えるのだろうと思う。
これって、偏見かも?
理性と言うのが、客観性を意味するなら、理性は信仰とは相いれないものになる。
キリスト教が、信仰なるものを通じて、人間の本質と人間社会の構造を問う物なら、理性と称しても構わないと思える。
しかし、私の感じる限り、キリスト教が理性を優先させているとは思えない。
神とキリストの存在を認め、その役割を認める事から始まる、つまり、無条件の信仰から始まる限り、理性は、添え物に過ぎない。
神はひとつでなければならない、だからどうのこうのという主流の三位一体論もそうですし、自由意志の結果の自己責任と悔い改めによるキリストの救済を説いた救いの計画もそうでしょう。
教会の理屈を受け入れろ、そして信者は霊感を受けろというだけで、客観的な証拠はどこにもないのです。
” http://www.leaderu.com/cyber/books/pensees/pensees-SECTION-4.html
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