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ゲツセマネの園と十字架

2015-07-16 00:25:15 | モルモン教関連


犠牲の死を前にイエス・キリストがゲツセマネの園で味わった苦悩と、実際にゴルゴタの丘で十字架にかかって亡くなった時とどちらが苦しかったか、その意義はどちらが大きかったのかについて、末日聖徒はゲツセマネにおける苦悩の方が大きく、むしろそこで実質上人類に対する贖罪の業は終わっていたとさえ言われてきた。(教義と聖約19:15-19)。

そのような傾向に対して、実際にイエスが亡くなったのは十字架上であって、それで贖罪の業が完成するのではないのか、とウッドベリーが率直に疑問をぶつけ(1983年)、英国の末日聖徒の学者デービスは2001年、LDS教会の救いに関する神学はゲツセマネにあるのか、カルバリにあるのかと問いかけている。そして、2009年、M.G.リードは教会が十字架を遠ざけ、象徴としての十字架も否定的に見るようになった経緯をまとめている。

リードはブリガムヤングの妻や娘が十字架の装飾品を身に着けていたこと、「正にここである」と峡谷を眺める位置に記念碑を建てる際、初め教会は市に十字架の建造物を建てるよう申請していたことなどに触れ、LDS教会が十字架を遠ざけるようになったのは比較的最近のことである、と言う。そして、その背景には米国プロテスタント教会の十字架に対する考えの大きな転換があることを紹介している。

初めプロテスタントが新大陸に移民し、ヨーロッパ大陸のカトリック教徒を嫌い、軽蔑していた。カトリック教会と十字架が固く結び付けられて考えられ、象徴としての十字架も軽蔑の対象となった。そのうち、カトリック教徒も新大陸に移民し始め、人数が増加すると十字架は嫌悪され、敵視されるようになっていった。末日聖徒もその風潮に同調し、十字架を毛嫌いするようになっていく。

東部において、やがてプロテスタントはカトリックと共存するようになり、周知のようにプロテスタントは今日十字架に敬意を払い、十字架は信仰の中枢に位置するようになる。象徴としての十字架も同様である。

ところが、末日聖徒はいわば西部に隔絶した形で存在し、プロテスタントの転換をたどることはなかった。時間の経過と共に敵視が和らいだとしてもタブー視する状況が続いている。

末日聖徒の間でも、上述のように以前は十字架を用いる人たちがいた。しかし、マッケイ大管長の時代に十字架を否定する考え方が制度化されたとリードは観察する。マッケイも後年、その考えをやや和らげているが、現在末日聖徒の識者の間でも十字架に対する感性は、敵意がずっと後退しているものの微妙(ambivalence)である。

参考
Joyce N Woodbury, “Christ’s Atoning Sacrifice: The Role of the Crucifixion.” Sunstone Nov-Dec 1983
Douglas J. Davis, “Gethsemane and Calvary in LDS Soteriology” Dialogue, 2001 Fall-Winter
Michael G. Reed, “Banishing the Cross: The Emergence of a Mormon Taboo” John Whitmer Books, 2012

当ブログ 2008.08.26 2008年サンストーンシンポジウムに出席して(1)

"Sunstone speaker attempts to explain LDS 'aversion' to cross" Deseret News, 2009/09/10


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33 コメント

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熱心な参加に感謝 (NJ(沼野))
2015-07-21 22:37:06
なにか際限なく続いていきそうです。有難いのですが、本題からも遠ざかっていく気配です。この辺で閉じさせていただきます。悪しからず。
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Unknown (鯖の味噌煮)
2015-07-21 22:01:45
YMさんへ

>もっと詳しくイエス・キリストの贖罪について教えてください。

末日聖徒なら生ける予言者の言葉を学ぶのが一番でしょう。

ただ最近はいい本が手に入りにくくなりましたね。
●福音の教義
●救いの教義(全3巻)
●赦しの奇跡
●基督イエス
●奇しきみわざ
●モルモンの教義
もしこれらを見かけることがありましたぜひ熱心に何度も読み返されてください。このブログ主催者のNJ氏がかつて翻訳に携わられた珠玉の書籍です。

また予言者の言葉を読んだならその内容が理解できなくてもとりあえず実行してみることです。最初は理解できなくても理解できるようになるまでやってみると理解できるようになる、とオムナイ氏が言っておられました。彼は立派なモルモン指導者ですので間違いないでしょう。

しかし一つだけ注意してください。あなたが生ける予言者の言葉を素直に信じて全力で実行に移して、それで不幸になったり人生が狂ったとしても、教会も会員も指導者も誰も責任を取りません。

それはあなたの信仰の仕方が間違っていたんだろう、福音を実践して不幸になるわけがない、そんな状態になるまで信仰を続けろとは指導者は言っていない、すべてはあなたの勘違いだ、との言葉が返ってきます。

モルモンを信仰したら幸福になるしかないのです。もし不幸になったならあなたが間違っていたのです。それがモルモン信仰です。
返信する
豚の肉は食われる ()
2015-07-21 19:29:34
豚の相手は、豚肉屋のおっさんに決まってるやろ!

豚肉屋のおっさんは、「これは黒豚」「これはイベリコ豚」だって、理屈をつけて高く売ろうとするんやけど。

結局どの豚だって、食った腹に収まればそんなに違うものじゃない。

そんな少々の違いに騙されて高い豚肉を買うバカもいるって話。
返信する
Unknown (ジョン・ドゥ)
2015-07-21 18:23:54
豚さん

誰に向けて語ってるの?
言葉を並べるほどにご自分の無知さを曝していますよ
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「相違」と「間違い」は別の話 ()
2015-07-21 17:50:11
旧来のキリスト教の贖いに関する教義と、モルモンの贖いに関する教義が違っていることは、誰でも知っていると思いますよ。

ただ、昔からある方が正しいとは言い切れないでしょ?

そもそも、モルモンは、「既存のすべてのキリスト教は間違っている」と言う観点からスタートしているのですからね。

「信じるものはすべて救われる」なんて言うのは、「これを毎日飲めばすぐに痩せられる」と言う健康食品みたいにいかがわしい話で、結局、本当に痩せようって思ったら、運動したり、食事制限したりしないとダメなんです。

「信仰義認」って言っても、「信じたら救われる」と言う単純なものじゃないでしょ?「信じたら、信じたなりの行動が伴うでしょ、行動が伴わないのは信じたとは言えない・・・」ってその先がついてくる。

救いの条件に行動規範(戒めを守る)が無くなったわけじゃない。モーセの行動規範からキリストの行動規範、パウロの行動規範へと主張が変化しただけ。

「戒めを守る」と言う言葉が、「キリストの弟子になる」に変わっただけで、やらんといかんことはほぼ変わってないんとちがいますか?
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Unknown (ジョン・ドゥ)
2015-07-21 13:27:19
私は豚さんにもオムナイくんにも10年以上前から何度も繰り返し伝えているけど、キリスト教の購いとモルモンのそれの違いを欠片も理解してないのな(笑)

『救われる』ために戒めを守ることは必要じゃないんだよ、救いはキリストが与えてくれるものだからね。私らの努力でもらう報酬じゃないの、この話何度目だよ(笑)

この辺がモルモン教義の限界かな
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信仰義認? ()
2015-07-21 13:12:33
イエスをキリストだと信じるだけで救われるって?
そりゃー楽で良いですね。

もし、戒めを守る必要が無いのなら、パウロはなんであんなにたくさんの書簡を書いて聖徒たちに送ったんでしょうか?

イエスが教えた言葉、パウロが書き送った言葉、それは、私たちが人間として生きて行くときに守るべき戒めじゃないんですか?

イエスがキリストだと信じることと、イエスの教えを守って生きることを切り離していいんですか?
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Unknown (YM)
2015-07-21 09:22:48
鯖の味噌煮さんありがとうございます。


もっと詳しくイエス・キリストの贖罪について教えてください。

私のような教会員でも。
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Unknown (鯖の味噌煮)
2015-07-21 08:47:26
NJ氏はじめ知的モルモンの方々はイエスの復活が事実だなんて思ってないでしょ?まぁ教会員の前では決してそれを言わないけどもね。

イエスの贖いで罪からの救いはキリストのみ名を引き受け、なおかつすべての戒めを守るよう心から努力したという人にだけ与えられるというのがモルモン教義。一方、伝統的なキリスト教(特にプロテスタント)はイエスへの信仰によって救われます。戒めを守る必要はない、なぜならそれがキリストの贖いだからです。

ゲッセマネだの十字架だの言う前に『贖い』の根本的な意味が違うんですね。そういうことわからないで何を議論してるの?って傍から見ていて思います。

しかしまぁ、とりあえずモルモン教義に話を合わせるとして、十字架上での苦痛と死が贖いではない理由として、あるモルモン幹部はこんな感じの説教をしていました「十字架上の苦痛はイエスの両隣にいた犯罪者も受けているのだ、それよりも人間では決して耐えられない苦しみを受けたゲッセマネこそが贖いの真の場所であった」

とにかくモルモン教会員は自分の指導者の言葉すら満足に理解していませんね。もっと勉強しましょう。そうしたらモルモン教義が破綻していることが見えてきますから。
返信する
Unknown (YM)
2015-07-21 07:10:38
疑問があります

教義と聖約19.19では「わたしは杯を飲み、人の子らのためにわたしの備えを終えたのである」と書かれていますが、この「終えた」と言う意味がこれはヨハネ19.30のことを言っていると教えてもらったことがあります。改宗したての頃の話ですが。


現在の聖典には教義と聖約の脚注にヨハネ19.30と書かれていますが、古い聖典には、同様に書かれていますか?


私がこの質問をしたのは、ゲッセマネの祈りだけが贖罪ではなく、十字架で息をひきとるまでがこの地上におけるイエス・キリストの贖罪ではないのかと思ったのです。



さて、何故末日聖徒が十字架をしないのかですが、私が教わったのがいくつかあります。

1つ目は、ここでもお話をされていることで刑罰に使われたということですね。

2つ目は、イエス・キリストが復活したからと教わりました。

3つ目は、礼拝堂(建物に十字架をしないのは、偶像礼拝につながるから

というようなことを教わりました。


そのときに私は、3つ目の教えられたことについて納得する部分がありました。


神社仏閣を参拝するのが好きな私だから、すごく理解ができたのかも知れません。


教会員が十字架を毛嫌いするのはあまり宜しくないと感じます。


何故ならばそれは、
聖さんの時の言葉を理解していないからです。

“いつも御子を覚え”というのは、イエス・キリストの犠牲、ゲッセマネの祈りや十字架での死についても含めて全て忘れずに覚えていることを意味していると解釈しています。


ですから私は教会に十字架が無くても、毎週聖さんをとるたびに、心でゲッセマネの祈りや十字架つまりイエス・キリストの贖罪を思い浮かべることの方が最も大切です。

返信する
Unknown (Unknown)
2015-07-19 20:36:53
豚様へ

こんばんわ、安息日の夕べに証を分かち合えることに感謝いたします。
同じ賛美歌を聴いたとしても人によって受け止め方はそれぞれです。あなたのようなことを考える人もいれば別の受け止め方をする人もいるようです。

ご提示いただいた賛歌『主イエスの愛に』ですが、検索していましたところ以下のような素敵なページを見つけました。
-------------------------------
愛する子供たちへ
メリッサ・ランサム姉妹の「主イエスの愛に」と題するすばらしい証を紹介します。イエス・キリストさまの贖いの恵みについて、私たちも理解を深めることができる証です。私たちもランサム姉妹のように個人的な啓示を通して、主や主の贖いについての知識と理解、証を深めることが出来れば本当にすばらしいと思います。

わたしは次のように歌い出しました。

 主イエスの愛に  ただ驚く
 恵みの探きに  われ惑う
 罪人のため  十字架にて
 流されたる血に 身は震う
 (『賛美歌』109番)

コーラスに差しかかったとき、わたしはついに泣き出してしまいました。唇は震え、涙が頬を伝いました。

 ああ、わがため主は死にたもう
 奇しきみ業
 ああ、奇しき主のみ業

わたしは賛美歌を最後まで歌い通すことができませんでした。頭を垂れ、体を震わせて泣きました。すると突然、これまで一度も味わったことのない気持ちを感じました。それは完全な喜びであり、救い主に対する感謝の気持ちでした。聖餐のテーブルに目をやったわたしは、それがほんとうにどれほどすばらしいものであるかを悟りました。

このときから、贖いはわたしにとって個人的なものになりました。イエスはわたしのために亡くなられたのです。主はゲッセマネの園で、わたしの罪のために苦しまれました。主はわたしたち一人一人のために苦しみを受けられました。その苦痛はあまりにも大きく、全身の毛穴から血が吹きだすほどでした。しかし、主はそれを進んで堪え忍ばれたのです。その苦しみを通して、主はわたしたちのみならず、彼を陥れた者たちに対してさえも、愛の気持ちを満たされました。何という偉大で、完全な模範でしょうか。
-------------------------------
http://blog.goo.ne.jp/happy_life_realize/e/be07867189917acc9af4562498dcd8dc

どうして豚様がとても皮肉に満ちた(と私は感じましたが)書き込みをされたのかその意図ははかりかねますが、キリストの愛を日々の生活の中で感じていらっしゃいますよね?
返信する
歌詞変更? ()
2015-07-19 17:16:24
主イエスの愛にただ驚く
恵みの深きに我惑う
罪人のため十字架にて
流されたる血に身は震う
ああ、わがために主は死にたもう
奇すしきみ業
ああ、奇すしき主のみ業
(賛美歌109番)

上記の歌詞は教義上正しくないので下記のごとく変更します。


主イエスの愛にただ驚く
恵みの深きに我惑う
罪人のためゲッセマネにて
流されたる血の汗に身は震う(字余り)
ああ、わがために主は復活したもう(字余り)
奇すしきみ業
ああ、奇すしき主のみ業
(賛美歌109番)


教義と違うって思う人は、今後聖餐会で歌わないでね!
返信する
Unknown (Unknown)
2015-07-19 08:47:30
すみません、もう一言だけ追記します。

>そのような傾向に対して、実際にイエスが亡くなったのは十字架上であって、それで贖罪の業が完成するのではないのか、とウッドベリーが率直に疑問をぶつけ

そもそもこのウッドベリーという人が福音を理解していません。十字架上でキリストが亡くなって贖罪が完成などとはとんでもないです。

十字架の死後キリストは霊界に行かれ、獄の扉を打ち砕かれ、復活されて、贖罪の御業の完成です。末日聖徒なら誰でも知っていることではないでしょうか?

皆様の目の梁が除かれることをお祈りします。
返信する
Unknown (Unknown)
2015-07-19 08:30:16
NJ様、オムナイ様

この爽やかな安息日の朝にメッセージを分かち合えることを感謝します。ヒンクレー発言の出典をご提示いただき感謝いたします。時間がありませんので取り急ぎ調べた結果の報告です。

1995年にヒンクレー副管長は以下のメッセージを語られました。
--------------------------------------------
 この教会では従軍牧師がその身分を証明するために制服に記章としてつける以外, 十字架を用いません。
 (中略)
 「イエス・キリストを信じているのなら, なぜキリストの死の象徴であるカルバリの十字架を用いないのですか」と疑問に思う人もいるでしょう。
 そのような疑問に対し, まず答えておかなければならないことがあります。それは, 全人類を救うためにご自身の命を捧げてくださった贋い主のあの大いなる代価を, この教会の会員であるかぎり, 決して忘れはならないということです。ゲツセマネの園における苦痛, 裁判の時にお受けになったひどいあざけり, 肉に食い込んだ残酷ないばらの冠, ピラトの前における暴徒たちの血に飢えた叫び, おひとりで重い十字架を背負い, よろめき進まれたカルバリへの道, 大きなくぎで手足を刺し貫かれた時の激痛, あの悲しみの日に十字架上で被られたこの上ない苦しみ, 「父よ, 彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか, わからずにいるのです」(ルカ23:34)という神の御子の叫び, 私たちは決してこれらのことを忘れてはなりません。
 これがキリストの十字架が示している事柄です。十字架はキリスト, すなわち平和の君を苦しめ, 滅ぼすために用いられた恐ろしい刑具であり, 病人を癒し, 盲人の目を開き, 死人をよみがえらせてくださった救い主の奇跡のみ業に対して与えられた悪意に満ちた報酬でした。キリストは, 寂しいゴルゴタの丘に立つこの十字架におかかりになり, 息を引き取られたのです。
--------------------------------------------
(聖徒の道1995年4月号 ヒンクレー第一副管長のメッセージより抜粋)

NJ氏が取り上げた発言は40年も前のものであります、NJ氏のように誤解を招く会員ことが多かったのでしょう。それから20年後、ヒンクレー長老は副管長時代により明確な言葉で末日聖徒の心構えを語られ田と言うことですね。私たちは救い主の刑罰の道具に信仰をおくことはありません。しかし、もちろんそれを信じている他宗派を蔑むわけではありません(75年の説教では単にそう言ってるだけです)。

イエス・キリストは今も確かに生きておられます、その死の道具を使う人たちはキリストが祈られたように『彼らは何をしているのか わからずにいる』のです。ですからむしろ私たちは彼らに、今も生きてられるキリストを伝え、その死は打ち砕かれたことを伝えるべきなのではねいですか?

失礼ながら私にはどうしてもNJ氏や他の方々がきちんと聖典を読んでいるようには思えません。預言者の言葉に耳を傾けていらっしゃるでしょうか?聖餐を受けてキリストを思い起こし、神殿の誓約を思い起こしてくださいますように。
返信する
Unknown (ジョン・ドゥ)
2015-07-19 01:26:01
教えていることが昔と違っているならそれは教義が変わったのです。変えたのは教会幹部。彼らは『真理すなわち永遠に変わらない知識』を知っている、啓示を受けていると言いますがそれがウソであることを自ら証明していますね。

ところが、それでも『幹部は正しく教会は間違っていない、すべては教会員の勘違いが原因なんだよ』と白々しい護教をしているのが知的モルモンと自称する方々なのです。

Shame! Shame! Shame! と叫びたくなります。
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そうでしたね。昔は・・・ (落伍者)
2015-07-18 23:49:00
末日聖徒はゲツセマネにおける苦悩の方が大きく、むしろそこで実質上人類に対する贖罪の業は終わっていたとさえ言われてきた。(教義と聖約19:15-19)。

そのような傾向に対して、実際にイエスが亡くなったのは十字架上であって、それで贖罪の業が完成するのではないのか、とウッドベリーが率直に疑問をぶつけ・・・・・

 昔はそのような考えでしたね。
1980年代の宣教師のレッスンプランでは、ゲッセマネの園での祈りを<贖い>として教えていました。

今は、公式HPで十字架での死も入っています。

そして、復活がないと完全な贖いの業が完成されていないとも考えているようで、まともな結論と感じます。

 イエスが園で万物の罪を引き受け、死によって捨てることによって、罪を葬り、復活によって新たな命を与えるという過程があって、人に救いが与えられるわけですよね。
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抜け落ちました (落伍者)
2015-07-18 23:41:00
他の教会の方から見ると、十字架を愛する気持ちが欠落しているのは、イエスの犠牲に対する感謝が足りないと捉えられるのではないかと思うのです。

 足りない です。 
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追記 (落伍者)
2015-07-18 23:37:52
 私の心が曲がっているのかもしれませんが、家のすぐ近くに教会があり、窓を開けるといつも十字架が見えました。
 それが見えるだけでイエスが守ってくれているような気持ちを抱いたものです。

 モルモンに改宗して、十字架を禁止されたことはイエスが離れたようで悲しかった。

 なぜなら、十字架を見る度にイエスの悲しみと苦しみの大きさを再認識でき、よりイエスの近くにいることができると感じるからです。

 十字架を身近に置くことによって、よりイエスの犠牲を思い起こすことができると感じます。

 十字架を重んじる人はそのような気持ちだと思います。

 私はモルモンが素直に十字架を愛することが出来ればいいと願っています。

 死刑の道具を快く思わない気持ちも理解できますが、
十字架を愛でる気持ちはそのような不快な気持ちを超越しているのだと感じます。

 他の教会の方から見ると、十字架を愛する気持ちが欠落しているのは、イエスの犠牲に対する感謝が足と捉えられるのではないかと思うのです。 
返信する
パウロの言葉 (落伍者)
2015-07-18 23:25:06
<しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。>

 十字架によって救いがもたらされたのであれば、十字架には誉があるように感じるのですが・・・・

いかがでしょう。

十字架を毛嫌いする指導者の発言は、理知的とは思えません。

 十字架を敬う人々に対する負の感情が入っているように感じます。

 古の聖徒は少なくとも敬っていたはずです。

 モルモンの歴史を学ぶと他の宗派との軋轢が十字架を敬遠する考えを生み出していったように感じます。

 
返信する
追加レスポンス (NJ)
2015-07-18 22:20:29
>オムナイさん いつものように援護射撃に感謝いたします。お手数をかけました。

>ジョン・ドゥさん

われわれを厳しく批判していますね。私などは圧力を感じてしまいます。気をつけねばと感じます。確かにわれわれは矛盾なしとはしません。いろいろなスタンスの人がいて、個人をとっても変化しているからです。ただ、言われるほど単純(simple)ではない、と申し上げます。学んでいると思っています。 
返信する
2つのコメントにresponse (NJ (沼野))
2015-07-18 16:58:27
教会員さん↑が書かれた通りだと思います。

Unknownさん、聖徒の道をさかのぼって調べていただいて有難うございます。なお、G.B.Hinckley長老の発言ですが、1975年の春の総大会の説教に出てくることを確認いたしました。和訳(私訳)と原文を記します。

「私は、聖堂の尖塔に十字架をすえたり、礼拝堂の聖壇に十字架を飾り付けたりするキリスト教徒の友人たちや、祭服に十字架(の図)をかけたり、書物に刻印する友人たちの感情を害したいと思いません。」

“I do not wish to give offense to any of my Christian brethren who use the cross on the steeples of their cathedrals and at the altars of their chapels, who wear it on their vestments, and imprint it on their books and other literature."

また、ニューエラ誌'96年9月号の質疑の頁にヒンクレー長老の言葉としてこうあります。

「人々がその人たちの宗教で十字架を身に着けることを私たちは批判しません。十字架がその人たちにとって大きな意義があり、神聖であることを理解しなければなりません。」

"we do not criticize others for wearing or using the cross in their religions. We should understand that the cross is significant and sacred to them."

私は、ヒンクレー長老が単に儀礼や言葉のみの形で言われたのではないと受けとめています。
返信する
続き (ジョン・ドゥ)
2015-07-18 16:23:25
そうしたデタラメさを乗り越えられ真実を語る誠実さを持たれますようにと、心から願います。

無理かも知れませんが・・・
返信する
いつもながら (ジョン・ドゥ)
2015-07-18 16:19:19
面白いですね、あなたがた知的モルモンはある種の説教に関しては『40年以上前の古いものだから』と退け、別の事柄については過去のものでも臆面なく持ち出して自説の根拠にするわけです。

当時、教会幹部は黒人の神権について、産児制限について、女性が労働することについて、同性愛について、何と言ってますか?

幹部の発言を持ち出して護教を企てるなら、都合の悪い彼らの発言についても『過去のものだから』と卑劣な擁護をせず、きちんと向き合いましょう。

それでなければあなたかたの研究会などは単なるオママゴトでしかない。
そうしたデタラメさを
返信する
Unknown (教会員)
2015-07-18 14:28:07
ブリガムヤングの時代とは違うという経緯が良く分かりました。

結局のところ、ヒンクレー使徒の説教は考え方として教会員として支持していますが、末日聖徒が十字架を身に着けたり、アーメンと唱えるときに十字を切ったり、あるいは墓を十字架にしないことは、コーラを避けているのと同様に、身に着けたり使ってはならぬ・避けよという主の戒めがあるというわけではなく、そのようなアイデンティティー・風潮・文化の尊重のあらわれであるという理解で良いのですよね。



返信する
エンサインで確認できます。 (オムナイ)
2015-07-18 13:53:03
1975年当時の聖徒の道は総大会の説教を全て翻訳しきれてはいなかったと記憶しています。

後に別冊でるか抜粋が載せられていました。

https://www.lds.org/ensign/1975/05/the-symbol-of-christ?lang=eng

エンサインにはNJさん紹介の趣旨のヒンクレー長老の説教が出ています。
返信する
Unknown (Unknown)
2015-07-18 02:21:38
>ヒンクレー使徒(当時)は1975年、総大会の説教で「私はキリスト
>教会が十字架の象徴に敬意を表していることを尊重する」

公式サイトの『聖徒の道』バックナンバーを探しましたが、該当の発言は見つかりませんでした。

世の中には存在しないものを『有る』と言い張る人がいます。
また世の中には『無いという証拠が示せないのなら、存在する可能性があるわけだから、有るのだ』と屁理屈をこねる人もいます。

もし仮にそうした発言があったとしても、実はその前後にまったく別の(あるいはまったく逆の)論旨があり、そちらこそが発言者の本来のテーマであるにも関わらずそちらは完全に無視し単なる修辞として用いたにすぎないセンテンスのほうを取り上げて、ほらこの人はこう語っているぞと言う悪質な引用をする人を知っております。

このためNJ氏が提示した文章の確認を取りたかったのですが、結果としては見つからなかった、とだけ申し上げておきます。
返信する
こんな記載 (沼野)
2015-07-17 23:53:40
Unknownさん、有難うございます。ところで、お叱りを受けるかもしれませんが、lds教会の立場に近い表現を見つけましたので、引用します。

 「十字架刑の凄惨さは、それを直接的に救済の出来事として展開することを妨げたのであろう(例えばフランス革命における死刑執行の首切り台ギロチンのもつ聖餐な響きを比喩的に考えてみたらよいであろう)。[凄惨さゆえにNTで贖罪と関連して述べられることはない、と解説する。沼野]  岩波書店「新約聖書」2004年 用語解説

なお、ヒンクレー使徒(当時)は1975年、総大会の説教で「私はキリスト教会が十字架の象徴に敬意を表していることを尊重する」と語っていることも覚えたいと思います。
返信する
確認しました (NJ)
2015-07-17 23:32:49
"Sunstone speaker attempts to explain LDS 'aversion' to cross", Deseret News 2009/09/10 で確認しました。基本的に大きな改訂は必要ないことがわかりました。Reed はldsがマッケイによって制度的に十字架否定に流れが決まるまで、二極化していたと書いています。普通に今日のクリスチャンと同じように十字架を用いる人たちと毛嫌いする人たちの両方がいた、と見ています。
返信する
Unknown (Unknown)
2015-07-17 22:46:33
みなさんは多くのことを熱心に探求していらっしゃるようですが、不確かな人間の知恵や、限界のある知識に頼っておられるようです。みなさんが疑問に思うことのほとんど全ての答えは、生ける預言者の言葉を含む標準聖典の中、もしくは教会発行の書籍の中にすでにあります。

私は「モルモンと十字架」で検索して、主の預言者であるヒンクレー大管長の霊感あふれる言葉が見つけました。

------------------------------------------------
『これがその十字架です。主を拷問にかけた道具です。人の平安を破壊するように考案されたひどい道具です。主の奇跡の癒し、めくらの目を開け、死者を蘇らせた奇跡の業に対する邪悪な報いです。この十字架に主はかけられ、ゴルゴタのわびしい頂上で命を落とされました。カルバリーで死ぬばかりになっているイエスでした。墓から生けるキリストとして出現されました。十字架はユダの裏切りの苦い果実であり、ペテロの否定の総決算でした。
(中略)
キリストに従う者として、わたしたちは下品な、安物の、優雅でないものを使って、主のイメージの輝きを失わせるわけにはいきません。わたしたちが身に負っている主の名前の象徴をより輝かせるために、善良で、優雅で、寛大な行為をすること以上にふさわしいことはありません。ですから、わたしたちの行為そのものが、生けるキリスト、永遠の生ける神の御子に対する証を宣言する表現であり、象徴となるべきです。』
------------------------------------------------

十字架の扱いに限らず、あらゆる事柄について、末日聖徒は全会一致で主の預言者を心から支持します。それは主は預言者に示さないでは何事をもなされないことを知っているからです。

ゲッセマネの園で苦しみは、主が預言者に啓示として与えられたものです。みなさんは聖典を読まれていますか、教会が真実であると啓示を受けていらっしゃいますか。それをおざなりにして主に近づくことができるでしょうか。
返信する
死角 (nj)
2015-07-17 00:18:18
ありがとうございます。幾つかの記事を見て、やや急いで書いたため流れを厳密にたどることができなかったようです。出直して改訂を試みます。(気になっていたところを指摘されました。汗!)
返信する
蛇足ですが… (zoo)
2015-07-16 23:19:08
【十字架を敬遠するようになった経緯】

U+A0先ず教会が設立された時代の米国で、プロテスタントは十字架を当時信徒を増やしつつあったカトリックのシンボルとして見ていた、その自然な流れの中でモルモンも教会に十字架を掲げなかった。ただし開拓者時代の写真や遺品からは十字架が多く見られるので、十字架に対するタブー意識はなかったことが分かります。


次にユタ州の開拓者記念碑の建設時(1947建立)に起きた議論があります。当初は十字架を掲げるデザインだったのが、当時ユタ州で教勢を広げつつあったカトリックへの警戒感から、十字架はカトリックのシンボルであるとの教会内での反対が起きた。その時に起きた反カトリックは現在は消えて、反十字架だけが教会内に残っている。というのが歴史的な流れになります。

ですからその議論以前は教会内に十字架に対してタブーは無かったと言えます。教会の七十人B・H・ロバーツ長老(1933没)の墓石には十字架が大きく刻まれています。

十字架を覚え我ら今集う、胸熱く燃やす御霊を注ぎませ 賛美歌111番「十字架を覚え」より
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お帰りなさい (NJ)
2015-07-16 21:33:35
コメントありがとうございます。中国から無事にお帰りですね。ほっとする反面、寂しくもあり複雑な心境ではないかと思います。

落ち着かれたら、九州か広島で報告会のような機会が設けられるといいですね。お話しをお伺いしたいと思っています。
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十字架! (モコポリ)
2015-07-16 08:20:41
いつもありがとうございます!

バプテスマを受けて20年になろうとしていますが
しっかり学べたのは広島の7年間だけで
他はバタバタしてじっくり学ぶことができていませんでした

十字架についても「十字架はキリストの死(苦しみ)を象徴するものだから・・」と、説明を受け、すぐに受け入れました。
逆に「いつもキリストの払って下さった犠牲を忘れないように身に付けるのも悪くはないのでは・・・?」とも感じていました。
しかし、しかし戒めなので守らなければならないとも思ってきました

いつも考えるテーマを提供して下さっていることに感謝しています
宗教学者のような難しい事は分かりませんが、
盲信ではなく、自分でしっかり考え・・又、導きを頂きながらこの路を歩んで行きたいと思っています
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