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聖書の読みづらさ [付] : 本文の問題

2014-09-29 00:06:01 | 聖書
[十戒の一部が記されている]

少し前に「聖書の読みづらさ」と題して2回記事を掲載したが、今回の投稿はその(1)の7) で触れた学生の声、「詩文はストーリー性がなく、断章が順不同で並べられていて、読みづらい。(詩篇、イザヤ書など)。多様な主題の詩が並んでいて、意味を読み取ろうとしても途方に暮れることがある」という問題に関連する。

1 それは最近岩波文庫の旧約を注と合わせて読んでいて気付いたことであるが、伝わっている聖書の本文が壊れていたり、ところどころ僅かでも欠損箇所があったりして、七十人訳やウルガタ聖書を参照して補われているという点である。現代人は聖書を古典として、端正にできあがった文書と思いがちである*。しかし、例えば紀元数世紀になって書かれたナグ・ハマディ文書でさえ、手に取って見ると、カッコで文を補った箇所や空白がところどころあって読みにくい。「マリアの福音」(The Gospel of Mary) では冒頭の6節が欠けており、後半で4ページが抜けているという具合である。「ピリポの福音」(The Gospel of Philip)や「ヤコブの典外書」(The Apocryphon of James)などでも欠損箇所や補われた所が少なくない。紀元後数世紀たって書かれた文書ですらこのような状態であるから、それよりずっと昔に遡る旧約聖書においておやということになる。壊れた、あるいは不完全な本文は当時の編集者や書記にとっても困難をもたらしたことであろう。それが所々今日の現代語訳聖書に異なった本文となって現れている。

2 上記に関連して、聖書の文書は編集される際、口伝や他の資料が収集され記録されたが、時に前後のつながりが不自然で分かりにくい所が残った。後に聖書となった文書は断片が組み合わされ、更に後に付加されて出来上がっていく。複数の断片がつながるとき、まとまりが感じられず、読者が苦労することが生じる。例、ミカ4章。

3 そして詩文にしばしば見られる、異なるテーマの小段落や断片が、必ずしも論理的とは言えない思考(著者あるいは編纂者の心中に生じたもの)でつながっている場合、読みにくさが生じている。関根正雄はホセア2章、イザヤ5:8-24などにその例を見ている。

上の問題を軽減して聖書を少しでもよく理解しながら読むには、多くの現代語訳聖書が文書の解題や本文の段落毎に見出しを書いてくれているので、それを参考にしながら読むことである。新共同訳聖書は見出しを割合い丁寧につけてくれているので重宝である。

注* それはマソラ学者たちが旧約聖書のマソラ(伝承)を収集し整えたマソレテ本文があるおかげである。これは7-11世紀にかけて完成されている。しかし、それは極めて慎重に行われた総仕上げ版とは言え、かなり時間が経過しているので、現代語訳聖書はさらに七十人訳、サマリア五書、ウルガタ聖書などを参照し、それを本文に反映させて翻訳出版されている。

参考
関根清三「旧約聖書 VII イザヤ書」岩波書店 1997年
関根正雄「旧約聖書 イザヤ書」1965年、「十二小預言者、上下」1967年岩波文庫。
James M. Robinson, Gen. Editor, “The Nag Hammadi Library.” Harper & Row, 1977

本ブログ記事
2014/06/05 聖書の読みづらさ(一)青年たちの声
2014/06/05 聖書の読みづらさ(二)聖書学者大貫隆の提案


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2 コメント

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「あなたのお父さんは死んでいない」 ()
2014-10-02 11:01:34
「あなたのお父さんは死んでいない」と言うのは、インチキ占い師の笑い話に出てくるもので、まったく初対面の人に、こう言うと、それは必ず当たっている。(笑)

預言の書等と言うものは、この言葉と同じで、読む人によって何とでもとれるように出来ている。

だから、イザヤ書も何が言いたいのかよく分からないことが現代まで預言書として残った所以だと思う。

ジョセフは、特にユダヤ書が好きだったようで、モルモン書にも多く引用され、モルモン書を予言したという部分もユダヤ書の中にある。

うまく利用したと言う事では、ジョセフだけではなく、初期のキリスト教の指導者も同じかと思う。
メシヤに関する預言だとされるものがそれで、そのおかげで、この意味不明な文章が何千年も伝わることに成ったのだろう。

そもそも、預言は、はっきりしないことに意味が有るわけで、個人や人類の将来がはっきり解ってしまうと、生きてても面白くない。

大きな災害が有ると、必ずと言ってよいほど、「この書物に預言されていた・・」と言う話が出てくるが、それなら、「災害の前に言え!」と突っ込みを入れたくなるのが、私のような人間だ。

今日死ぬかもしれないが、100年先かもしれない。
それが人生の面白さであると思うが、それでも、先の事を知りたがるのは、人間の性(さが)なのでしょうね。

何千年も預言の書として残るのは、そのすべてが成就されてないからだと思います。成就されてしまった予言なんて、意味がない。

災難と言えば、この意味不明の文章を読んで、説明しなければならない、教師でしょうか?
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イザヤ書、災難でなく幸い (NJ)
2014-10-03 07:38:59
イザヤ書、今読んでいます。関根清三訳「イザヤ書」(岩波書店、1997年)を図書館から借りて日曜学校の進度に合わせて精読しています。関根氏は関根正雄の子息で、多分、最も読み応えのある(最新の聖書学を反映した)ものではないかと思っています。

イザヤ書の本文について、父親の解説より淡泊ですが、注がつけられていて、この記事の確認になっています。
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