ロバート・M・プライス著、"Joseph Smith: Inspired Author of the Book of Mormon"(ジョセフ・スミスはモルモン書の霊感された著者)を、「モルモン書は現代の偽典 - - ジョセフ・スミスが19世紀アメリカで霊感によって著した - - 」という題で出版しました。(2017/07/10付け)。アマゾン、楽天で入手できるのでお知らせいたします。https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4884162587/hnzk-22
せせらぎ出版
http://www.seseragi-s.com/shopping/?pid=1498808273-869119
前にペンネームで出すことを考えていましたが**、本名で出すことにしました。
*ここで言う「偽典」(pseudepigrapha シューデピグラファ) は、人々が持つ敬虔な好奇心に答えようとして書かれた側面があり、日本語が与える印象よりずっと宗教的で徳性を養うもの、正典につながっていくものとして重視されています。旧約聖書の申命記、ダニエル書、新約聖書のペテロ後書が偽典視されています。旧新約聖書66書に含まれなかった文書の一部が偽典と呼ばれています。
**2016/11/13 記事
ネット上の反応など
1
「プライス氏の研究を通して、私自身が20年以上も前に考えていた仮説について、自分が研究を怠っているうちに、ここまで詳しい実証研究の発展していたことを知ることができたのは、大いなる喜びでした。全体として納得の行く研究で、敬服すら覚えました。『研究者・学者一覧』、『背景資料』も訳者の緻密な努力の後が見えます。」(江戸川大学名誉教授 高山眞知子)。 2017.08.18
2
「一見、モルモン教に否定的な本なのかと思ったら、モルモン書を聖書学的な『偽典』とすることで、経典としてキリスト教の中で位置付けようという方向性の本なのか。」Twitter 猫の泉 2017.07.01
3
「面白くて1日で読破してしまいました。もっと辛らつな文章が並んでいるのかと思ったら、創作であろうという軸はぶれないものの、それは表面上のことであって、信仰上の価値ある存在だという認識であって、むしろ擁護的な分析であったので、少し安心できました。 モルモン書が偽典にしてある理由は、単なる一介の青年の聖書解釈本や当教会教義説明書、あるいは天からの示現で教えてもらったケースとは違い、翻訳したのだということで、内部からここがおかしいだの変えた方が良いだのと批判されることから免れるためで、申命記が創作された目的も同じと指摘されている。
モルモン書の三人の弟子が不死となった理由も説明されており、なるほどと思わせるものがありました。」教会員R 2017/07/19
4
将来の結論を見たようです
「これはキリスト教の歴史や概念を知らないと翻訳に苦労するだろうなと感じました。翻訳者沼野治郎氏は適任と感じました。そして、これはじっくりと考えながら読まなければいけない内容です。 私の頭はショートするかもしれません。
著者の考えは教会にとって、歴史上の事実から導いた好意的な結論なのでしょう。今はそうではなくとも、教会の将来にとって護教的な解釈になるのではないでしょうか?偽典という解釈はおそらくは教会が最終的に選ぶモルモン書に対する定義になると感じます。いろんな事実を重ねていくと、教会が生き残る道は、<人に信仰を持たせるために霊感を受けてジョセフが創造した書物>という形しかないのではないでしょうか?世の人がどうすれば聖典として受け止めてもらえるかということに目を向けなければ教会の発展はないでしょう。
偽典という方向性で進めば、傷は残りますが、多くの人が受け入れやすくなる気がしています。教会にとって、金版の実在についてはいつの日か、選択しなくてはならない解釈があると思います。今の線で通して内輪で固まるか?それとも多くの人が受け入れやすい解釈に訂正するか?近い将来、大きな選びを求められ、選択結果によって教会の将来が決まるように感じています。
偽典としてしまえば、金版や最初の示現にも手を加えなければなりません。幹部も少しずつ反応を見ながら、ある種の改革を進めていくことでしょう。偽典という解釈はよい方向性を持っていると感じます。」(落伍者 2017.07.15)
5
末日聖徒イエス・キリスト教会(通称モルモン教徒)にとっても、伝統的なキリスト教徒にとっても、この本の題名は受け入れ難く、多少なりとも双方の信徒に苛立ちや憤りを感じさせるものだと思う。しかしモルモン書を聖書学的にどう評価するのかという問題にあって「偽典」つまり「旧約聖書の正典、外典に含まれないユダヤ教・キリスト教の文書」という分類は間違いではないと思う。著者のロバート・M・プライスは著名な新約聖書学者。翻訳者のJiro Numanoは末日聖徒である。知的な冒険になりそうな読書だ。なお、モルモンはキリスト教ではないとの議論もあるが、キリスト教と分類されるその異端正統も含めた幅の広さを考えると、モルモンもキリスト教の一派と考えるのが妥当だと思う。
聖書学的には新旧約聖書の多くの書が、既知の預言者の名前を借りた匿名の著者によるもの、とされており「偽典」という名称は決して不名誉であったり、モルモン書の客観的な価値を下げたりするものではないと理解している。
この本の価値はいろいろあると思う。一つは学問的なレファレンスが充実していることである。更に深く学びたい人のための入門書になっている。二つめは訳者が読者の伴走者として個人的な経験や説明を多数挿入していることだと思う。学問的な結論から言えば、モルモン書は現代に生まれた、読者に霊感を与え続けている、正真正銘の「聖典」だと言うことである。(鈴木壮一郎 2017.08/12, 09/06)
本書所蔵図書館
1大阪商業大学
2大阪市立大学 村上研究室
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(2020/9/11現在。大学、公共図書館50箇所へ送付済)
ヒューマニストを自称、米国聖公会のメンバーであり、学会外の根本主義キリスト教徒と友好的である。彼はまた福音的(しかし根本主義ではない)牧師であり著作家であるグレッグ・ボイドの友人である。彼はイエスの歴史性について大勢が立会う議論を行っている。
聖書直解主義(en:Biblical literalism)に挑戦し、キリスト教へのより懐疑的、ヒューマニズム的なアプローチを論じている。彼はドキュメンタリー映画『そこにいなかった神』で史的イエスの概念を問い、初期のキリスト教徒がディオニューソスのような人気がある地中海の没して昇る救済者からイエス像を採用したと示唆するキリスト神話説の解釈を支持している。・・・
」
ロバートMプライス
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BBM%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B9
まぁ、いろいろあるんでしょ・・・
ペンネームではないとのこと少し残念;;
前回同様せせらぎ出版さんから。PDFで即読もうかと思ったら今回は紙媒体のみのようですね。
引用には便利ですが、その方が良いかもです。
私も購入いたします。
ペンネームの方がよかったですか。やはり慣れないことはできませんでした。
本当にお疲れ様でした。
ただ・・・何と言いますか・・・このサブタイトルは何とかならなかったんでしょうか。
「ジョセフ・スミスが19世紀アメリカで霊感によって著した」って。
何だかとても・・・いや、あくまで私個人の受け止め方ですが・・・「支部長」を「支部会長」と訳するような・・・ちょっと微妙な感じです。
キリスト神話説の先駆者は、1790年代のフランスの啓蒙主義思想家コンスタンタン=フランソワ・シャスブフ(ヴォルネとも、en:Constantin-François Chassebœuf)や、シャルル=フランソワ・デュピュイ(Charles François Dupuis)までさかのぼることができる。最初の学問上の提唱者は、19世紀の歴史家・神学者のブルーノ・バウアーである。アーサー・ドレフス(en:Arthur Drews)といったキリスト神話説の支持者は、20世紀前半の聖書研究に強い影響力をもっていた。アール・ドハティ、ロバート・M・プライス、ジョージ・アルバート・ウェルズといった著述家が、近年この理論を再復興させている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E8%AA%AC
http://www.jesusneverexisted.com/scholars.html
「たまWEBさん
神学は一種の学問です。研究と信仰は別に分けて考えるべきものでは、と私は思っています。・・しかし、研究者も特定の宗教が持つ価値観や生き方を尊重して実践する方が少なからずいることも事実です。」
まぁ、はじめはモルモン教の信仰にふれることでの希少存在、で、海のもの山のものともつかないところから徐々にその後の信仰のありよう、学問研究のありようなどは、ひとそれぞれで、個性にマッチした・フィットする・共鳴するところに落ち着く・・・人生って奥深いんだみたいな・・・
一方、聖書の偽典という概念を、聖人の名を借りた信仰の理解を深めるための良書であり有用な書物と考えられるタイプのモルモンにとっては、今回のプライスの著は冷静に自分の信仰を分析する良い機会になると考えている。
ただし、聖書の偽典という概念を肯定的に受け止めるということは、もう亡くなった預言者たちの言葉を紹介するインストの解説や少々古いリアホナの文章の一部をもう絶対視していないことの表明になってしまうんですよね。
「14 そしてイエスは、前に述べた群衆の子供たちをも教え導き、彼らの舌を緩められた。そこで子供たちは、大いなる驚くべきことを、実に、イエスがかつて民に明らかにされたことよりも大いなることを、自分たちの父親に語った。イエスが子供たちの舌を緩められたので、彼らは語ることができたのであった。
」(3ne26)
ともありますが、
モルモン教の信仰ではこういった各自の信仰や証しで成り立ってて、啓示や信仰といったのを、理性の力や学識からの根拠に置き換えようみたいな学者さんの学問は、信仰に基づく学問の有り様とはまた異なってはいるんでしょう。プライス博士は、キリスト非実在、モルモンはジョセフによる創作説というそういった信仰の持ち主でライフワークとして果敢に挑んできたと、まぁ、そういう話なんでしょうかね・・・
JSは、曲がりなりにも神に召されたが、教えを広める手段として、日本人的な潔白さ律儀さ誠実さよりは、19世紀のアメリカ流に、啓示を思う存分に大胆な翻訳(偽典)する手段の方を優先したんだろうという、そういうイメージですね。
正確で地味で律儀で教会が埋没して広がらないのと、不正確な口八丁で吹聴して広がるのとでは、神は後者を選ぶことがあるのかもしらんとか考える今日この頃。
では、400年で何か真実が変わったのでしょうか?
宇宙と地球の関係が変わったのでしょうか?
変わったのは、人間の知識と、信仰者の姿勢です。
現在の世の中の人は、宗教者と科学者の言い分が違った場合、どちらを信用するか?国や地域によって違うでしょうし、その事柄によっても違いますが、日本ではどうも科学者の方に部が有るようです。
それは、人々が今までの歴史や経験から、「科学者の方が信頼に足りる」と判断しているからでしょう。
又、「検証可能性」と言う事でも、事後にも誰でも客観的に検証が出来る「科学」の方を信頼するのは当然でしょう。
何より、科学者の方が宗教家より謙遜です。
宗教家も、もう少し謙遜に成れば、受け入れられるかも?
>宗教家も、もう少し謙遜に成れば、受け入れられるかも?
最近はカトリックの法王様が進化論に寛容だったりでお互い謙遜になりつつあるなと思ってます。
ガリレオさんね。。キジも鳴かずば撃たれまいに的な部分があったみたいです。
空気読めないというか、高慢というか。不器用な科学者だったんでしょうね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ガリレオ・ガリレイ
当時地動説を唱えるものはすべて異端とされ、それによって科学の発展が阻害された、という考えがされてきた。
しかし現在では、ガリレオが神父たちよりもキリスト教の本質をよく理解し、科学的な言葉でそれを説いていたために快く思われず、でっちあげの偽裁判で有罪判決を受けたのではないか、と指摘されている
ーーーー
科学で宗教を裁いてはいけないし、宗教で科学を裁いてもいけない。
そういうことなんでしょうね。
宗教を裁く目的で科学の研究をやって学者は少ないと思いますけどね・・・。
「科学が導き出した結果が、宗教にとって不都合だ」ってそれだけの事です。
ガリレオの出した地球と太陽の動きの法則が、当時のキリスト教の指導者には「不都合だった」だけの事です。
科学者は、別に宗教者に喧嘩を売ってるわけじゃない。
正しい事を言われて困る宗教者が、科学者の口を封じようとして、不当な事を行った。
はっきりいしとかないといけないのは、ガリレオの場合宗教者がその権力によって、一方的に、科学者を迫害したって事です。
当時は、双方対等の立場じゃないって事ぐらいわかりそうなもんですけどね。
但し、現代において「非科学的」って言葉だけで、宗教を批判する人が居るのは認識しておりますし、それにくみするものではない事も添えておきます。
尚ガリレオの異端裁判に関しては、バチカンの文章も少なからず公開されているようですので、ある程度の事実は分かると思いますが。
はい。一般に知られている評価だと思いますが、私は意見が違うというだけです。
こちらのサイトが良く考察されています。
https://www.nagaitoshiya.com/ja/2013/galileo-affair/
ガリレオはなぜ異端審問で有罪となったのか
・・
ローマ・カトリック教会は、最初から地動説をこのように徹底的に弾圧していたのではなかった。ガリレオに先立って、地動説を提唱したニコラウス・コペルニクス (Nicolaus Copernicus; 1473 – 1543) の天球回転論は、コペルニクスが死去した1543年に出版され、ローマ・カトリック教会の管轄下でも禁書となることなく自由に読まれていた。
地動説を提唱したことで有罪となったのはガリレオだけであり、このためキリスト教が地動説を弾圧したという史実を疑う者すらいる。・・
プライス教授ってどんな人柄なんでしょう。 純粋に興味あります。
学問的な検証を地道に重ねて、その結果ひとつの残念な結論に至った教授ってことは理解できるんですけど、だからってただちにイエスキリストへの信仰を無価値なものと判断したり、クリスチャンの友人の信仰を無駄なものと殺伐とした目で見ているのかなって、そういうことです。
別物でありながら、学問を優先に選んだ人は、強い信仰を選べなくなってしまうわけでもないような気がします。(矛盾は承知で言えばですが)
ちなみに、中世のカトリック教会が彼を有罪にしてしまった要因のひとつに、ガリレオの天動説の証明に望遠鏡が使われたそうなんですが、教皇の目の前に望遠鏡の現物がなかったために、側近の要領を得ない説明を聞いて、望遠鏡は錬金術か魔術の道具か何かと誤解してしまったのも大きかったんだそうです。
「仙台のフリーメイソンのロッジとして使われており、YMCAの集会場となっていた建物は、大東亜戦争の直前に真白く塗り替えられており、空襲の目標として使われた。
・東京が空襲されていた頃、私は銀座方面に出かけて、敵機がどこを狙うのかを確かめようとしたことがある。大本営では敵機の盲爆を宣伝していたが、実際は逆で極めて精確であり、見事な狙いだった。敵の攻撃目標を事前に察知することは、市民を被曝から守るために絶対に必要なことであった。敵機が爆撃しない地点、市民を誘導して待機させうる場所、それはいくつか予断できた。例えば、動坂の聖学院、銀座の教文館ビル、服部時計店などもそのうちの一つであった。実際、銀座の空襲直後に見回ったところ、服部ビルと教文館ビルとは無傷でそのまま残り、紙一重で両ビルの間のビルと商店街は壊滅させられていた。」
http://simple-art-book.blog.so-net.ne.jp/2011-06-16
当時の写真を見ると、教文館ビル屋上に尖塔が立っていて、これを光らせ て米軍機を誘導したのだと渡部氏は指摘している・・・
渡辺 教文館
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E6%B8%A1%E9%83%A8%20%E6%82%8C%E6%B2%BB%20%20%E2%80%9D%E6%95%99%E6%96%87%E9%A4%A8%E2%80%9D
(R)さんお先します。
http://seseragi.s369.xrea.com/ssrg/tatiyomi/tatiyomi-is258.pdf
立ち読みもかなりのボリュームあります。
電子版は税込907円!
でめきんぎょさん、丁寧な言葉に感謝致します。
沼野治郎
NJ様、適任と感じました。
そして、これはじっくりと考えながら読まなければいけない内容です。
私の頭はショートするかもしれません。
著者の考えは教会にとって、歴史上の事実から導いた好意的な結論なのでしょう。
今はそうではなくとも、教会の将来にとって護教的な解釈になるのではないでしょうか?
儀典という解釈はおそらくは教会が最終的に選ぶモルモン書に対する定義になると感じます。
いろんな事実を重ねていくと、教会が生き残る道は、<人に信仰を持たせるために霊感を受けてジョセフが想像した書物>という形しかないのではないでしょうか?
世の人がどうすれば聖典として受け止めてもらえるかということに目を向けなければ教会の発展はないでしょう。
儀典という方向性で進めば、傷は残りますが、多くの人が受け入れやすくなる気がしています。
教会にとって、金版の実在についてはいつの日か、選択しなくてはならない解釈があると思います。
今の線で通して内輪で固まるか?
それとも多くの人が受け入れやすい解釈に訂正するか?
近い将来、大きな選びを求められ、選択結果によって教会の将来が決まるように感じています。
儀典としてしまえば、金版や最初の示現にも手を加えなければなりません。
幹部もすこしづつ反応を見ながら、ある種の改革を進めていくことでしょう。
儀典という解釈はよい方向性を持っていると感じます。
その通りだと思います。言いえて妙だと思います。ただ、もう少し格好の良い表現が欲しいところですね。
隣人に渡すモルモン書の証を自分が書くとして、<人に信仰を持たせるために霊感を受けてジョセフが想像した書物>では身もふたもない感じがしますので。
もし、想像の産物であるということになれば、<霊感を受けて書かれた信仰物語>でいいのでしょうね。
いずれにせよ金版の実在が不要になってきますし、翻訳という作業も適切な言葉ではなくなるように感じます。
教会の誠実さが試される時期です。
信仰の為に事実を隠せないようになってしまいました。
モルモンは<真実を求める人々>というより<信仰するという行為を愛する人々>だと感じます。
自分の中ではTBMの方に対してはそのようにとらえています。
真実より信仰を重んじるのであれば、<人に信仰を与える書物>はフィクションであっても聖典として受け入れられると考えます。
となるのでしょう。
自分の感想としては、そのようになっていくという気持ちが強いのですが、もし現状維持でいくのであれば、これから先、改宗者は激減するのではないかと危惧しています。
早速、書評の第一号をいただいて感謝致します。
モルモン会員的には良い落とし所を見つけたつもりだろうけど、やめておいた方が良いと思うなぁ、「人に信仰を持たせるために」って部分ね。だってジョセフの意図やら心中はわかんないでしょ?ジョセフのバイオグラフィーが研究されて、彼の本心はどうも違うらしい、実は金儲けだったらしい、となればどうすんの?実際そう言う見方をする歴史家もいるんだよね。モルモン教会員としてジョセフに夢を見たい気持ちは分かるけどさ。あまり期待し過ぎるとまた裏切られるよ、モルモン書が実際の歴史だと信じてたのにそうじゃなかったと知ってショックだったことはもう忘れちゃった?また同じ気持ちを味わいたいならそれも良いけどね。
だから提案だけど、モルモン書はジョセフが書いた創作物、そんだけ。これで良いじゃないかな。後の受け止めかたは個人の自由。ただ私はそこから色々学んだので聖典としています、って言う方がスッキリ潔いと思います。実は私は何年も前からそうしてるのね。そうしたら知恵の言葉だの、安息日だの、指導者に従うだのくだらない束縛から解放されますよ。もちろん束縛されることで信仰を感じる人もいるのでそう言う人には無理に奨めません。
今回、こういう話題が出たのでちょっと書き込んでみただけ。ではでは (^-^)/
人をイエスキリストの元に導くために書かれた、ジョセフスミスの啓示の書
最も重要な部分を強調して、さらにジョセフスミスの啓示だったということで決定でしょう。
モルモン書は真実です、教会は真実です、だから従うしかないのです、というのが私らの若いころ教えられたモルモン論理ですが・・・
まァ人に信仰を持たせるためかキリストに導くためかわかりませんが、活発会員が20%以下という現実から考えるとあまり成功していないような・・・???
皆さんは捨ててないと思いますよ。
もともと持って無かったんですから・・・たぶん・・。
持ってたらさ、「裏切られた!」とか言うはずでしょ?
そんなこと言うのは、あらんどろんさんと豚ぐらいです。
>モルモン書は真実です、教会は真実です、だから従うしかないのです、というのが私らの若いころ教えられたモルモン論理ですが・・・
教えられたって、無視してるから関係ないんでしょうね?
ただ、ジョセフ自身も吐露しているように自分が体験していなければ信じられないだろうと言っているように、信じられない人、信じたが裏切られた気持ちになる人もいるだろうなとは思います。
リベラルな信仰の情報が事実として信じられない人、信じたが裏切られた気持ちになった人の福音になり得るなと感じます。
俺、全然感じない。
なので巻末の語句の説明は助かりました。
私の信仰はやや保守よりなので偽(にせ)という字をあててあることで、アレルギーを起こす会員も多いかもと心配に。
しかし読めば「あれ?」と思うこと請け合いです。
このような視点のモルモン関連の日本語書籍は唯一無二です。
日本人は神様が高天原に降り立って云々という神話にも実利を見いだせる民族、聖書にもモルモン書にもファンタジーの要素があったにしても「ありがたさ」と真理を見いだせる。そんな気がしました。
後半の
>モルモンのキリスト教は、単に原始キ リスト教への復帰やその回復なのではなく、もとのキリスト教を改善するものなのである。
が作者の「結語」を除き特に印象に残りました。
>そんなこと言うのは、あらんどろんさんと豚ぐらいです。
そうねぇ・・・まァ、真実だと思っていたらそうじゃなかったと言う意味で、裏切られたのは私も豚さんもNJさんもオムナイさんもみんな一緒なんですよ。それでも真実だと言い張る人は放っておいて。だから私はその点で怒ったりはしないんです。
けれど、例えばジョセフ・フィールディング・スミスが「進化論は福音と合致しないから誤った人の考えである」と言った教会書籍を翻訳して生活してきた人が、「あれは彼の個人的な考えなんですよね、彼は保守的なんですよね、教会は進化論を否定も肯定もしていないんですよね、会員の勝手な思い込みなんですよね」なんてことをしれっと言い出すと、口にできない感情が沸き起こることはありますねェ・・・
特に「会員が勝手に思い込んだ、会員の勘違いだ」的な発言ですかねェ・・・