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[ヨハネ17:3 がギリシャ語と英語で並記されている]
ヨハネ17:3の「知る」は原語ギリシャ語では、ギノースコーγινώσκωが使われており、その意味は「観察、経験により知ること」(神田盾夫「新約聖書ギリシア語入門」)とある。そして、ある解説付ギリシャ語辞典には、γινώσκωには知り始める発端と知識の前進、深化の過程が含意されることが多い、とある。「知るようになる」と訳せる。旧約聖書のヘブライ語yada יָדַע [視覚、触覚、聴覚によって知る]に相当する語として七十人訳に用いられている。
他方、ギリシャ語「知る」γινώσκωには同意語、oida οἶδαがあって、いずれも新約聖書で200回以上使われている。このoida は見る eido εἰδῶ [見る] からきた語で、「見ている、知識を持っている、知る」というニュアンスがある。例えて言えば、次のようになるだろうか。
Q: この人を知っていますか。
A1: はい、見たことがあります。近所に住んでいる会社員です。[oida]
A2: はい、長年の同僚で、よく家族ぐるみで付き合っています。 [ginosko]
oida は単に知覚の範囲内にあることを示す。それに対し、ginosko はしばしば知る者と知る対象との間に能動的な関係があることを示している。ヨハネ17:3の場合、ただ、知的に知ることを越え、キリストを受け入れて、つながっているないし一つとなることを目指す意味が含まれている。
なお、補足としてこの度、私は「神やイエス・キリストを知る」とは、遥かに及ぶわけがないとしても、人間としての器量、能力、人柄、苦労・経験など、相応の程度に達して初めて、この神格の両位を知り始めるのではないか、と気付いた次第である。
[補] ginosko に「知るようになる」という意味があるのに対し、oida には「知識を得ている、完全に知る」を意味する場合があり(例、ヨハネ8:55, イエスが言う「知っている」にはoida が使われている)、この同義語二語の用例は一様ではない。
参考: 神田盾夫「新約聖書ギリシア語入門」岩波書店、1956年
W.E.Vine, “Expository Dictionary of New Testament Words.” Zondervan, 1982
インターネット上のサイト http://biblehub.com なども大変参考になる
http://www.translatedmaterials-for-jpselds.com
以来、私はキリストとの関係をFAMILLIARという観点から考えるようになりました。
エマオへの旅の途中に、ルカとクレオパはイエスが隣にずっと一緒におられたのに、彼を認めることができなかったと証言している。彼を「知っていた」はずなのに?もしも、私の亡くなった父が、復活体でここに現れて語りかけてきたなら、わたしはどうだろうか・・・。と想像します彼らは霊的に目が遮られていたからだ、とはよく言われることですが、物理的な目は機能しているはずです。ここでも、いつも「知る」と言うことについて考えさせられるのです。「KNOW」には「識別する力」の意味もありますからね。
NJさんは、ヘブライ語の「ヤーダ」について触れておられます。「人はその妻エバを知った」この「知る」は「ヤーダ」です。視覚的に触覚的に聴覚的に知る、つまり肉体関係を持ったということですね。
「知る」、ありふれた言葉ですが、私たちは、聖書的には実はよく知らないで使っていることがあるのではないでしょうか。
私は、ワードで「言葉」についてよく話すのですが「重箱の隅」と思われています。「イエスは、自身が言葉だと言われているのに?」と思うんですよ。そして、「教師」はただ一人だと宣言しておられたはず・・・。
ところで、教会で会員が話をするときに、自分の主張の裏付けとしてよく「○○長老はこう言っています」と引用しますよね。コピペなんて言葉がありますけど、どんなにHIGH-AUTHORITYなかたであったとしても、それを何も検証もせずに使うのはどうかなーと、わたしは思っています。疑うんというんじゃないですよ。
『この救いについては、あなた方に対する恵みのことを預言した預言者たちも、たずね求め、かつ「つぶさに」調べた。・・・・それらについて調べたのは、自分たちのためではなくて、あなたがたのための奉仕であることを「しめされた」。』(ペテロの手紙)
言葉として発するからには、必ず責任がついてくると思うんですよね。最終的には、「イエスの言葉」の裏付けがあって、整合性があるかどうかを自分で考えてみる。それが誠実ということではないでしょうか。(決してあらさがし、ではありません)