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[Whiston 訳ヨセフス古代誌と戦記,1883年版。1830年版をHyrum Smith が所有していた]
フラウィウス・ヨセフスの「ユダヤ古代誌」は、内容が旧約聖書をたどって書いていて、大変興味があるが、どのように受けとめてよいものか答えを求めていた。最近、筑摩書房の訳本を図書館から借りて訳者秦(はた)剛平氏の解説を読んで合点がいった。
ヨセフスは紀元1世紀のユダヤ人歴史家として知られる人物であるから、その記述から貴重な情報が得られると期待されるが、私は「古代誌」を読むに際しては綿密な検証が必要であると思うにいたった。それは秦氏が「古代誌」六巻「訳者解説」で「当時の人々の聖書理解の必要に応じて、ラビによってなされたように、物語をときには卑俗に、ときには詩的に敷衍したり拡大したりしてみせた」(p. 318)と説明しているのを読んだからである。
また、サウルの生涯を描くにあたって、「ヨセフスによるその再構成では、聖書の物語からしばしば大幅に逸脱し、自由奔放に筆を運んで、新しいドラマが仕立てられている*。・・ダビデを語るときにはラビ的な注釈をも試みている」(p. 329)とも解説している。
ヨセフスは歴史の空白を嫌い、資料が不足するときには四苦八苦している、と見る。例エステル記。(p. 337)。空白があると、ユダヤ民族の苦難と栄光の歴史の値打ちが下がるからである。
ヨセフスの古代誌は聖書を読者にとって身近な存在にしてくれるけれども、今日聖書学者が同じような物語を展開することはないし、ときどき織り込む語源的説明は大半が現代では誤りとして退けられる。(例、エバの語源は「すべての生き物の母」と説明している。)
ユダヤ人の誇りをもって、自分たちに都合よく書かれ、他民族、例えばサマリア人に対する優越感・不信が現れる。今日で言えば人種差別的である(p. 332)。
*這使我們想起約瑟斯密所写的叙述。
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ユダヤ側とローマ側の妥協点であるのかもしれません。
重要な記録には違いありませんが、どの程度、信頼を寄せていいものなのでしょう?
色んな見方がありますので、真に正しい客観的な記録を見つけるのは難しいのかもしれません。
日本史を忠実に再現とか言いながらも、結構卑俗な解釈が含まれています。