以下、箇条書き風ですが、最近数カ月のコメントを見て私の望むところを記してみます。
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モルモン書など聖典や教会の教え、そして教会のあり方を批判的に(critically)見ることは問題ありません。
JSの見神やBofMの歴史性(historicity)に疑問を感じて、信じられなくなった人の落胆や裏切られたという思いには同情を感じます。その気持ちはよく理解できます。
ただ、教会の持つ積極的な影響などから、また知人、友人、身内などのいる共同体に留まることを選んでいる人たちもいます。それで、脱信仰の心境にある人は「真偽の判断を一時おいて」、相手や場をわきまえて発言するのが良識的な生き方だと思っています。
特定の宗教を是認・擁護することも否定もすることもなく、その宗教や教えをまた社会における存在意義などを吟味する宗教社会学の視点で臨みたいものだと考えます。
「真偽の判断を一時おいて」suspend judgment を説明した画像。
左の鳩:suspend judgment を言い換えると?
右の鳩:寛容になる、相手の身になる、理性に耳を傾ける、恩恵を与える目で見る、両側面を見る、心を広く持つ。
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関連して
[最近出版された参考文献を紹介します]
1「モルモニズムの基礎をなす文書: 主要な初期文書を検証する」、教会歴史部門職員、ジョセフ・スミス文書事業文書係編。2018年。オックスフォード大学出版。
モルモン書の本文批評、ジョセフ・スミス訳の批判的分析、教義と聖約の生成についてなど、13章。
2「モルモン書に対するアメリカ研究者の見方」、エリザベス・フェントン(バーモント大教授)、ジェレド・ヒックマン(ジョンズホプキンス大教授)編。2019年。オックスフォード大学出版。
地中に埋められた書に対する19世紀米市民の憧憬(どうけい)、アメリカはイスラエル(選民)で新大陸は約束の地、モルモン書はアメリカ版「歴代誌」(偽典)など、17章。
3「旧約聖書の生成: 創世記 - 申命記」デビッド・ボコボイ著。2014年。グレッグ・コッフォード出版(ソルトレーク市)
末日聖徒にモーセの五書の資料説を紹介し、創世記から申命記を批判的に読むことを勧めている。またモルモン書、モーセ書、アブラハム書に高等批評を適用すればどうなるかを書いている。ジョン・ウェルチが好意的序文を寄せているのが目にとまります。
以上の英文書名
1 “Foundational Texts of Mormonism: Examining Major Early Sources,” edited by Mark Ashurst-McGee, Robin Scott Jensen, Sharalyn D. Howcroft, Oxford University Press, 2018.
2 “Americanist Approaches to the Book of Mormon” edited by Elizabeth Fenton and Jared Hickman, Oxford University Press, 2019.
3 “Authoring the Old Testament: Genesis - Deuteronomy” by David Bokovoy, Greg Kofford Books, 2014
*取り上げる余裕がありませんでしたが、Mormonism の分析に intertextuality (間テキスト性), narratology (物語り論) が係わってきます。
・・WHO(世界保健機関)の報告書でも、
「日本内外の一般住民への予測されるリスクは低く、識別できる自然発症率以上の発がん率の増加は予想されない」と結論した。
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wiki
福島の津波で亡くなった人は何人ですか?
被害の中でもとりわけ人的被害は、死者18,131人、 行方不明者2,829人という甚大なものとなった1)。
住家被害については、全壊約12万9千棟、半壊約 26万5千棟、
一部破損約74万3千棟、津波による浸 水被害が約3万6千棟に及ぶなど広範囲に多大な被 害が発生した1)。
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東日本大震災の時、首都高速にいて、やけに揺れるなー。程度でしたが。
結局夕方に出て家に帰り着いたのは深夜2時。
日本はもうダメだ。と疎開する人々も多かったと記憶しています。
津波による事故ではあるけど人災の側面があるのはわかるけど、自然災害(津波)の死者の方が遥に多いのに、
過剰に金をかけすぎな面もありますね。
住民から「絶対に原発は安全なんだな。」と詰め寄られ
あるべき避難対策がなおざりになっていた気がします。
何度か環境系の住民説明会に出たことありますが、罵詈雑言当たり前な世界。
私はどちらかというと東電に同情的です。
最善とは言えないかもしれませんが、待ったなしの状況でよくやったは思ってます。
なので、トリチウムの件は問題の核心(汚染水がで続ける)から目をそらせるように感じられて残念。
日本のODAもそう言われてましたね
心を痛めていた。地震発生から数日経った頃,原発の一部は「空炊き」状態で緊急に「冷やす」ことが求め
られており,ヘリで上空から散水したり消防車から放水するなどの策が講じられていた。実は,中国・三一
重工では 72 m の高さまで生コンクリートを圧送できる機械を作っている。「我が社の機械ならピンポイン
トで原子炉に注水できるのではないか」と何人かが思った。
いち早く行動に出たのは日本法人(三一日本㈱)の営業担当者である。彼は東京電力㈱本社を 3 月 18 日
の朝訪問し機械の説明を行った。するとその日の午後,「機械を購入したい」との意向が示されたので,彼は
その旨中国の本社に伝えた。関連部品を含めると約 1億円の費用を要することになるが,会長は「直ちに無
償提供しよう。時間と闘え!」と即決を下した。この鶴の一声で現場は大発奮した。幸い工場には 62 m の
機械の在庫が 1 台あったので,その日の内に日本向けに改造し送水テストを行い,翌日には工場関係者と地
元メディアの声援に送られて出発した。
52 t の巨大な自走式機械は湖南省の工場から上海までの陸路 1,000 km あまりを運転手たちが交代で一昼
夜かけてノンストップでひた走った。通関に 1 日。船は 22 日に出港,2 日後に大阪港に陸揚げされた。一
方この頃,東京電力本社では,東京電力・日本赤十字社・三一日本の間で寄贈式が執り行われた。
大阪港には,中国の工場から派遣された 3 名の技術者が待機していた。彼らは通関を手伝い,簡易通関を
2 時間で終えた。大阪の取引先が重機の自走運転と部品運送をボランティアで引受けて下さった。燃料不足
に備えて途中給油拠点の確保,通過する橋梁の強度やトンネルの大きさのチェックなど重機輸送のための事
前準備も並行して行われた。パトカーに先導されて,名神・東名を走り,その深夜には千葉県のトレーニン
グセンターに到着した。
そこは大手レンタル会社㈱カナモトにより,作業員の方に重機の操作方法を指導するようにと今回無償提
供された場所である。大型機の実機操作ができる十分な広さがあるのが有り難い。派遣されていた 3 名の技
術員は,ここでは,操作指導に当たった。通常なら 3 ヶ月を要するトレーニングであるが,要請で 2 日間に凝
縮した。一旦現地投入されたらメーカの技術者が機械にタッチするのは難しい。全員真剣勝負で特訓に取り
組んだ。この間に,噴射圧を高め噴射距離をさらに伸ばすために 5 m の延長ノズルを取付けたり,電気メー
カの協力でカメラを装着したり,放射線測定装置を取り付けたり,リモコンを 1 km 離れた場所から操作で
きるように改造したり(標準は 150 m),さらに各種テストも実施された。かくてポンプ車は 27 日朝千葉
を出発し,午後 13 時 45 分に原発現場に無事到着した。
実に 9 日間で中国内陸部の工場から福島に引渡されたことになる。注水だけでなく,原子炉を近距離撮影
したり放射線測定したり多目的に役立てている。長い首の先から注水する機械は大キリン作戦と名付
けられ,日本だけでなく中国でも新聞・TV で広く報道され,東京電力社長から感謝状を頂いたのを始め,
日本各地から様々の形で感謝のお言葉も頂いた。今回の寄贈が迅速に行えたのは,社内でトップおよび
各担当者が一致団結してそれぞれの役割を果たしたこともあるが,通関・交通など特別の配慮を下さった両国
の行政機関や各界関係者など,多方面の方々が心を一にして率先して協力を頂いた賜物であると考えている。
日本の危機を救うため,また日中友好のために,いくらかでも貢献できたことは誠に嬉しくもあり,誇りに思う。
ただ,トレーニングが規定の時間より大幅に短かったことや,放射能の影響など未知の不安材料もあるが,最
後まで無事役目を果たすことを祈る次第である。
」https://jcmanet.or.jp/bunken/kikanshi/2011/05/062.pdf
中国・三一重工 ポンプ で検索
>三一重工社長の梁穏根氏から「日本の被災地に寄贈します」と驚く答えが返ってきた。1億5千万円もするコンクリートポンプ車を無償提供したいとの返事だった。
これって、絶好のビジネスチャンスですよね。
日本に売り込めるし、世界に売る時も、「福島の原発事故の時に無償で・・・」
こんないい宣伝はほかにない!!
1億5千万ぐらい安いもんです。広告宣伝費。
>プーチ大統領は日本の電力不足を心配して速攻で液化天然ガスを届けてくれたし
これもね、ロシアは日本の技術と資金で天然ガスを開発したかったし。 日本にも売り込みたかった。
どちらも、商売上手ですね。
ウクライナへの武器兵器供与も、裏から見れば、武器の実験と宣伝になります。
武器や兵器は開発しても、実際に使うことはほとんどない。
最新鋭のものは、持ってても、本当に実践効果があるのか?証明できない。
軍事産業の企業は唯でも使ってほしいのでは?
あれ?
その通り!!
環境の大家、武田邦彦さんの意見に賛同します。
日本人の頭が痺れてる。。と手厳しい。
https://www.youtube.com/watch?v=rowgdws_iD8
>信頼性はもう放棄してると思いますが・・・。
そっすね。信頼性とか、あまり考えないタイプですw
まぁ、批判にしろ擁護にしろ管理人(NJ)さんから注意を受けない程度に議論すれば良いのかと。
その点師匠のバランス感覚素晴らしい。
もしかしてオムナイ。。過剰な擁護者と映っているのでしょうか。。
ごく普通の末日聖徒なんですけどねぇ。
私もテレビで見ていましたが、最初に投入されたポンプ車は日本の建設会社の所有車だったのでは?
>三重県四日市市の中央建設(株)や岐阜県恵那市の丸河商事(株)等が保有していた計4台のコンクリートポンプ車が原発の冷却作業への協力のために提供された。その後、中国の建設機械会社からもコンクリートポンプ車が無償提供された。https://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h22/hakusho/h23/html/k1111c00.html
そもそも、あの状況で中国から送ってくるのに何日かかったか?
もちろん、中国からの援助は感謝すべきものだとは思いますが、少し正確性に欠けるのではないかと思います。
それと、恩を受けたことと、その恩人が行ったこととは別の話ではないでしょうか?
私も、昔やくざに飯をおごってもらったことがあります。
でも、その人がの行いがどれも正しいとは思いません。
恩を受けたからこそ、正しい意見を言ってやるべきじゃないでしょうか。
(やくざには怖くて言えませんけど)
それにしても、中国ってなんか合点がいかない。
私は処理水(汚染水)海洋放出反対なんですが、今回の中国の対応にせいで、反対だって言いにくいです。
なぜ反対かっていうと、汚染水が出続けることに関してほとんど説明がない。
まずは汚染水を止めること。
もう一つは、アルプスって信用できるの?って疑問です。
トリチュウムの測定結果ばかり言ってるけど、他のものはどうなの?
除去した放射性物質はどう処理するの?
蛇足ですが、いまだにわからんのは、政府が言ってる「海水で薄めて基準以下にして放出」
海水で薄めるのなら、そのまま海に流せばいいんじゃないの?
勝手に薄まる。
」
https://cocorofeel.blog.fc2.com/blog-entry-25366.html
そりゃそうですね、で、ちょっと考えてみましょうよ
・モルモンは異端である
・当教会はモルモンやエホバの証人とは一切関係ない
こう言うキリスト教会の姿勢に対して、モルモン会員は、酷い物言いだ、迫害だ、って激怒するじゃないですか
これについて立場を逆に考えたことあります?
私らの教会は、他の教会に対して
・神がすべて間違っている
・神の目に忌まわしい信条である
と言う啓示を受けたところから始まってるんですわ
こんな啓示を信じていてキリスト教会から信頼されると思いますか?
まぁ以前ヒンクレー大管長は、この啓示について「他の人の前で語る必要はありません」なんて賢しいことを言ってましたが、皆さんはどうお考えですか?
私はジョセフ・スミスの最初の示現は『間違い』と申し上げます、これは捨てるべき間違った教義です、私はそう理解しています
まったくそうですが、その逆もありますので気をつけましょうね。(過剰な擁護)
オムナイさん
信頼性はもう放棄してると思いますが・・・。
>教会の資産や稼ぎから見ると、安すぎますね。
https://www.quora.com/Do-general-authorities-pay-tithing
預言者、彼の二人の評議員、そして12使徒は残りの人生を主に仕えるために捧げました。
彼らはそれぞれ使徒として召されたとき、奉献の律法を実践し始めました。
つまり、彼らはすべてのお金と資産を教会に寄付したということです。
次に、教会は彼らの経済的ニーズをすべて満たします。まだ家で暮らしている子供たちのニーズさえも。
ーーーー
これが本当だとすると、教会に寄贈した資金から生活費が出ているだけのような。。
不必要な非難や罵詈雑言はその発言者の信頼性を損なうことになりますので、いついかなる時も冷静な書き込みが大切だと考えます。
私自身はもう喰い付く力も残っていないですが、ある意味、脱力して教会を見ているほうが、正しい見地を身に着けられていくと感じます。
教会員と批判者が穏やか~に話せる時代が来るといいですね。
棚上げに出来ないこともあるでしょうが、教会の誤謬は世論が充分に判断してくれています。
過去の問題を是正できる時まで、待ってあげようと上から目線で過ごしています。
会員は批判的な意見を疎むことが常ですが、できることならもう少し視野を広げたほうがいいとは思います。
日本もやがて熟成した交流ができるようになることでしょう。
個人レベルでは良い関係を構築で来ている人もいると思います。
本当の金持ち(富豪)になると、物欲はなくなるらしいですよ、いつでも買うと思えば買えるから、らしいです
それより亀持ちは経験を求めるのだとか、だから沈没したタイタニック号を見に行こうと潜水艦ツアーなんかに参加したりするんですね、まぁ事故で数名お亡くなりになりましたが
教会の資産や稼ぎから見ると、安すぎますね。
年収10億以上有ってもおかしくない。
それに預言者だから、宝くじの当選番号もわかるんでしょ?
死にかけになって、金もらっても使い道ないよ。
毎度同じ事書くけど、立場上散在して遊ぶわけにもいかないしね。
ま、貧乏人のひがみかもな・・・。
教会が経費として支払うので無料ですね
ちなみに地域大会やステーク大会に参加のための飛行機はファーストクラスで、宿泊するホテルも最上級ですよ
でも大会後のお昼は、地元の扶助協会の姉妹たちによる手作りランチを食べて、愛してますアピールです
そうそう、食事の後のペットボトルは生ける預言者の模範に従って、クシャっと潰すらしいですよ(笑)
金額は定かではありませんが、教会幹部たちが什分の一を納めていないのは事実です
彼らには「収入」はなく、「生活費」を「援助」されていると言うことになっていますので
まぁ政治家や官僚にとっては税金は納めるものではなく、国民から集めるものと思ってる、そう言う感覚に近いんじゃないですかね
行ければ嬉し
日・月・星
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>具体的に自分が何を望んでいるか?が問題です。
意外とモルモン書には天国的来世観はなくて、「天国」のワードは出てきません。
日・月・星の栄光(1コリント)など末日聖徒の世界観は新約聖書の解釈によっているみたいですね。
前世の教義もそうですが、拡張された永遠視点の世界観、とても気に入ってます。
「救い」という抽象的なものを求めるから答えが見つからない。
具体的に自分が何を望んでいるか?が問題です。
どこが自分が居たい場所なのか?
何を自分は欲しいのか?
天国というのは、結局「人間の欲望を叶えてくれる場所」だと思います。
欲望を捨てての天国なんてありえない。
ただ、「金が欲しい」「美味い物が食いたい」「楽しく暮らしたい」と言う欲望もあれば。
「良い人間関係を持ちたい」「誰もが自由で幸福に成って欲しい」「平和で有って欲しい」と言う欲望もある。
♪ 天国良いとこ いちどはおいで酒は美味いし ねーちゃんはきれいだ wa wa wa ♪
エアコンのきいた事務所で仕事して、アイスでも食ってたら天国ですね~。 外の地獄には出たくない!!
・・・・ってわけにもいかないか???
彼は極悪の環境の中で生まれ育ち、そこで暮らしていた。
薄暗く、じめじめして、ゴミだらけ。食べ物のかすが散乱し、何とも言えない匂いが漂っている場所だった。
そこに天使が現れた。
天使は彼を憐れんで助けることにした。
天使は、彼を清潔で明るい場所を彼に提供した。
さらに、彼の身を清めその場所にふさわしくしようとした。
彼は叫んで言った「お!俺を殺す気か!!!」
彼はゴキブリだった。
天父の憐れみって全ての人に及ぶものなのでは?
どうして「希望を持ち続ける人には」との条件必要なのでしょうか
>本当にそれを求めているでしょうか。
・・・
>希望を持ち続ける人には天父の憐れみが及ぶのです。
共感します。
キリストが救い主であるという信仰と救われるという希望。
それは神と隣人への愛という動機に基づいていないければならないのでしょうね。
天上の大会議でサタンは
全人類を贖って一人も失わせないようにしますから、私(サタン)を神にしてください。と言いました。
対してキリストは
天父の御心が行われ。。とだけ言い。ご自分の栄光を求めませんでした。
確かに目標は「昇栄」ですが普段の信仰生活であまり意識してはいけないかなと。
私を愛するなら私の戒めを守るべきである。(新約のどこか)
それが「昇栄」するなら戒めを守るべきだにならないように気おつけたいですね。
× そのブラインドが欲しいだけでしょ?
↓
○ そのブランドが欲しいだけでしょ?
日本でクリスチャンと言う言葉には、清廉潔癖で信仰篤く立派な人と言うイメージがあるから、そのブラインドが欲しいだけでしょ?
そのイメージを作ってきたのはモルモン会員がしばしば当てこすりや揶揄して冷笑しているカトリックやプロテスタントですよ
モルモンって言葉のイメージが悪くなってきたので、教会のトップ自らが、モルモンやめて末日聖徒って言いましょうってなぁ・・・モルモンの泉に集まってバプテスマ受けたって精神はどこ行った? モルモン書はやはり作り話だなって思うわけです
まぁ伝統的キリスト教のお情けをいただいてモルモンがクリスチャンを名乗るとしても、最低限ジョセフ・スミスの最初の示現は捨てなきゃですね、他の教会に対して全て間違っているだの、神の目に忌まわしいだの、あり得ないですよね、そんな示現を事実だと言いながら私らもクリスチャンでござ~い、ってどういう神経してんだよ、って思います
モルモンあるいは末日聖徒はクリスチャンですって話題が出てきたら、この話はいつも繰り返したい
伝統的キリスト教と「救い」について議論すると噛み合わない時があります;;
>末日聖徒イエス・キリスト教会では、日の栄光の最高の状態を受けることを「昇栄」と言っており、(佐久間兄弟)
末日聖徒の場合、多くは来世での天国について「救い」が念頭にあるのですが、
伝統キリスト教の場合
https://seishonyumon.com/question/409/
キリスト教で言う「救い」とはどういうことですか。
・・・
イエス・キリストに信頼を置く必要があります。
これが信仰による救いです。・・・
「あなたは救われていますか」と問われて、「はい」と答えることのできる人は幸いです。
あなたもぜひ、そうなってください。
ーーー
と言うようにむしろ「回心」に近いのかなと。
wiki回心(かいしん、英: conversion)は、神に背いている自らの罪を認め、
神に立ち返る個人的な信仰体験のことを指す。
末日聖徒で言えば
https://www.churchofjesuschrist.org/study/manual/gospel-topics/salvation?lang=jpn
救い」という言葉には,様々な意味があります・・・
再び生まれる
悔い改めてバブテスマと聖霊の賜物を受け,イエス・キリストの御名を受けるという聖約を交わしていて,
主の影響を生活の中で感じている人は皆,新たに生まれているということになります。
この再生は毎週の安息日に聖餐を受けることによって更新することができます。
ーーーー
と言う「救い」の意味なのでしょう。
このように翻訳して解釈すると、
「あなたは救われていますか」と問われても
「はい」と答えることができる末日聖徒は多いでしょう。
なので末日聖徒はクリスチャンですか?「はい」
それって誕生日プレゼントとは何でしょうか、と言うくらいにナンセンスな質問かもしれませんよ
いつも誕生日プレゼントをもらっている子供にそんな説明は不要です、もらったことがない人には丁寧な説明が必要かも知れません
しかし逆に言えば、その人がキリストによって救われたクリスチャンなのかどうかの試金石だと思います
はい、それはわかりますよ
今の若い人は、定年までこの会社で働こうって意識はかなり低いみたい、でもそれは企業側も正社員採らなくなって、社員をただのリソースとしか考えなくなってきた反動かもですかね
>教会が無ければ青年会には入らなかったかな。
教会が地域社会に奉仕しましょうって教えてるんで青年会に入るって、普通に考えておかしいですよ、モルモン教会に長年いるとそう言う風に感覚がズレていくんですよ
>西欧の「安息日は家族揃って教会へ」的な文化を模倣しようとすると難しい。
いやぁ、そんな文化はもうとっくに廃れてますよ
詩篇9:1
わたしは心をつくして主に感謝し、あなたのくすしきみわざをことごとく宣べ伝えます。
昔、リグランド・リチャーズ長老の「奇しきみわざ」にこんな感じのことが書かれていました。
(救いに関して)正統派の最大の間違いは天国と地獄だけしかないことである。
善人と悪人の差はなんであろうか。
行いの程度に応じて救われるのであれば様々なレベルの神の住まいがなければならない。的な。
ーーー
甲子園に行けるのはごく一部の高校球児。
優勝するのはそのまたごく一部。
しかし、甲子園優勝という栄光を目指すことで多くの高校球児たちは成長している。
昇栄や日の栄はそういった側面もあるのかなと。
いわば「ニンジン」でしょうか?
あ、わたくし「ニンジン」大嫌いですw
僕らの頃はまだまだ企業戦士的風土があって「仕事」が最優先だったかな。
それでも生活ギリギリw
教会が無ければ青年会には入らなかったかな。
西欧の「安息日は家族揃って教会へ」的な文化を模倣しようとすると難しい。
2世、3世の日本の末日聖徒は社会風土の変化もあって、
優先順位の付け方が上手ですね。
ビショップリックでも「今日は娘のピアノの発表会」とか、
「マンションの管理組合で」とか普通に欠席しますもんね。
タッドバッチさんのようにジャグリングとまではいかなくても、
お手玉5個ぐらい回している感じ。
オムナイはせいぜい3個だったかも
家族と仕事と教会と。。地域社会との付き合いが浅かった。
末日聖徒イエス・キリスト教会の公式な情報源である聖句ガイドによれば、
「肉体の死と霊の死から救われること。…」大切ではありますが、大枠すぎて
少々イメージがしにくいように思います。各々で追求すべきということでしょうか。
霊の死を聖句ガイドで引くと、「神とその影響からの分離。義に関する事柄に
ついて死んだ状態になること。…」以後霊の死についての具体的な説明が
続きますが、この項はあくまで霊の死についての解説であって、救いについての
解説ではありません。
変わって聖書から。「日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。
また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。」
末日聖徒イエス・キリスト教会では、日の栄光の最高の状態を受けることを
「昇栄」と言っており、教会の集会ではよく聞く言葉です。
「私たちは昇栄を目指していますが…」という風に。
故新山靖雄長老も何度か長老定員会で教義と聖約132章19-20節を
引用されていました。昇栄を見据えて、逆算して今何をしなければ
ならないかと教えておられました。
しかし私たちは昇栄について何を知っているでしょうか。教会員との交わりの
なかでもほぼ聞いたことがありません。そもそも、私たちは救いについて
何を知っているでしょうか。本当にそれを求めているでしょうか。
新約聖書をひも解くと、天国というところがどのようなところであるのか、
というよりは、天国に入るために何が必要かというヒントが得られます。
それはイエス・キリストが肉体と霊の不完全さを克服できるようにしてくださると
信じ、それをバプテスマという形で天父と人との前で明らかにし、
最後まで耐え忍ぶという以上の具体的なものです。
「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのを
とめてはならない。天国はこのような者の国である」
幼な子の純粋さ、素直さのような特質を身につけた人が集まる場所のようです。
「あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの
間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらに
なりたいと思う者は、僕とならねばならない。…」
人を使役することに喜びを感じるのではなく、人に仕えることに喜びを
感じる人が集まる場所のようです。
『あなたがたによく言っておく。私の兄弟であるこれらの最も小さい者の
ひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』
弱い立場にある人、助けが必要な人に対して、憐れみを示してきた人が
集まる場所のようです。
『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』
他の人の成功をあるいは喜びを自分の喜びと感じられる人が集まる場所のようです。
「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、
その首をだいて接吻した。」
他の人の欠点や罪も抱擁できる人が集まる場所のようです。
ただし、これは罪を許容するという意味ではありません。悔い改めは必要です。
「よい羊飼は、羊のために命を捨てる。」
他の人のために自分のなにかを時に大切なものを犠牲にできる人が
集まる場所のようです。
「信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を
売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。」
モノ・カネへの頓着・執着をなくした人の集まる場所のようです。
上記は私の知識の少なさと字数の関係上、天国にいて心地よいと感じるための
ふさわしさ・身につける必要のある価値観の一部を列挙したものです。
モルモン書を読まれた方ならば、同じ教えがモルモン書の中でも説かれている
ことをお分かりいただけるかと思います。
聖書には天国にいて心地よいと感じるためのふさわしさ・身につける必要のある
価値観がなければ、天国からは追い出されると書いてあります。
一方、モルモン書ではふさわしさ・身につける必要のある価値観を備えずに
天国に入ったらどうなるかが書いてあります。
「その者は主の御前からしりごみし、またその胸は罪悪感と心痛と苦しみで
満たされる。その罪悪感と心痛と苦しみは、炎がとこしえにいつまでも
立ち上る、消すことのできない火のようである。」
仮に裁きがないとして、ふさわしさ・身につける必要のある価値観を備えずに
天国に入ると、すなわちそれに見合わない栄光に入ると、そのような
ことになるのではないかと思います。すなわち自らその栄光を出ていくことに
なります。
例えば、人を使役することに喜びを覚えたり、他の人に対する優越感を
感じずにはいられないまま仮に昇栄に入ったとしても、そこにいることを
喜びとは感じられないということです。
しかし、日、月、星と明るさが違うだけで、私たちは栄光を受けることは
できるのです。私たちがこの世で生きている間にどう過ごすか、すなわち
肉体と選択の自由をどのように使うかによって、私たち自身が日、月、星の
どの栄光を受けるのかを日々時々刻々と選んでいるのです。
なんと厳しい言葉だ、と思われるかもしれませんが、聖書にそう書いて
あるのです。都合よく書き換えますか。私はのろいを受けたくありません。
不満がありましたら、聖書を書くよう霊感を与えられた方にどうぞ。
私個人から出たことについてのみ私に責任があります。
厳しいと感じていても、希望はあります。
「『富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、
もっとやさしい』。これを聞いた人々が、『それでは、だれが救われる
ことができるのですか』と尋ねると、イエスは言われた、『人には
できない事も、神にはできる』」
自分自身の鼻で息をする人の力だけに頼っては難しいことも、
希望を持ち続ける人には天父の憐れみが及ぶのです。
その一部分をすでに体験されている方も多くおられるのではないでしょうか。
私自身はわがままな性格ですが、この性格で悪い結果を生じることも、
この性格でよかったと思うこともあります。
人が持つそれぞれの個性が御心に沿って発揮されるなら、それは
神会と人とを喜ばせるものとなり、御心に背いて発揮されるなら、
それは神会と人とを悲しませるものとなります。
悔い改めの一つの具体的な解釈は、個性を御心に沿わない形で
発揮するのをやめ、御心に沿って発揮するようになるということです。
悔い改めの過程で、必ずしも個性を捨てる必要はないのです。
むしろそれが活かされるようになるのが悔い改めです。
そりゃそうでしょう、教会を優先順位の上に置いてるからですよね
私は十数年以上も前から自分の生活のなかで教会の優先順位はずっと下のほうに置いてますので、そんな問題は全く起こりません
皆様もぜひ
「私たちには地域社会の一員として、この地球上の旅人として、お互いに気を配り、目を開き、感謝の手を差し伸べる義務があります」とBYU教育週間でクリス・クリッペンは語る
ジョエル・ランドール 著 2023 年 8 月 26 日、日本時間午前 1 時 17 分
ーーーー
チャーチニュースが地域社会の一員としての奉仕の重要性をを報じていました。
災害での突発的なボランティアも大切ですが町内会の自治に協力することも大切だと思います。
とは言うものの安息日の激務は日曜日に多い地域社会への奉仕に協力できにくい環境でもありますね。
昔、町内の青年会に入りました。
地域にも貢献したいという思いはあったので、盆踊りや行事には
些少の寄付金を納めていたこともあり、誘われたからです。
まぁ、会費だけでも協力するかと青年でもないけど。。と思いながら入会。
しかし、大変でした。
お金だけの協力とはいかないのは教会と似ているなと。。
安請け合いはするものではないですね。
日本の地域社会での奉仕活動。末日聖徒には難しい一面あります。
一つの解決策は教会の方の時間の犠牲を減らすことかも知れません。
四十九日まで彷徨ってるんじゃ???
天は人の上に人をつくらず・・・と言うが、
高校野球は、仙台育英の上に慶応をつくった。
>死のロードにも関わらず虎さん優勝マジック。まさしくマジック。
今年は関西ダービーもあれですな~
阪神ファンの声「今年はプレーオフ無しでどない?」
関東の方は、巨人、DNA、ヤクルト、慶応、でプレーオフ?
コロナ明けの野球は波乱含み。
死のロードにも関わらず虎さん優勝マジック。まさしくマジック。
あ。鹿児島の神村学園、仙台育英に負けたのか。。
巨人やっと3位浮上。
ルキー門脇がいい
https://www.youtube.com/watch?v=n6hXjXDoRwo
ユダヤ教には来世感、いわゆるあの世とか霊界の概念がないそうで、「救い」というともっぱら奴隷の状態からの解放を意味するのでしょう。
カトリックには煉獄、末日聖徒には獄(ひとや)があって霊界での悔い改めのシステムがあるよう。
プロテスタントでは死後すぐに天国か地獄か行き先が決まってしまうそうで、生きている間の「信仰告白」が重要視されるのは、
その為なのでしょうか。
●【夏の甲子園】決勝は「そっくり対決だ」 仙台育英と慶応のグレーユニホームが似ているワケ(日テレNEWS) - Yahoo!ニュース
https:/・・
帝国陸軍亡き後に高校生の精神を鍛錬するために帝国陸軍残置諜者系新聞の朝日新聞と毎日新聞が維持運営してきた甲子園の改革が叫ばれているのは、
米帝の崩壊でもはや役割を終えつつあるからに他ならない。
国際金融資本の日本支配の終わりを祈念して、国際金融資本系教育機関である慶応高校の勝利が予定されていたのだと想像する。
新しい紙幣は2024年の7月前半に発行される予定で、一万円札は福沢諭吉から渋沢栄一、五千円札は樋口一葉から津田梅子、千円札は野口英世から
北里柴三郎に肖像が変更される予定。来年の夏の甲子園のシーズンには1万円札から諭吉は姿を消しはじめる。
」
https://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/7d77132e697862aae5721ba951adeb54?st=1#comment-list
」
おや。お早いおかえり。。お名残惜しい。
鬼が笑います。
Wさんの投稿を拝見していると「日本の末日聖徒は大丈夫!」と思わせてくれます。
長居しすぎたようだがや
それでは皆さん、元気でやってちょうよ
良いお年を
こりゃどうも、お気遣い感謝です
さて天国でわたしたちが集まって騒いでいると、そこにイエスが現れた、手にぶどう酒のボトルを持っており、わたしたちにこう言ってグラスをすすめた
「神の国で新しく飲むと約束していた日がやって来た、今日がその日である」
まあね、そういうことだよね(笑い)
面白い、受ける
座布団を5枚いこうかー
下記修正版
豚「え!NJさんもこっちなんですか?」
NJ「しょせん学者なんて者は、信仰とは相いれないからね」
またしばらくすると、Wさん、オムナイさん、あじフライさん、WEBさんが現れた。
Wさん「なんだかだ言っても、行きつくとこは同じだがや」
オムナイさん「ここって?月の栄?モルモンの教義ではそうに違いない」
あじフライさん「死ねば皆同じところに行くんですよ、せっかく皆そろったから一杯やりますか?}
WEBさん「ここについて検索したけど、ヒットしなかった」
さて?皆が行き着いた所はどこなんでしょうか?
豚が思うには「NJWINDW(j)の栄」
そこで思いついた小噺
私こと豚もついに命運尽きて死後の世界に・・・
しばらくすると、同じ世界にNJさんが現れた。
豚「え!NJさんもこっちなんですか?」
NJ「しょせん学者なんて者は、信仰とは相いれないからね」
またしばらくすると、Wさん、オムナイさん、あじフライさん、WEBさんが現れた。
Wさん「なんだかだ言っても、行きつくとこは同じだがや」
オムナイさん「ここって?月の栄?モルモンの教義ではそうに違いない」
WEBさん「ここについて検索したけど、ヒットしなかった」
さて?皆が行き着いた所はどこなんでしょうか?
豚が思うには「NJWINDW(j)の栄」
7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく」
これは「救い」というのは「個人の責任」であり、教会とは全く関係ない
ということだよね
そもそも最初の「まともな組織」にキリスト教はローマ帝国の「国教」なんだよね
それは皆さんが知っていることだ
「ローマ帝国の利益」の為にできたのが「キリスト教」だよ
皆さん知っていることだよ
当然「キリストの教え」とは関係ないものだよな
であるから、ルターやカルビンは改革しようとしたのだよ
でもまあ、所詮「不完全」だよな
そして、皆さんご存じのようにキリスト教は「混乱の渦」に巻き込まれたままだよ
それではマズイということで、近年になって「統一」の動きになったが、どう転んでも「不完全」が改善されるはずもない
いい加減、「既存のキリスト教会」なんて考えなくて良い
最初から、好きは「個人的なもの」なんだよ
教会が「人を救う」なんてできるはずがないがや
不正な偽キリスト教に警戒せよと言う意味で捉えています
キリスト教会を謳って、キリストを信じることを教えて、世界中で記録上の総会員数が第何位と自慢していても、それが救いをもたらすかどうかを意味しない、と
聖書のみ・・・教会の指示ではなく、聖書に書かれているかどうかで、神の御旨とする
信仰のみ・・・当時の免罪符の購入や、多額の献金ではなく、信仰によって救われる
恵みのみ・・・救いは教会から信者に与えるものではなく、神からの無償の恵みとして全人類に与えられている
宗教改革の意義は、教会組織と個人の信仰を切り離したところにあると、私は思います
>救われるために行いが重要であるなら
>それは自力で得るものであってそもそも救いではない
救いは神の恩寵であって、恵みのみ、ということですね。
プロテスタントの基本原理として、聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ
というのがあります(多分ご存じだと思います)。
一方でマタイの福音書には
7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
とありますが、どうお考えですか?
その本質が違う
信仰=行動を促す「動機」だよな、一方
行い=信仰、あるいは他の動機によって引き出された行動
そもそも比較すべきものではないよ
しかし、パウロの時代では、それをあえて強調すべき状況があったから、手紙にかいたのだよ
こんな簡単なことは「議論する」ほどでもないよ(笑い)
色々なことがあるのだから「手紙に書く必要が」生じることもあるだろう
それを馬鹿真面目に「何故だ」なんて考えなくても良い
当時の混乱した状況であれば、臨機応変に対応しなくてはならならないのだから
あまり「馬鹿真面目」はあかんがや(笑い)
ほぼ同じなのかなと思ってます。
何度か紹介した尾崎神父さんの記事を再喝してみます。
http://www1.cncm.ne.jp/~toguchi/ozaki_philosophy/33.htm
救いは自力本願か他力本願か
キリスト教は自力本願、他力本願のどちらなのでしょうか。
ここで、キリスト教と言ってもプロテスタントとカトリックを区別しなけばいけません。
プロテスタントの創始者のルタ-(1483~1546)は、親鸞と同じ考え方です。
つまり、ルタ-は「人間はアダムとイブの原罪によってとことん堕落してしもた。
全人類はその堕落し切った本性を引き継いどるから、ええことしょうと思てもできへん。
つまり、人間がする行いはすべて罪や。
せやけど、イエス・キリストを信じたら、その信仰のみによって救われるんや」とドイツ語で言った。
つまり100%の他力本願です。
また、ルタ-は人間がよいことができないと言うことで、人間が自由であることを否定したのです。
それに対して、カトリックも、天国に行くのは人間の力では無理で神の助け(恩寵)がいると教えます。
しかし、人間の側から何もできないのではなく、人間が神の助けを受け入れて協力する必要がある、と教えます。
アウグスティヌス(4~5世紀)という人は「神はあなたなしにあなたを造られたが、
あなたなしにあなたを救うことはない」(ちょっとややこしいですが)と説明しています。
カトリックでは人間に自由を認めるわけです。
だから、カトリックの考えでは、地獄に落ちる人がいるならば、それはその人が自由に悪を選択した結果である、
いうならば自業自得なのだ、なるほど、となるわけです。
ーーーーー
因みにカトリックとプロテスタントは「信仰義認」について信仰優先という部分で共有認識を持っており理解しあっているそうです。
末日聖徒もイエス様に対する信仰が第一義なので、将来融和の可能性大だと思ってます。
信仰箇条4
わたしたちは,福音の第一の原則と儀式とは,
第一に主イエス・キリストを信じる信仰
律法を厳格に守っていた律法学者やパリサイ人をなぜイエスは叱責されたのだろう
救われるために行いが重要であるなら
十字架に掛けられた強盗に対してなぜイエスは私と共にパラダイスにいると言われたのだろう
救われるために行いが重要であるなら
多額の献金をしていた魔術師シモンはなぜ叱責されたのだろう
救われるために行いが重要であるなら
クリスチャンを迫害していたサウロになぜイエスは語り掛けられたのであろう
救われるために行いが重要であるなら
罪の自覚の無い者たちだけが自分は天国に行けると考えるかも知れない
救われる行いが重要であるなら
罪の自覚をした者は取り返しがつかないことに絶望するしかない
救われるために行いが重要であるなら
それは自力で得るものであってそもそも救いではない
自力であらゆる良い行いをして、自分のふさわしさを神に示して
さぁ神よ、私を天国に入れたまえ、もし、まだ他に必要なことがあればお命じ下さい、私は何でもします
と言うことにならないだろうか、
そうしてようやく自分の限界に気づき、悲しみながら去っていった青年を私は知っている
nice!
矛盾はないと思います。
読み解く鍵は使徒言行にあるのではないでしょうか。
wiki/使徒言行録
『使徒言行録』なしにパウロの手紙を読んでも理解できない部分が多いことを忘れてはならない。
使徒行伝13:38-39
だから、兄弟たちよ、この事を承知しておくがよい。
すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。
そして、モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、
信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである。
ーーー
結局パウロの言いたいことはモーセの律法からキリストの律法転換を言いたかったのでしょうね。
ペテロが指摘しているように、ところどころ解りにくですが。
簡単に言えば、イスラエルの不従順の為に与えられたモーセの律法はもう役割を終えた、
これからはシナイ山で与えられるはずだった、本来の律法に従いましょうと言っているのでしょうね。
ローマ書の「律法」を「モーセの律法」と読み替えると分かりやすいと思いました。(全てモーセの律法の意味ではないのでややこしいですが)
そう考えることが「迷う」ことになるのだよ
当然「どちららも大事」なんだからね
パウロが手紙に書いたのは「書く必要があった」からだよ
ユダヤ教から改宗した勢力が「行動」の重要性を押おしていたからだよ
ユダヤ人は「行動」は得意だからね
その状況を見て、パウロは「信仰」を強調したのだよ
どちらが重要か、ではないのだよ
当時の状況では「信仰」を強調する必要があった
それだけのことだよ
どちらも、同じように重要であることは当然ではないか
「行いが重要」となってしまうと、偽善が増えることになるから、まさにルターの時代のカトリック教会がそんな感じでした、それもあってルターは信仰義認を説いたわけです
また「行いが重要」となってしまうと、自分の内面ではなく、人にどう見られているかという外面ばかり取り繕うようになってしまう可能性があります、それはキリスト教の伝える救いからズレていくかもしれません
「行いが重要」と言う考えを良いものだと考える人は、医者のいらない健康な人だと私は思います
ローマ人への手紙は、総合的に見て「信仰義認」について書かれてます。
1章では異邦人(律法を受けていない者)の罪について書かれ、引用された2章ではユダヤ人(律法を受けた者)の罪について書かれています。
パウロが2章で指摘しているわざ(行い)とは、神に対するその人の思いではないかと考えます。
ユダヤ人は神から律法を与えられて、裁く立場にありながら、律法に忠実でないことを批判してます。
「信仰」も人間の内面的な「行い」だと言えますが、この2章で言及している「行い」は、人の行動、品行ではなく、「神に対するその人の思い」なのではないでしょうか?
どうもそう解釈しないと、ローマ人への手紙そのものがつじつまの合わないものになってしまう気がします。
オムナイさんは、同じローマ人への手紙の中に書かれている「行い」について、引用の2章と、他の個所と比較して、矛盾していると思いますか?
モルモンの教義から見ると、ローマ人への手紙は、信用できないようですが?
ローマ人への手紙はキリスト教の歴史において重要な役目を果たしましたが,この書簡は,十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老によると,残念ながら「聖書にある他のどの書よりも,多くの教義的な誤解,誤った解釈,そして悪害の原因」ともなりました。(Doctrinal New Testament Commentary,全3巻〔1965-1973年〕,第2巻,211)初期のキリスト教徒たちの間でさえも,パウロの記述は「わかりにくい」とされ,その教えは時に歪曲されて,誤って伝えられました(2ペテロ3:15-16)
https://www.churchofjesuschrist.org/study/manual/new-testament-seminary-teacher-manual/introduction-to-the-epistle-of-paul-to-the-romans?lang=jpn
自分の言葉がありませんって宣伝してるようなもんだ
>キリストはすべての人類を平等に救ったはずなんですが?
行いによって死後行くところが違う。と言うのは当たり前な感じがするんですが。。。
結果の平等か機会の平等かで言うと機会の平等の方が公平でしょう?
マタイ16:27(聖書協会共同訳)
人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、
その時、それぞれの行いに応じて報いるのである。
ローマの2:6-8
神はおのおのの行いに従ってお報いになります。
耐え忍んで善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、
永遠の命をお与えになり、
利己心に駆られ、真理ではなく不義に従う者には、
怒りと憤りを下されます。
----
>多くの人が誤解してるのは、世間一般には「学問の勧め」の冒頭部分だけを引用して、「福沢は平等論者だった」と正反対の思い込みをしているからです。
そうですね、知っている人は知っていることですが、福沢諭吉の真意は「天により人は平等だと言ってる者がいるが、そんなことはない、勉強して偉くなった者が人の上に立つのだ」
この思想の欠陥は、貧乏な者、身分の低い者に対して、お前らは勉強せず怠けたからそうなったのだ、自業自得で当然の報いだ、だからその立場を受け止めて、上の者に文句を言わずに生きていけ、と見下す考え方が世の中に蔓延してしまうこと
実際、今の社会がそうなっております
そんな世の中で、貧乏人は一万円札(諭吉さん)を有り難く頂戴しなければならないのですから、日本は何とも恐ろしいディストピアですねぇ
確かに「天は・・・」そうなんですけど、地上の人間はそうじゃないんですね。
福沢も、その地上の人間の一人で、人を知識や財産の有無で区別(差別)しています。
私達もそうです。
モルモンの教義では、人間の行いによって死後に行くところが違います。
キリストはすべての人類を平等に救ったはずなんですが?
末日聖徒の明確な宗教的アイデンティティーは、その実践、教義、神殿の儀式によって強化されています。
ーーー
世にあって世の者でない。ですか。
ブリガム・ヤングは福音はこの世を生きるための教えであり、
あの世の福音はあの世で教えられると言われたとか。
末日聖徒は幸福になるべくして幸福になっているのではないでしょうか。
信仰箇条の結びの言葉
どのようなことでも,徳高いこと,好ましいこと,
あるいは誉れあることや称賛に値することがあれば,
わたしたちはこれらのことを尋ね求めるものである。
ジョセフ・スミス
・・・
実践;まことに、最良の書物から・・学問を求めなさい。良い職業を得る。
教義;神の子孫としてキリストを模範とする。
神殿の儀式;ご先祖様、子々孫々の結びつき、永遠の観点。
まぁ、職業には難しい尊いものと、普通のものがあるとは書いてありますね。差別と言えば差別かな。
こうもあります。
人たる者は貴賤上下の区別なく、みなことごとくたしなむべき心得なれば、
この心得ありて後に、士農工商おのおのその分を尽くし、銘々の家業を営み、
身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり。
ーーー
明治維新以前から日本の識字率は寺子屋よろしく高かったとか。
福沢諭吉の功績は西欧の学問も取り入れたことでしょうか。
「学問のすすめ」は一億総中間層に押し上げたかに見えましたが、
福沢諭吉が高貴な職業と称えた医者、弁護士、学者などは
ポスト・ドクター問題に代表されるように増えすぎた高貴な職業者は食えなくなる事象も。
中国、韓国でも大学院を出てさえ職業に就けない人々が溢れている上に、
プライドからブルーカラーな職業には就けないらしいですね。
飲食業や建設業、農業・林業など高サラリーを提示しても人が集まらないとか。
高貴な職業に人気が集中しすぎるのですかね。
ーーー
ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、
あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。
・・
人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。
ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、
無学なる者は貧人となり下人げにんとなるなり。
ーーー
現代から眺めると余計な一文かも。
職業に差別・区別はない、それぞれに実学を追求すれば平等な社会が現れる的な感じが良かったですね。
事実「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の学問のすすめはとはそう説いていると思ってました。
アルマ1:26
・・彼らは皆、平等であった、そして彼らは皆、各々自分の力に応じて働いた。
ヤクザは直上の上位団体への上納義務を負うだけで下部団体の事は下部団体が好きにすればよろし
モルモン教の場合下部団体のの権威権限は遥かに小さく末端のワード、支部に至っては献金督促事務所って名前に変えた方が実態に即してると私は考えてる。
モルモン教を語ると組織論にしかならんけど個人の魂の救済とはな~んも関係ない事に熱くなれる馬鹿はハナから宗教なんてやっちゃダメなヤツなんだよ
多くの人が誤解してるのは、世間一般には「学問の勧め」の冒頭部分だけを引用して、「福沢は平等論者だった」と正反対の思い込みをしているからです。
もうちょっと読み進めれば、福沢が差別論者であったことが判明します。
平等を重んじる人は、賢者も愚者も、貧者も富者も同じ人間で、存在意義は同じだと考えますが、福沢は、そうは考えていない。
愚者や貧者を否定してます。
「愚者や貧者にならないために勉強しろ」って言ってるのです。
>これはモルモン書ではないですが、原則は同じです。
そうなんです、モルモン信仰の原点と同じです。
「人間は努力してよい人間にならなければいけない」という考えです。
「人間には良い人間と悪い人間がいる」と言うのが、モルモンの教義の出発点です。
それで、会員は「良い人間に成ろう」と毎日努力をします。
でも、「何が良い人間で、何が悪い人間なのか?」について、まったく考えもせず、理解しようともしていません。
それに比べると、福沢は「愚者は良くないから勉強して賢者になり、富者になりなさい」と明確に述べています。
モルモンは、自分達が「差別しない人間だ」と事実とは正反対の事を思い込んでいます。
そこに、モルモンの不幸があります。
>「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」。
福沢で
猛暑を扇ぐ
師匠かな
https://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/47061_29420.html
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。
されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤きせん上下の差別なく、
万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資とり、もって衣食住の用を達し、
自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。
されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、
富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥どろとの相違あるに似たるはなんぞや。
その次第はなはだ明らかなり。
『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。
されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。
・・・・
今の世に生まれいやしくも愛国の意あらん者は、官私を問わずまず自己の独立を謀はかり、
余力あらば他人の独立を助け成すべし。
ーーー
>これはモルモン書ではないですが、原則は同じです。
学問のすゝめってアメリカ独立宣言が下敷きになってそうで、
モルモン書と関係大有りですね。
第三ニーファイ 6:12,14
そして民は、彼らの富と学問の機会の多少に応じて階級に区別され始めた。
まことに、貧しいために無学な者もいれば、富んでいたので大いに教育を受けた者もいた。
・・・
このように、全地にひどい不平等が生じたために、教会が分裂し始めた。
ーーーー
うーーーん。職業に貴賤の差はない。けど学問(実学)を会得した人とそうでない人とは差ができて当然的な?
結局この世は競争社会。
天国は能力なりに頑張れば救われるわけですからね。
平等・公平かも。
個人的には福沢諭吉の「学問のすゝめ」なんとなく納得できない。
恩恵を与える目で見る、両側面を見る、心を広く持つ。
昔読んだ「アランの幸福論」を思わせます。
004ふたつの側面を見る
昔から言われているとおり、どんなアンフォラ(古代ギリシアの壺)にも把手(とって)がふたつあるように、
どんなできごとにもふたつの面がある。
不幸をもたらす面と、慰め元気づける面である。
そして、幸せになろうとする努力は、決してむだではない。
意志の力は、人が思っいるよりずっと、幸せをもたらす大きな要因なのだ。
019感情ではなく、態度をコントロールする
数珠はすばらしい発明である。数珠玉を繰ることで手も頭も一心不乱になるからだ。
もっといいことをお教えしよう。
それは、意志で自分の感情をどうこうすることはできないが、
態度はただちにコントロールできるということだ。
バイオリンでも手にとって弾きはじめるほうが、頭で感情を追い払おうとするよりもずっと簡単。
これが賢人の知恵である。
アランの幸福論 Propos sur le bonheur (Japanese Edition) Kindle Unlimited会員は無料
是非!
こちらも素晴らしい「幸福論」是非。林檎
https://www.youtube.com/watch?v=M55uRP4DWW0
本当のしあわせを 探したときに
愛し愛されたいと考えるようになりました
そしてあたしは君の強さも隠しがちな弱さも汲んで
時の流れと空の色に何も望みはしない様に
素顔で泣いて笑う君にエナジイを燃やすだけなのです
本当のしあわせは目に映らずに
案外傍にあって気付かずにいたのですが
かじかむ指の求めるものが見慣れたその手だったと知って
あたしは君のメロディーやその
哲学や言葉 全てを
守る為なら少し位する苦労もいとわないのです
時の流れと空の色に
何も望みはしない様に
素顔で泣いて笑う君のその ままを愛している故に
あたしは君のメロディーやその
哲学や言葉全てを守り通します
君が其処に生きているという真実だけで幸福なのです
こういう比較が誤解を招くよね
聖典=過去の預言者が受けた啓示を預言者自身の言葉で表したもの
預言者の言葉=現在の預言者が受けた啓示を預言者自身の言葉で表したもの
どちらを尊重するから明白だよね
より新しい啓示が重いよね
ただし、勘違いしてはいけないのは
どちらも「預言者の言葉」なんだよ、わかるかい ?
神は直接「言葉で語る」ことはない
全て「啓示」なんだよ、啓示は言葉ではない、「イメージ」なんだよ
同じ「イメージ」でも表現する言葉は預言者によって違いがある
だから預言者の「語彙力」によって随分違ってしまうのだよ
つまり、新しい啓示だからと100%信用するのは賢明ではない
だからモルモンが書いているように「間違いがあるからと非難しないように」という言葉の意味が分かるだろう
私の印象としては、ジョセフ、スミスの語彙力は低すぎるよな
逆に語彙力の高すぎる預言者の言葉も誤解されやすいよな
しかしその「指導者」はどこまでの範囲を指すのでしょう? 地区代表、地域会長会、中央幹部や十二使徒、大管長会・・・?
>指導者から発せられた言葉の真偽・善悪を見分けるためのひとつの指針は、1970年代か1980年代の総大会説教の中にあると思っています。
>その説教で語られたことは、「指導者が教えることは、それまでの預言者が語ってきたことと調和するはずです」という趣旨でした。これは主に古代の聖典である聖書・モルモン書の内容を指しているのではないかと思います。
>言い換えれば、見分けるためには聖典に書かれた福音の教義に対する知識が必要であるということです。
この聖典と生ける預言者の言葉の関係について「生ける預言者の教え 生徒用手引き」にはこうあります。
---------------------------------------
ウィルフォード・ウッドラフ大管長(1807-1898年)は,預言者ジョセフ・スミスとブリガム・ヤングが出席した集会について次のように話しています:
「ジョセフ兄弟がブリガム・ヤング兄弟の方を向いて言いました。『ブリガム兄弟,説教壇に立ち,生ける神託と書き記された神の言葉についてあなたの考えを聞かせてください。』
ブリガム兄弟は説教壇に立つと,聖書を手に取って,説教台に置きました。次にモルモン書を手に取り,説教台に置きました。そして教義と聖約の書を取り,自分の前に置くと,次のように述べました。
『わたしたちには,世の初めからおおよそ今日に至るまでの神の業に関して,神の言葉を書き記した書物があります。さて,生ける神託〔生ける預言者〕に比べれば,これらの書物はわたしにとって何の価値もありません。わたしたちの時代の預言者,すなわち聖なる神権を持つ者の言葉は,今,神の言葉をわたしたちに直接伝えてくれますが,これらの書物はそうではないからです。わたしはこれらの書物に記されているすべての言葉よりも,生ける神託を得たいと思います。』
それがブリガム兄弟の取った道でした。ブリガム兄弟が話し終えると,ジョセフ兄弟が会衆に言いました。
『ブリガム兄弟は皆さんに主の言葉を告げ,真理を語りました。』」(Conference Report, 1897年10月,22-23)
---------------------------------------
https://www.churchofjesuschrist.org/study/manual/teachings-of-the-living-prophets-student-manual-2016/chapter-2?lang=jpn
実はこのエピソードには前段部分がありまして、初期の末日聖徒の集会である男性会員が「預言者の言葉は聖典の内容と矛盾しないものであるはずだ」と発言したのですが、それを受けてジョセフ・スミスがブリガム・ヤングに語らせたのが上記なのです。
公式の手引きに記載されている以上、末日聖徒イエス・キリスト教会としては、聖典よりも生ける預言者の言葉の方が上、と言うことになると思われます。
以前に結構昔のステーク会長経験者の方とお話する機会がありましたが、
なかなか無茶苦茶な方でした。ステーク会長であった当時は、周辺の方々、
あるいは当事者の方々が苦労されたのではと思ってしまいました。
私自身も指導者が無茶苦茶をやった後の後片付けをしたことがありました。
また、明らかに福音に反したことを指導者が行うのも、それなりに見てきました。
「旧約」の時代は、ただ形式的に外形的なことを行っていればよかったかというと、
申命記に見られるように、外形的なことの中にも、精神というか原則が横たわっていて、
そこから御心を理解するよう求められていたように思います。
変わって「新約」では、外形的にどうかということは語られず、どういう思いを
持つべきかが語られ、そのふさわしい思いに沿った行いをする、その行いは各自で
考える必要のあるものという風になっているように思います。
加えて、信仰生活の中で長い時間がかかってやっとわかってきたことは、説かれた
教えの真偽を各自が聖霊との交わりの中で確認する必要がある、ということです。
ジョセフ・スミスを神格化するつもりなど毛頭ありませんが、ジョセフ・スミスが
そうしたように、各自が祈りをもって真偽を問うことを求められているということです。
指導者から発せられた言葉の真偽・善悪を見分けるためのひとつの指針は、1970年代か
1980年代の総大会説教の中にあると思っています。
その説教で語られたことは、「指導者が教えることは、それまでの預言者が
語ってきたことと調和するはずです」という趣旨でした。これは主に古代の聖典である
聖書・モルモン書の内容を指しているのではないかと思います。
言い換えれば、見分けるためには聖典に書かれた福音の教義に対する知識が必要である
ということです。
前の見分け方は、総大会説教に基づくものですから、教会の公式な教義と考えられます。
次に挙げる二つの見分け方は、個人的な経験則であり、教会の公式な教義ではありません。
指導者から発せられた言葉の真偽・善悪を見分けるためのひとつの基準になり得るのは、
聖霊からの働きかけに端を発した違和感です。それともこれは「キリストの光」
なのでしょうか。
話を聞いていて、なんか変だなと思って聖典を開いてみる、過去の指導者の説教を
開いてみると、あれ、書かれていることと違うなと。
一方、近年の手引きの改訂では、地元の指導者の裁量が以前に比べて大きくなって
いるように思います。「実情に合わせて」と。しかしそれはあくまで裁量であって、
教義を変えるほどの権限ではないはずです。
さらには、そもそも毎日聖典を読み、福音の教義に対して理解がなければ、なんか
自分が学んでいる教義とは違うな、という違和感すら感じられないはずで、
これもまた、見分けるためには聖典に書かれた福音の教義に対する知識が必要である
ということです。
指導者から発せられた言葉の真偽・善悪を見分けるためのひとつの基準になり得るのは、
それは選択の自由を尊重するものかどうか、ということです。
聖約や戒めが与えられるひとつの目的は、私たちが与えられている選択の自由を正しく
用いることができるようになることであり、そこにあるひとつの原則は、
他の人の選択の自由を侵したり他の人に悪影響を与えるものでない限り、
何人も他の人の選択の自由を制限すべきではないということであり、モルモン書が
それを明らかにしています。「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」。
これはモルモン書ではないですが、原則は同じです。
個人の選択の自由を侵しているのであれば、それが指導者ならば、「いかなる程度の
不義によってでも、人の子らを制御し、支配し、強制しようとするとき、まことに、
天は退き去り、主の御霊は深く悲しむ」を体現していることになります。まさに、
「わたしたちは悲しむべき経験によって学んだ」。
これは福音の教義に対して幅広い知識がなくとも、選択の自由に対して正しい理解が
あれば、比較的簡単に判断できます。
御霊との交わりを持つ上で、また判断の基礎となる福音の教義に対する理解を
得るうえで、毎日聖典を読むということは非常に重要なことのように思います。
預言者がいなければ、また個人に聖霊が遣わされなければ、福音の教義が伝えられ、
その真偽を各自で確認することができなくなり、私たちはぶどうの木から
絶たれてしまうことになるかと思います。
>会員の「気持ちが分からない」のだよね
まことにしかり。
「指導者」という日本語が良くないのでしょうか。
https://wsc-japan.com/media/leadership/251.html
・・・
「成功循環モデル」とは、組織が長期的に成功し続けるための考え方です。
・・・
グッドサイクルは、「関係の質」を高めることから始まります。「関係の質」を高めるには、
お互いを尊重した上で指導者、リーダーとメンバーが理解し合い、
課題に対して一緒に考えるようにする事が大切です。「尊重する姿勢」とは、「メンバーを認める事」です。
・・・
「関係の質」が高まると、メンバーは自分から課題に気づくようになり、仕事を面白いと感じます(「思考の質」の向上)。
そして、自発的に行動するようになり(「行動の質」の向上)、その結果として、成果が上がり(「結果の質」の向上)ます。
最終的には、信頼関係が高まります(「関係の質」のさらなる向上)。
良き指導者、リーダーになるためには、まずは「関係の質」を高めることが大事です。
ーーー
さあさ皆さん十八番の歌は歌われました?
ここを真剣に修正すれば、全てはうまくゆくのだよ
原則は簡単
正しい法則に則って正しく行えば、自ずと「正しい答え」に導かれる
まあ、今までそれができている指導者に会ったことはないがね(笑い)
基礎的な部分が未熟なんだよ
少し具体的に教えようか
1,まずは、「自分で考えよう」という姿勢が欠如している
やたら「コピペ」ばかりで、自分の考えが無い
「他人の考え」なんてどこまで行っても「参考」でしかない
こんなもの、いつまでも調べていてもキリガないそれに「記事を書く」連中なんて、考えが偏った連中が多いから、馬鹿真面目に読むべきものでもない
自分で考える
御霊と対話しながら自分で考える、これが一番重要
ここからは、ビショップになったという措定で書いてみよう
2,ビショップは「全会員と毎年面接する」これは「十分の一面接」で済ませてはいけない
会員の個人的な考えや生活環境などが把握できるような「時間を十分にとる」必要がある
これは、今までどのビショップもやっていないだろう
基礎的な部分が未熟なんだよ
「くだらない雑事」に負われているのが実情だよね
ここができていないから、会員の「気持ちが分からない」のだよね
3、会員の情報が分かっていないのに、人事やワードの行事を、ビショップリックの独断で決めてしまう
4、ここまで、全てが「原則に反している」から「導き」なんて受けられるはずがない
それであるのに、さも「神様の意思」であるかのように嘘をいうから
さらに「罪を犯す」ことになる
であるから、全ては「ビショップの面接」が行われていないから、全てが悪い方向に行くということだ
この「ビショップの面接」については、私が改宗した時にはすでに「手引き」に明記されていたことだから、言い訳はゆるされない
>モルモン教と他のキリスト教宗派との共存は、宗教的多元主義のダイナミックな性質を示している。
11 わたしたちは,自分の良心の命じるとおりに全能の神を礼拝する特権があると主張し,またすべての人に同じ特権を認める。彼らがどのように,どこで,何を礼拝しようと,わたしたちはそれを妨げない。
末日聖徒は宗教多元主義に近い思想を持っているのではないでしょうか。
唯一まことの教会と信じつつ、信じられるものを信じれ良い的に思っているのかも。
少なくとも私はそうです。
wiki/宗教多元主義
宗教多元主義(しゅうきょうたげんしゅぎ、英: Religious pluralism)とは、
さまざまな宗教が同じ社会に存在することを認め、
お互いの価値を認めながら共存していこうとする宗教的態度、思想である。
・・・
日本では作家の遠藤周作が、晩年の作品『深い河』にその影響を窺わせており、
本人も『「深い河」創作日記』の中でそれを認めている。
・・・
wiki/深い河
『深い河』(ディープリバー)は、1993年に発表された遠藤周作の小説。
また、これを原作とした1995年の日本映画。タイトルの『深い河』または“Deep River”とは、
一般には黒人霊歌の「深き河」に歌われるヨルダン川のことである。
映画:深い河
https://www.youtube.com/watch?v=MhpOSXDwSiI
Deep River (2014) | The Tabernacle Choir
https://www.youtube.com/watch?v=LiIURFm63Yk
https://www.worldfolksong.com/songbook/spiritual/deep-river.html
Deep river, my home is over Jordan,
Deep river, Lord,
I want to cross over into campground.
深い河 故郷はヨルダン川の向こう岸
深い河 主よ
河を渡り 集いの地へ行かん
Oh don't you want to go to that gospel feast,
That promis'd land where all is peace?
Oh deep river, Lord,
I want to cross over into campground.
福音の恵みを求めて
すべてが平穏な約束の地へ
深い河 主よ
河を渡り 集いの地へ行かん
///
ノースカロライナ州には、黒人霊歌『深い河』のタイトルと同じく、
その名もズバリ「Deep river ディープ・リバー」という川が現実に存在する。
///
「Deep river(ディープ・リバー)」と黒人霊歌『深い河』との関係については明らかではないが、
一説によれば、19世紀のギルフォード郡周辺には奴隷解放運動を推進していたクエーカー(Quaker/キリスト友会)の組織が存在し、
彼らの関係者によって黒人霊歌『深い河』が作曲されたのではないかと考えられているという。
---
モルモン教会の教師や指導者って、お医者さんゴッコみたいなもん
ちゃんと神学部で勉強したり、牧会に必要な素養を身に付けないと、聖職者にはなれないといつも思う
うちの教会ではみんな会員のボランティアなんですよ、有給の牧師はいないんですよ、どうです、素晴らしいでしょ?って本気で言ってるモルモン会員が多いけど、それがどれだけアホなこと言ってるか気付いていない
うちの病院はみんなボランティアです、専門の医者や看護士は一人もいません、うちの学校はみんなボランティアです、専門の教師は一人もいません、そう言ってるのと同じ
宗教だから専門教育など受けている必要はない、信じてさえいれば良い、って考えてるなら、それは宗教を舐め過ぎじゃないかな? そんなんで人は救えない、だから教会からみんな離れて行くのでは?
オカルト嫌いさんの発言がモルモンの問題を的確に指摘しているのでいろいろ考えさせられる
アンタがた好きねえ
ゴッコが
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末日聖徒の存在意義を宗教社会学の視点から考察。。手にあまりすぎるのでGPT-4に任せました。
(素晴らしい助手)
どうも日本語だと日本語のサイトからデーターを抽出しているようなので、
Q「宗教社会学の視点での末日聖徒の存在意義」をDeepLで英語に
帰ってきた回答を日本語にDeepLしてあります。
A
モルモンとして知られる末日聖徒の存在は、宗教社会学の観点から重要な社会学的意味を持つ。
この宗教団体には独特の信仰、実践、そしてユニークな歴史があり、
それがこの分野における重要性の一因となっている。
考察すべき重要な社会学的側面は以下の通りである:
1、宗教の多元性と多様性
末日聖徒は、キリスト教が主流の社会における宗教的多様性の代表例である。
19世紀初頭に登場した末日聖徒は、新しい教義、聖典、実践を導入することで、当時の宗教的状況に挑戦した。
モルモン教と他のキリスト教宗派との共存は、宗教的多元主義のダイナミックな性質を示している。
2、宗教的アイデンティティーと境界の維持
末日聖徒の明確な宗教的アイデンティティーは、その実践、教義、神殿の儀式によって強化されています。
これは彼らのコミュニティとより広い社会との境界を維持するのに役立っている。
社会学的に、このような境界がどのように確立され維持されているかを理解することは、
宗教的集団がより大きな文化からどのように差別化されているかを理解することにつながる。
3、社会的結束と統合
モルモンの共同体はしばしば強い社会的結束力を示し、メンバーはさまざまな共同活動に参加し、互いに支え合っている。
このような帰属意識と共同体意識はメンバーの全体的な幸福に貢献し、
宗教が社会的絆を築く上でどのような役割を果たしうるかについての事例研究を提供している。
4、制度化と権威
末日聖徒イエス・キリスト教会の組織構造は、指導者の階層、統治、地方会衆を含め、
宗教的文脈における制度化の過程を示している。
宗教組織がどのように設立され、維持され、発展していくかを研究することは、
組織や権力構造に関するより広範な社会学的理論に洞察を与えることができる。
5、社会の変化と適応
末日聖徒の歴史は、迫害、移住、適応のエピソードによって特徴づけられています。
これらの出来事は、宗教団体が外部の課題や社会の変化にどのように対応しているかを示している。
末日聖徒がこのような状況をどのように乗り切ったかを理解することで、
社会変化、回復力、文化的適応といった社会学的概念に光を当てることができます。
6、ジェンダーの役割と家族の絆 モルモン教は伝統的に特定の性別役割と家族構成を奨励してきました。
これらの役割が時代とともにどのように変化してきたか、
またモルモン教会員や部外者によってどのように受け止められてきたかを探ることは、
ジェンダー、家族、宗教と社会規範の交わりに関する議論に貢献します。
7、トランスナショナリズムとグローバリゼーション
末日聖徒は世界的な存在であり、宣教の努力は多様な国際的信徒を生み出してきた。
宗教がどのように国境を越えて伝わり、異なる文化的背景に適応してきたかを研究することで、
宗教、グローバリゼーション、文化的拡散の交差点に関する洞察を得ることができます。
8、宗教的改宗と社会化
モルモン教への改宗の過程には独特の儀式、教え、期待があります。
個人がどのように信仰に社会化され、より大きな社会の中でどのようにアイデンティティを交渉しているかを分析することは、
宗教的改宗とアイデンティティ形成の社会学的理解に貢献する。
結論として、末日聖徒の存在は、宗教の多様性、宗教的境界の維持、社会的結束の力学、宗教制度の進化、
社会変化への対応、ジェンダーの役割、世界的拡大、宗教的改宗と社会化の過程における役割のために、
宗教社会学において重要な意味を持つ。これらの側面を検討することによって、社会学者は宗教、文化、社会の間の複雑な相互作用について貴重な洞察を得ることができる。
>モルモン教会員は二言目には「組織が〜!組織が〜!」
>奴等も組織信仰だろ。
良く見抜いてる!
確かにねぇ、聖餐会でも聖典は引用しないのに、○○集会で○○会長がどうたら、○○の召しがこうたら、こんな話ばっかり
組織の中でどんな立場にいるのかで、自分の信仰が確かなものかどうかを考えている感じ
>「会員達をコントロールできる」と勘違いして、暴走した
およそ殆んどすべての人間は、少しばかりの権威を得たりと思
うや、
すぐに正しからざる支配を始めんとする生れつきの性癖あり。(D&C121:39)
わけですからね。大多数はそうなっちゃうのが普通なんでしょうね。
しかし、こうもあります。
D&C121:43
聖霊に感動しては機に臨みて激しく人を責む。
然る後、また彼の汝を敵視せざらんために責めたるその人に一層の愛を示す。
ーーー
神様の召として与えられた指導者としての責任。
世の誉を得ようとする不義の支配なのか、聖霊に促された叱責なのか。。どう判断するんですか?
御霊によってわかる場合もある。ひー高圧的やなぁ汗;とか。
もうちょっとリーダーシップを発揮して自分の方針を打ち出し方がいいかも、それじゃぁ多数決的方針だよとか。。。
しかし、判断つかない場合も多い。
ビショップリックや組織の会長会しか知らない情報も多いですからね。
なので、地元の指導者たる兄弟姉妹には極力協力します。
それでこそ自分にお鉢が回ってきた時に協力をお願い出来るわけですからね。
まるで宇宙人みたい
モルモン教徒はキリスト教徒よりは暴力団に近い。
奴等も組織信仰だろ。
「神権指導者の勘違いと暴走」
そもそも、「教会組織の管理人」でしかないのに、彼らは
「会員達をコントロールできる」と勘違いして、暴走した
その結果、多くのトラブルが発生した
しかし、それが自分たちの「間違い」であったことを未だに認識していない
ビショップは「アロン神権」でしかないのに、何故に会員の心をコントロールしようとするのだ
彼らは「警察」にすぎない。タラブルが起きた時に仲裁する権能しかないのだ
彼らの罪は、非常に重い
永遠に許されることはないだろう
・クルー
・トレーナー
・スター
・スウィングマネージャー
バイトの中で能力を認められて出世して、意欲向上に繋がるのですね
でもまぁ、所詮はバイト、決して正社員ではありません
モルモンのビショップも同じですね、所詮は言われたことを手引きどおりに行うだけ、教会の意思決定には参加しません
いやむしろ単なるリソースの一つじゃないかな? 必死こいてやるもんじゃないと思います
わたしも気になったw
このような説明ありました。
https://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-husband-one-wife.html
Q; Iテモテ3:2の『ひとりの妻の夫』という言い方は何を意味しているのですか?
離婚した男性が牧師、長老、あるいは執事として奉仕することができますか?
A;テモテ3:2の「ひとりの妻の夫」という言い方の解釈には最低3つの可能性があります。
1)ただ単純に一夫多妻の人は長老、執事、また牧師として認められないと言っているという解釈。これは、もっとも文字通りの解釈と言えますが、
パウロがこの手紙を書いていた時代に一夫多妻は非常に珍しかったことを考えると、これではなさそうです。
2)この言い方は「ひとりの女性だけの男性」とも訳することができます。
これは監督が、自分が結婚している女性に絶対的に忠実でなければならないことを示しています。
この解釈は、既婚かどうかのステータスよりも、道徳的な純粋さに焦点をあてています。
3)この言い方は、長老・執事・牧師になるためには、妻と死に分かれて再婚したのではない限り、
男性は一度しか結婚してはならないという意味であるともとることができます。
今日2)と3)の解釈がもっとも行きわたっています。2)の解釈がもっとも有力と思われます。
___
この「一人の」ってわざわざ断るところがモルモンのトラウマなのですかね?
それとも、翻訳の問題?
あ!モルモン書じゃなかった!
数年経つと・・・
一人の夫の妻であり・・・の変わるのかな?
>耳障りの良いウソばっか並べて信者集めしてるのがミエミエ
積極的にウソをつく人もいますが、そう言う人は確信犯でしょう、自分は正しい、間違っていない、との強烈な思い込みの元に発言している
または自分の言動について無自覚なのかも知れません
大多数のモルモン会員は、教会にとって評判が悪くなったり、印象が悪くなることは隠しますよね
あるいは教会の不祥事であっても、無茶苦茶アクロバティックな解釈を持ち出して、あれで良かったのだ、とか言いくるめようとしたり・・・
まぁ私も思い当たるフシがあるなぁ
>最初から、そういうように計画されているのだよね
日本の官僚機構にさも似たり。
様々な責任を体験し実績を積み上げた信者が生涯指導者である使徒職へ。
ある種の競争原理が働いているわけですな。
彼らは社会のエリートであり、良き父母家庭人であり、霊的指導者でもある。。。
東京スター銀行の頭取でもあったタッド・バッジ長老は人生をジャグリングに例えて家庭、宗教、仕事をバランスよく落とさないように。。。とか。
https://www.churchofjesuschrist.org/learn/l-todd-budge?lang=jpn
ーーー
1テモテ3:14(聖書協会共同訳)
この言葉は真実です。
「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」
ですから、監督は非難されるところがあってはならず、一人の妻の夫であり、
冷静でいて慎みがあり、上品で、客を手厚くもてなし、よく教えることができなければなりません。
酒に溺れず、乱暴でなく、寛容であり、人と争わず、金に執着せず、
自分の家をよく治め、常に気品を保って、子どもを従順な者に育てている人でなければなりません。
ーーーー
監督の職を求める人。。っていますかね?上昇志向が強いとか。。
良い仕事を望んでいる。 。。逆に悪い仕事って?ホワイトカラーが良い仕事?
監督は非難されるところがあってはならず。。だいたいの成功者は憎まれっ子世に憚る。
一人の妻の夫であり。。独身だっていいじゃない。
冷静でいて慎みがあり、上品で、客を手厚くもてなし、よく教えることができなければなりません。。。瞬間湯沸器で、下品で、人嫌い、レッスン下手。でもいい。
金に執着せず、自分の家をよく治め、常に気品を保って、
子どもを従順な者に育てている人でなければなりません。。。
リーハイとかどうよ?
ほー。愚痴ると確かにスッキリしたw
耳障りの良いウソばっか並べて信者集めしてるのがミエミエ
声高らかに叫んでも、わずか数年で解任されるのだから
意味無いよね
後任者は、継承なんてしないからね
「自分のやり方」を早々と押し出してくるから
一貫した運営なんてできないようになっているのだよ
最初から、そういうように計画されているのだよね
「分かる者には、分かる」ことだね
クォン・ヨンジュン長老は6月9日に指名され、7月19日に確認された。
彼は2020年から地域七十人として奉仕している。
「謙虚な心で命の声に耳を傾けていきます。法に関する議論には、
生活者の多様な声が調和して組み込まれるべきであり、
少数の人々の声が多数の人々の叫びにかき消されないようにしていきます。」
ーーー
アジアでも国やビジネス界で要職に就く人々が増えてきましたね。
教会でも多様な声が調和して組み込まれるべきなのでしょうね。
https://www.churchofjesuschrist.org/learn/area-seventies?lang=jpn
アジア北地域七十人。。日本人だと身近な人も。。(少しめんどくさいw)
キリスト教国韓国と日本が同じ地域で管理されている、
まぁ、日韓合同ワールドカップ的な?
日本末日聖徒の船頭は誰で、どこに向かっているのか。。
不肖教会歴半世紀のオムナイにさえ読めない。
シンプルに声高らかに方針を!
ジョセフ・スミスもオカルト大好きだった
これはマイケル・クインが著書で指摘している
もっともクインは当時のアメリカでは、民間信仰や呪術などとキリスト教が渾然一体となっていたため、それは特段批判される行動ではない、と書いているのですが
ジョセフは両親と共に、棒を使った魔術(まじない?)を行う宗教のメンバーだったこと、その中にオリバー・カウドリがいたことも調査して明らかにしている
しかしこうした調査の公表は教会幹部の不興えおを買うこととなり、後の破門に繋がっていったらしいです
正確で十分な情報を得られたら誰もモルモン教なんか入らんわな
まあ、良い視点だが、「危機」では全く無いのだよ
豚さんも知っている通り、コロコロ変わってきたよな
しかし見方を変えれば、変わったのではなく「消滅」しただけだよ
変更なんて大袈裟なものではない
指導者が変われば、前任者がやってきたことなんて「知らねー」だよな
それで良いのだよ
教会に「方針」とか「決まりごと」なんて無いのだよ
全部「管理者」に一任されている、何やっても良いのだよ
全ては「自由意志」だよ
地域会長は自分の好き勝手にやる
ステーク会長も自分の好き勝手にやる
ビショップも自分の好き勝手にやる
それで良いのだよ
まあ、互いの「自由意志」が衝突することもあるが、これも「また良し」
この教会は「古代イスラエル」と同じようなレベルなんだよ
教会員が、一生を「善男善女」として終えることができればそれで良いのだよ
だから「聖地巡礼」を重視しているのだよな
そうやって、暇な時間を聖地巡礼に費やす
これはどの宗教も同じだよ
指導者が変われば、それまでのことは「自然消滅」
それで良いのだよ
人生」
チマチマ書いておらずに、ガンガン行こうぜ !!
本当は、書きたいことが沢山あるのだろう ?
思い切り、語り合おうではないか
モルモンの危機は、目標がコロコロ変わることだ。(豚)
occult 神秘主義 超自然的なもの 隠されたもの
どちらもラテン語から来ていて、音はよく似てるけど、意味は全く違う。
ロマンチストかー。
私オムナイは楽天家(オプティミスト)かなぁ。
パレートの法則とうのがあって
https://www.nri.com/jp/knowledge/glossary/lst/ha/pareto_princ
「80:20の法則」ともいわれ、「売上げの8割は2割の社員に依存する」といった傾向をさす。・・
ーーー
宗教団体でも当てはまっていて、いわゆる「活発会員」は20%くらい。
ユニットが分割されても不思議と活発会員20%位になる。
逆にいえば、今まで活発に協力していた人もお休みの80%になる可能性もあるわけで・・
蟻や蜂の生態系でもそうらしいですね。
隠れた有能な協力者を見つけていかに一致できるかが肝ですかね。
人生
まあ、悪くはないが(笑い)
愚痴はもっと「具体的」な方がいいよ
その方が「自分の考えがまとまる」しさー
こんな短い文では
「クソ餓鬼の捨てセリフ」と同じだからさー
学校にいたころ「おまえは、わが校のくずだ」って言われた。
売れてきて有名になったから学校に行くと「あなたは、わが校のほこりだ」って言われた。
俺は、くずからほこりになった。
その後この漫才師は問題が発覚して、芸能界から姿を消した。
良い漫才師だった。
それだけで充分なのに、なんで良い人間であることを求めるのだろう。
面白いトークを聞けなくなって、いまだに残念に思ってます。
それは正解だろうね(笑い)
私の伝道中、初めての「宣教師大会」で日本人長老が15人位が集まって話をした
皆、スゲー「曲者」でさー
「俺はだれの助けもいらねーぜ」というオーラがすごかったよ
だから、会話も「当たり障りのない内容」ばかりでさー
「どうしたら伝道がうまくゆく」とか言うような話題なんて無しだよ
まあ、あの時代に専任宣教師になるくらいだから、「並みの神経」ではないよな
例外さんにそんなこと言われてもね
いいじゃん
信仰あるじゃん(笑い)
祝福士がそんな能力があるなんて思うのは、大した信仰だよな
まだ「やり直せる」よな
このサイトで、「肩の力を抜いて」おもいきり愚痴を垂れたら、スッキリするよ「
なるほど!大切な息子・娘を預かるのですもんね。
>今のような「ド素人宣教師」なんて使わないよね
>わずか二年で交代なんて馬鹿なことはしない
確かに!
>この時代は、「古代イスラエル」と全く変わるところはない
わたくしも最近そんな感じがしてます。
社会のいく末、人生のいく末の雛形を読んでいるよう。
個人的には協調性に欠ける人ほど伝道に出ているような。。。
はっ!なるほど。
伝道は協調性を学ぶ為?
清水の舞台から飛び降りる気持ちで縁を切ったのにこう言うブログに書き込むことないのでは?
>コンコルドシンドローム
知らなかった言葉です、なるほど、ですね
私の場合は、知り合いが来ておくれよと誘うので、一定の距離を保ちつつ出席している感じ
まぁモルモン教会離れたって天罰は下りやしませんし、教会に忠実であっても神の祝福などありゃしません
それが分かってて友人たちに付き合って教会に行ってる私って、めっちゃ愛が深いんじゃない?(笑)
そんな感じです
伝道部長の関心事はバプテスマではない
口では「伝道」と口走るが、心は宣教師が全員「任期を全うして親元に帰ること」
だから、任期半ばで帰る宣教師が出ることが、伝道部長の一番の悲しみなんだよね
教会がもし「伝道で成功したい」なら
今のような「ド素人宣教師」なんて使わないよね
わずか二年で交代なんて馬鹿なことはしない
教会は伝道なんてしない
「無駄な努力」であることを分かっているからね
この時代は「サタンの時代」神の教会は「息を潜めて」この時代が通りすぎるのを待っている
「真実誠の教会」が姿を現すのは、この時代が過ぎ去ってから
この時代は、「古代イスラエル」と全く変わるところはない
大昔と同じように「低レベルの戒め」「低レベルの教義」「低レベルの会員達」
それでいいのだよ
ただ、正直疲れるよね(笑い)
念垣さんから聞いて無いのかよ
そりゃーそうだろう
勿論、知っているだろう
しかし「知る=分かる」ではないのだよ
知ると分かるには、無限の隔たりがあるのだよ
全く「異質」のものなんだよ
必要なのは「分かる」ことだよ
まあ,簡単ではないがね
例えば、100人に同じ体験をさせて、100人から報告書を書いてもらえば、100通りの報告書ができるだろう
二通として、同じ報告書は出てこないだろう
こういうことは、我々は日常的に「分かって」いるよね
人はそれぞれ「見方」「考え方」が違うからそこから生まれる物は違っているのだよね
そんな「悲壮な覚悟」で物事を決断すべきではないのだよ
「道に迷ったら、動くな」これは鉄則だよ
だけど、皆さん必死に「道を探す」のだよね
そして谷底に転落してしまう
勿論「Unknown (オカルト嫌い)」さんも真剣に生きてきたことは分かっているよ
ただ、自分でも分かっているように、その決断には「余裕がない」よね
私みたいに、疲れたらこういうサイトで「愚痴でも垂れる」位の余裕をもっていたなら、人生は変わっただろうね
やっぱり。wさん参加するとコメント欄、盛り上がりますねぇ。
>専任宣教師にとって重要なのは伝道ではないのだよ
そーなんですか?
私、奈良兄弟から祝福受けたんですが、祝福文に、伝道には出ないだろう的に書かれていて。。」
運命に逆らってやるー。と息巻いていたんですが。。
祝福文はある意味怖しい。出られませんでした。
うーん。ミッションにチャレンジすることが重要なのですか?
修行的な。
ミッション:インポッシブル デッドレコニング映画館で観ました。
シリーズ最高作です!
是非。
年齢オムナイと同じ還暦過ぎてるのにノースタント。
変装マスクが。。いまだにそれ?w
https://eiga.com/movie/97229/
知ってるから口出してんだよ
清水の舞台から飛び降りる気持ちでモルモンと縁切った私にはモルモン教から逃げなかった輩を嘲笑う権利がある。
まあ、良いではないか(笑い)
「自分の知らない世界」のことには、余計な口出しせんことだよ
そもそも、当教会は「伝道しよう」なんて姿勢は全く無いしね
それは昔から同じだよ
口では「伝道」なんて言っている風だが、実際は全然だよ(笑い)
専任宣教師にとって重要なのは伝道ではないのだよ
馬鹿高い家賃の欠陥住宅の何処に積極的意味があるのかね?
留まらざる得ない人が残るだけなのであって。
コンコルドシンドロームでしょ。
何十年もモルモン教にか関わり続けて今さら辞めたりすれば笑い者にされるんじゃないかって自意識過剰とか
それからやっぱり今まで支払ってきた犠牲は無意味だったって絶望したくない
そんなとこでしょ
だってモルモン教会若い人が少ない。
嫌々通わさせられる二世を除くとね
「心の疲れ」を癒してきたのだよなー
私の信仰は、いささかも揺らぐことはないが、心は疲れることもある
そんな時、こういうサイトで愚痴を垂れるのは
なんとも有効なものだったよな
何十年もこのサイトを維持してきたNJさんに感謝だよね
今回はまさに「人生終了」と言って良い程の危機だったが
奇跡的とも思えるほどの回復を遂げているよ
まだ、体力面で回復途上ではあるが、やがて「当たり前のように」教会に復帰するだろう
そんな私だから、御霊は「好きにしたら」としか言わないのだよね
教会に行っても何も得る物はないが、姉妹の皆さんが
「元気なw」を待っているからね(笑い)
>「好きにしたら」だもんな(笑い)
>さあ、どうすべー
まさに。「Wの悲劇」
汝神(紙)に見放されたときは自らの手により運(糞)をつかめ!
「・・・好きにしたら」のあたり3行ほど。
(ここだけの話だけれど、かな?)
ハワイのマウイ島で起きた山火事は、依然として鎮火には至っておらず、
行方が分からない人たちの捜索が続けられています。
山火事の原因は特定されていませんが、アメリカの複数の有力メディアは、
強風によって切れた送電線が火元になった可能性があるという専門家の見方を伝えています。
今月8日にハワイのマウイ島で起きた山火事では、
ハリケーンに伴う強風にあおられて西部の観光地ラハイナが壊滅的な被害を受け、
これまでに確認された死者は96人と、
アメリカの山火事の犠牲者としてはこの100年あまりで最も多くなっています。
----
マウイ島の山火事未だ鎮火ぜずですか。
多くの犠牲者が出ているようで心配ですね。
オワフ島とハワイ島には昔行った事があります。
涼やかな独特の風は「乾燥」を意味しているのかも。
教会も迅速に対応しているようです。
https://newsroom.churchofjesuschrist.org/article/wildfires-maui-church-temporary-shelter-assistance
末日聖徒イエス・キリスト教会は、ハワイのマウイ島で今も燃え続ける致命的な山火事の影響を受けた人々に、
基本的なニーズと一時的な避難所を提供しています。・・・
次の取り組み
会員の指導者は、宗教的所属に関係なく、末日聖徒とその近隣住民に切望されている物資を配布する予定である。
ワード、家族、個人は、可能であれば地域の救援プロジェクトに参加することが奨励されています。
ーーーー
そういえば、聖典には多くの災害の記述(洪水、嵐)があるのに山火事は記憶にない気が。。
山(神殿)が燃える事象に抵抗感が働くのでしょうか。
だと思います。
健康な人Wさんには医者は要らないでしょうが、
Wさん自身が医者になるべきではあるんでしょうね。
教義と聖約の。。。どこだっけ。
あなたが自立したら助けが必要な人を助けななさい的な。
>集会では最前列に、ドカッツと座っているのだよね
それだけでありがたい存在です。
「真実の教会」であるなら、それらしい「光らしきもの」を僅かでいいからみたいものだよね
何十年経っても、神権会も日曜学校も同じ「初心者向け」レッスンをやってるし
会員達は聖餐会の話や証で「御霊をうけられるよう頑張ります」と飽きもせず言い続ける
それでも、諦めずに毎週、集会では最前列に、ドカッツと座っているのだよね
まあ、現状を見れば「40年一日の如し」なんだよね
ここに来て、人生全てを見直しているのだよね
入らない物は切る
そうすると、「教会に行く」は「切り捨てるべきもの」になるのだよね(笑い)
確かに距離は遠いし、何も得る物は無いし
私は毎日御霊の導きを受けて生活しているから、特に聖餐も神殿も必要無いし
「教会に行く」ことについて御霊と話をしたら
「好きにしたら」だもんな(笑い)
さあ、どうすべー
>しばし、お邪魔します、
まさか。。迎え盆で。。
霊界から一時帰宅!?
お帰りなさいませ。
>その間、教会に対して「満足」を感じたことは全くない
期待度高杉晋作では。
ポンコツの集まりが維新し続けることこそ唯一真の教会の証でごあんそ?
しばし、お邪魔します、
まあ、この問題は「昔から」だよね
そもそも、私が「掲示板」に参加したのが、この問題があったからだよ
その時は「実名」で書き込みしたもんだよね
私は「あじフライ」さんと同じようなスタンスだろうね
成長しない教会に対する怒り
それは、今日までいつも抱いている
そうやって、もう48年になる
私の「忍耐力」はすごいもんだよね(笑い)
その間、教会に対して「満足」を感じたことは全くない
今年になって、ようやく「一つのこと」について満足仕掛けたのだが、その後の会員達の反応をみると、やはり「失望」だよな
和の国チャンネル
7万 回視聴 5 日前
」https://www.youtube.com/watch?v=KPyCeJzCGhk
そうなんですか?意外ですね。
子供のころ田舎のおばあちゃんが、漬物に砂糖をかけてくれたのを思い出しました。
甘いものがなかった時代に育ったので、砂糖が最上のもてなしだったんですね。
でも、漬物に砂糖は・・・・。
そうらしいです。
1972年はバプテスマを受けた年なので少年だったにも関わらず、記憶に残ってます。
車が右通行から左通行になって大混乱とか。
https://www.amamibussan.jp/info/food/kagoshima-sweet-soysauce/
鹿児島の醤油は特に甘い!九州の甘い醤油の歴史とその理由
鹿児島の醤油が特に甘くなったのは戦後だと言われています。意外と最近ですよね。
戦時中、県内の多くの醤油工場が被害に遭ってしまったため、
戦後に大手ブランド(「ヤマサ」「キッコーマン」「ヒガシマル」など)が鹿児島に進出してきました。
大量生産・低価格が強みのこれら大手ブランドの醤油に対抗するため、
県内業者は新商品の開発に力を入れました。
それが鹿児島県民の「甘口の味付けを好む」という嗜好に合わせた、
甘い醤油の開発だったのです。
ーーーー
関東に出てきてお寿司の醤油の違いはびっくりしました。
何年かして関東の味になれた頃、鹿児島の寿司屋に入ると、
やっぱり寿司は江戸前だなぁ。と思いました、
とにかく薩摩料理は甘いw
焼酎は辛口らしいですが。
お茶受けに黒砂糖、黒糖ピーナッツ、げたんは(下駄歯)黒砂糖をまぶした麩
甘い醤油をかけた冷奴、砂糖を入れた麦茶、砂糖をかけた冷やしトマト。
懐かしい。
アルマ32:42
その実は最も価値があり
どんな甘いものよりも甘く、
亜熱帯海洋性気候で、大自然の恵みをたっぷり受け、手間ひまかけて栽培された良質のサトウキビだけが「那智黒黒糖」になるのです。
大切な主原料の黒砂糖は、奄美群島、弊社特約農園産のもので、厳しい品質管理のもとで最良のものを使用いたしております。
黒砂糖という大自然の恵みを、たゆまぬ研さんで歴史と共に作り育てた自信ある一粒です。
太地駅から徒歩2分の場所にある 那智黒総本舗。1877年(明治10年)に黒飴作りを始めた、黒飴一筋の老舗飴店です。那智黒とは、紀南の名産品のひとつとしても有名な「那智黒石(黒色の碁石)」をかたどって生まれた黒い飴=那智黒と名付けられたそう。昭和天皇、皇后両陛下がお買い上げされただけでなく、ウェブサイトによると著名人にも愛されてきたようで、 落合博満氏、きんさん・ぎんさん、嵐山光三郎氏、横内正氏が本社に訪問されているそうです。
32歳の私が「黒あめ那智黒」をはじめて食べたのは小学生のときだ。通っていた大阪の小学校では高学年になると和歌山県串本町へ1週間ほど水泳合宿に行くのが恒例で、最終日に海で1キロの遠泳をする。泳ぎ終えて陸にあがると、全員に那智黒が配られる。
・・
那智黒のはじまりは明治初期という。当時は新宮市の和菓子店が作っていたが、1955年に現社長の祖父が経営を引き継ぎ、「那智黒総本舗」を立ち上げた。だから那智黒のパッケージは「黒糖一筋 百有余年」とうたっている。
材料はたったの三つ。奄美群島にある徳之島の契約工場から届く黒砂糖、それに砂糖と水あめだ。甘味料や保存料は入っていない。
この三つを煮詰めていく。材料がシンプルだからこそ、火の入れ方においしさの秘密が詰まっている。この工程を前任者から引き継ぎ、十数年間、担当しているのは製造部係長の漁野哲志さん(55)。那智黒の味を守っている漁野さん自身が那智黒総本舗の「企業秘密」そのものなのだという。
漁野さんに秘密を少し教えてもらった。三つの材料を釜に入れ、30分ほど煮詰めていく。12個ある釜のひとつひとつにクセがあってわき方がちがう。その日の気温や湿度によっても変わるから、それぞれのわき上がり方に目を配り、味見をしながら火の入れ方を調整していく。
立ちのぼる湯気がけむりに変わり、ドロドロのあめがほんの少し焦げはじめたころ、金属製の台の上にバシャッと落とす。那智黒を口に入れたときに感じるほろ苦さは、このときにわざと少し焦がしているからなのだ。
台の上を流れていくあめを、従業員がへらで何度も返して冷ましていく。それを粒状にカットするとおなじみの味のできあがりだ。
この原稿を書きながら、一粒、口に入れた。甘くてやさしくて懐かしい味がする。小学生のころの思い出がよみがえった。(国方萌乃)
」
那智黒 黒糖 起源
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%82%A3%E6%99%BA%E9%BB%92%20%E9%BB%92%E7%B3%96%20%E8%B5%B7%E6%BA%90&ei=UTF-8
『商人の遺伝子(15)紀州商人』 加来 耕三 なんてのも・・紀州人すごそう・・
紀州 徐福
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E7%B4%80%E5%B7%9E%20%E5%BE%90%E7%A6%8F&ei=UTF-8
WEBさんは、「奄美群島」で、鹿児島の黒糖。
NJさんは「沖縄の黒糖」?
終戦と前後して、宮古島諸島、八重山諸島、奄美群島、トカラ列島、は、「琉球列島米国軍政府」に吸収され、その後1950年12月15日に「琉球列島米国民政府」に改組されてます。
たしか、1972年の沖縄返還までアメリカの統治下にあったと思います。
(オムナイさん間違っていたら訂正をお願いします。)
話を戻しますが、「那智黒」というのは飴の名前になる前は囲碁の石(黒)として有名でした。今でも有名ですが。
紀伊半島の最南端に有る飴屋さんがどこで奄美の黒糖と繋がったのかがすごく気になります。
WEBさん、知ってたら教えてください。
「おいしさの決め手は「那智黒黒糖」。奄美群島の自然に育まれた、恵みの結晶です。
黒あめ那智黒の主原料は「黒砂糖」。ひとくちに黒砂糖といっても、その品質はさまざまです。
最上質の黒砂糖を求めて私たちがたどりついたのは、サンゴ礁に彩られた奄美群島徳之島。
亜熱帯海洋性気候で、大自然の恵みをたっぷり受け、手間ひまかけて栽培された良質の
サトウキビだけが「那智黒黒糖」になるのです。」
https://www.nachiguro.co.jp/hpgen/HPB/categories/24022.html
徳之島 卑弥呼
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%BE%B3%E4%B9%8B%E5%B3%B6%20%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC&ei=UTF-8
https://news-jp.churchofjesuschrist.org/article/08012023-church-begins-offering-its-magazines-at-no-cost-jpn
2023年 8月 1日 - ソルトレイクシティ ニュースリリース
教会,無料で機関誌の提供を開始する各世帯は,3種類の全世界向け機関誌(『リアホナ』『フレンド』For the Strength of Youthー青少年の強さのためにー』)
すべてが定期的に届くように申し込むことができる。
2023年8月1日より, 教会アカウント をもつ特定の地域の人々は,
だれでも次のうちの1種類または複数の種類の教会機関誌の1年間の無料提供を,
各世帯1冊ずつ申し込めるようになる。
ーーー
あ。1年間ね。ですよね。
1年経過後はサブスクになるとか。。ありませんように。
ありがとうございます。
思い止まれそうです:->
この種の書籍は最新の研究成果が、その道に詳しい研究者の論文を集めた形で読める点、魅力的ですが、各テーマを網羅的に書いているとは限らず、その点限定的です。
またそれほど興味をひかない論文も合わせて掲載されていることも覚悟しなければなりません。
>1 “Foundational Texts of Mormonism: Examining Major Early Sources,
” edited by Mark Ashurst-McGee, Robin Scott Jensen, Sharalyn D. Howcroft, Oxford University Press, 2018.
Amazonでキンドル版でも1万円超します汗;
長めのサンプルで我慢w
しかし、目次を眺めるだけでも素晴らしい、欲しくなる。
転がる粗石のブッシュマンさん、モルモン書を理解するのハーディーさんなど、
末日聖徒一流の学者さんが並びます。
1. はじめに-マーク・アシャースト=マクギー、ロビン・スコット・ジェンセン、シャラリン・D・ハウクロフト
2. 基礎的テキストとしての金版
リチャード・ライマン・ブッシュマン
3. 本文批評とモルモン書
モルモン書-グラント・ハーディ
4. 間テクスト性とジョセフ・スミスの新訳聖書の目的
スミスの新訳聖書
トーマス・A・ウェイメント
5. ジョセフ・スミスの黙示録の口述、編集、正典化_GRANT UNDERWOOD
6. ジョセフ・スミスのミズーリ獄中書簡とモルモンのテキスト共同体・・・
ーーーー
サンプルからブッシュマンさんの2、基礎的テキストとしての金版をDeepLしてみます。
ーーー
モルモン教の基本テキスト(英語版)
2. 基礎的テキストとしての金版 リチャード・ライマン・ブッシュマン
ジョセフ・スミスは,モルモン書は「わたしたちの 宗教の要石」であると言いました。
スミスの出版物の中で最初にして最大のものであり、宣教師が初めて宣教地に赴いたときに
携えたメッセ ージでもあるモルモン書は、19世紀に誕生した数多くの他の宗教からモルモン教を引き離 し、
・・・
モルモン書の重要性は時を経ても衰えていません。
むしろ、教会の歴史を通してモルモン書の影響力は増してる。
懐疑論者の批判は末日聖徒にとってモルモン書の重要性を低下させることはなく、
聖書への信仰が薄れてもモルモン書に波及することはない。
モルモンは、1830年にモルモン書が初めて出版されたときよ
りも、
現在の方がモルモン書に傾倒しているのです。
・・・
モルモン書の内容は非常に論争的であるため、
さまざまな立場の読者がモルモン教について合意できることはほとんどない。
基礎となるテキストプレートによってすべてが 疑わしくなりました。
それはモルモン書を幻想的な領域へと押しやったのです。
プレートの物語がなければ、モルモン書は才能ある民間の作家 が夢想した
単なる文学的フィクションのように思われたでしょう。
モルモン書は、1812年にオハイオ州の洞窟で発見された写本から翻訳されたという
独自の架空の背景ストーリーを持つ、コイアン ビア以前のアメリカを訪れたローマ人の航海者を描いた小説、
ソロモン・スポルディングの『写本 発見』と同類に分類されていたことでしょう。
天使と金の板が加われば、モルモン書は陰湿な詐欺となる。
ウェイン・センチネル紙の記者は、この問題全体を「重大な押しつけであり、
さらに重大 な迷信である」と呼んだ。
ジョセフ・スミスは、天使から届けられた異国の芸術品が
人々の目に触れることはなかったという自分の話に固執することで、大きな危険を冒しました。
ジョセフ・スミスは、自分自身の信憑性、『聖書』の歴史性、
そして『聖書』から読み取ることができる 聖書の真実性を危険にさらしたのです。
・・・
モルモン書の基礎となるテキス トに関する一般的な曖昧さは、
モルモン書の内 部では解消されています。
原版の存在や翻訳の性質に関する不確かさとは対照的に、
モルモン書は原版に刻まれたテキストの作成について驚くほど正確に述べています。
一旦読者が本文の中に入り、背景となる物語についての判断を保留すれば、
本文は寛大にも自分自身を説明 してくれる。
自分たちが作ったものであることに、これほど自覚的な書物もないだろう。
歴史小説と見なされても、この本は自らを照らし出している。
ーーーー
やばい。。購入してしまいそうだw
「OUR Op Ed No. 23: SATANIC RITUAL ABUSE ALLEGATIONS
Lynn Kenneth Packer
7,775 回視聴 2022/10/26
」 https://www.youtube.com/watch?v=FdHBP9DHXbk
Lynn Kenneth Packer氏は1980年代の記者時代、教会幹部のポール・H・ダン七十人のウソまみれの経歴披露話や投資詐欺等等暴露で教会中央からの圧力で解雇に・・
「投資詐欺 「ポール・H・ダン」スキャンダル 2020年12月13日
」 https://ameblo.jp/exmormon/entry-12643848295.html
「大ウソつきだったモルモンリーダー 「ポール・H・ダン」 2019年03月26日
」 https://ameblo.jp/exmormon/entry-12449750026.html
「ダンは18歳でドラフト指名され、セントルイス・カージナルスとプロ契約を結んだと主張した。 どちらも真実であるはずがない。 現実には、どちらも真実ではなかった。 ポールが18歳のとき、徴兵年齢は21歳だったが、議会はすぐに年齢を引き下げ、ダンは19歳で徴兵され、20歳で兵役についた。 ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ウィリー・メイズ、テッド・ウィリアムス、ジョー・ディマジオといった偉大な投手たちと投げ合ったと言っていたにもかかわらず、ポール・ダンはマイナーリーグで1週間だけプロ野球選手としてプレーし、その後解雇された。 野球にはいくつかのレベルがある: AAAはメジャーリーグのすぐ下にあり、その後AA、A、B、Cと続く。
彼と一緒に従軍した人たちが証明しているように、彼は実際に戦闘任務に就いたことはない。 彼は、浅いキツネ穴で身動きがとれなくなり、日本軍の戦車がアメリカ兵を轢き潰した話をした。 戦車はどういうわけかポールを地面に固定し、ポールはヘルメットで動けなくなった。 戦車は奇跡的に反転し、ポールの命を救った。
そんなことはなかった。
ポールは、周囲に死者が浮かぶ中、水をかき分けて歩いたと話していた。 ジャップを殺したことを話した。 親友のハロルド・ブラウンを抱きしめてハロルドが死んだと話していた。 しかし、リン・パッカーはハロルド・ブラウンと話した。
」 deepl - - https://mormonheretic.org/2016/08/15/lying-for-the-lord-paul-dunn/
tim ballard russell ballard
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=tim%20ballard%20russell%20ballard&ei=UTF-8
「上記のツイートではティム・バラード氏がモルモン教のトップのラッセル・バラード氏と血縁関係にあるとしています。 ・・
1つ目はティム氏もモルモン教徒だということです。
2つ目は、二人は知り合いであり、ティム氏はラッセル氏を尊敬しているそうです。
3つ目は、二人ともユタ州の出身で、それぞれの都市間の距離は70キロほどです。
」
https://qryptraveller.com/is-the-investor-of-the-sound-of-freedom-a-person-who-is-in-bed-with-ds-an-in-depth-investigation/
バラード ブログ内検索
https://cse.google.com/cse?ie=UTF-8&q=%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89+site%3Aplaza.rakuten.co.jp%2F555yj&cx=002636997843861491696%3Av3cnak5qsac&siteurl=plaza.rakuten.co.jp%2F555yj%2Fdiary%2F202307300000%2F&ref=plaza.rakuten.co.jp%2F555yj%2Fdiary%2F202307060000%2F&ss=
サウンドオブフリーダム バラード モルモン
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%A0%20%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89%20%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%83%B3&ei=UTF-8
ティム・バラード氏も脚色多しで、実際に子供たちを救出としたいったのも作り話、疑わしいという・・
「PACKER OUR REPORT 30: Exposing the Sound of Freedom hoax
Lynn Kenneth Packer
2858 回視聴 4 日前
」 https://www.youtube.com/watch?v=Cvx1gaZyfxg
>しかし、それは教会の方針や我々信者の信仰のあり方の責任ではないと思ってます。
>有り体に言えば時流であり、その情勢の中で最善を尽くして、
よく耐えていると思ってます。
モルモン教会から人が離れていくのは、彼らが教会を必要としないからです
教会が彼らの必要としているものを与えていない、もしくは元々そんなものは存在しない、のどちらかです
パンを求める子供に石を与え、魚を必要としているのにへびを与えれば、去っていくのは当然
それもまた時流と呼べるかも知れませんが、結果として石とへびの大好きな子供たちが残っているのがモルモン教会です
>あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。
愛し合いなさいと命令されなければ、人を愛せない人たち、それがモルモン教徒ですか?
申し訳ない。
勝手に還暦学習プログラムに組み込んでいます(66;
お気づかないなく。
FB&Xも拝見してます。
セミナリー、インステとも劣等生。
そういえばセミナリー、インステ共、学生のカリキュラム。
大人の福音学習プログラム欲しいところですね。
>NJさんは、良い人間関係を重視して生きてるので、健康で幸福に暮らしているんですね。
そうだといいんですが、なかなかそれがよくできていないで悩み多き凡人です。
オムナイさん、
モルモン書について理解を整理し直す(間テキスト性、物語り論)のは、そう簡単ではなく短い中間報告みたいなものになりそうです。
平会員として研究者さんや学者さんの成果を学ぶことは、
福音理解に奥深さを与えてくれます。
他力本願な偽預言者m(__)m
昭和訳
人類が現世に在るのは幸福を得んためである。
men are, that they might have joy.
DeepL
人が存在するのは喜びを得るためである。
happiness(幸福)ではなく joy(喜び)なんですね。
人生をenjoyすることこそ生きる目的そのものなんでしょうか。
2ニーファイ2:25
平成訳
人が存在するのは喜びを得るためである。
昭和訳
人類は幸福を得ん爲現世に在るなり。
明治訳
人類は幸福を得ん爲現世に在るなり。
ーーー
教会は人生で幸福を得るための教育機関なのだと思ってます。
戒めを守る、実践するというのは最も大切な掟、隣人愛を身に付けるためであって、
それ自体に人を幸福にする力はないでしょう。
昔流行った「サンデークリスチャン」で戒めを守る良き末日聖徒であっても、
家庭や社会の人生での生活に活かせなければ幸福にはなれないでしょう。
最も大切な戒めを実践できなければシオンは具現化されないと思ってます。
>特定の宗教を是認・擁護することも否定もすることもなく、その宗教や教えをまた社会における存在意義などを吟味する宗教社会学の視点で臨みたいものだと考えます。
ある研究によると「健康で幸せな人生を送るために必要なのはよい人間関係だ」と。
NJさんは、良い人間関係を重視して生きてるので、健康で幸福に暮らしているんですね。
確かに良好な人間関係は、ストレスも少なく幸福に生きられる。
と言う人もいる。
しかしながら、世の中には、特に日本では「良い人間関係」を構築しようとして逆にストレスを抱え込んでしまう人が多い。
確かに人間は社会の中で生きていて、自分一人ではできないことを、社会から(自分以外の人間から)助けを受けている。
人は交流しあい助け合うことで生活が出来、ある意味そのことで幸福感を得ている。
自分が社会の中で出来る事があり、必要とされていると思えれば生きる希望が湧いてくる。
ふと考えると、モルモン社会というのはその人間の習性をうまく利用しているのではないか?そんな気がする。
すべての活発会員に召しを与え、何らかの役割を担わせる。
相互に干渉しあい助けってるような雰囲気を出す。
確かに幸福な集団かもしれない。
ただ、幸福になるためには、掟に忠実でなければいけない。
最初にモルモン経を読んだときに「長男が悪役で下の子が善人」というのは昔話の典型みたいだって思いました。
長男の権限を重視するユダヤ教の聖典で、いきなりカインとアベルの話が出てきます。
ダビデは末っ子でヒーロー
でもイエスは長男ですよね?
終了となったステーク・地方部
2022
Asahikawa Japan
Osaka Japan North
Osaka Japan Sakai
・
Kushiro Japan
Fukuchiyama Japan
2021
Musashino Japan
Saitama Japan
Fujisawa Japan
http://ldschurchgrowth.blogspot.com/
もう数年前からそうなる兆候があったということかなぁぁ・・
間テキスト性 intertextuality も、物語り論もそれらに照らせば、BofMがどんなふうに理解できるか、整理しなおさなければならないと感じています。
奈良瀞爺。。今昔物語の底流に静かに流れる爺様の知恵とか?
Wiki
物語論(ものがたりろん、ナラトロジー、英語:narratology)は、
物語や語りの技術と構造について研究する学問分野である。
・・・
語り手は、作者とは区別される。現実世界に肉体を持って存在する作者(作家)とも異なるし、
表現から再構成される作者(内包された作者 implied author・暗黙の作者)とも区別される。
語り手は言葉によって状況・事象を物語るが、内包された作者はそうではなく、
語り手によって物語られた言葉の選択や配列の責任を持つのみである。
ーーーーー
https://archive.bookofmormoncentral.org/content/narrative-criticism-and-book-mormon
この論文は、モルモン書の解釈の好ましい方法として、
最近の文学解釈ツールである物語批評の使用を提案しています。
・・・
これらの聖句を理解するためにサムエルの勧め、嘆き、預言の内容に焦点を当てる代わりに、私は周囲の物語を解釈し、
それがサムエルの談話の教義的内容を印象的に補完するものであることがわかります。
ーーーー
むむ。難しいですが、
グラント・ハーディさんは「モルモン書を理解する」の中でより深く読む方法を提示していますが、
narratology (物語り論)も使って説明しているのかもしれません。
例えばレーマンとレミュエルVSニーファイとサムエルと対立する
兄弟グループがいますが、レミュエルとサムエルの発言が極端に少ない。
これは実際に行われた会話を金板に刻んだ訳ではなく、
作者が伝えたい役割をレーマンとニーファイに語らせている的な分析をしていました。
興味深い。
そういう読み方をすると聖書やモルモン書は何を教えたいのか?
という視点で読むことができるということでしょうか。
究極というより普通なのではないでしょうか。
ビショップはアロン神権の祭司定員会の会長ですからね。
つまり、ビショップリックはまだ自立していないメンバーの自立助けるのが重要な責務と言えるのかも。
家族の家長は家庭のビショップであり子供たちの自立に責任があるのと同じな認識です。
ユニットの神権役員は持ち回りみたいなもので皆、指導者ですからね。
私は自立できていない頃から兄弟姉妹に育てていただいたので、
教会というシステムの中で何某かの協力するのは、恩返しというか当然の責務というかある種の使命感を感じています。
物質的かつ霊的な自立の原則を応用するときに,世界中の会員は祝福を受けます。 ... 会員は,自立支援訓練で用いられる動画や資料を
自立とは,自分と家族のために,霊的および物質的に,生活に必要なものを供給する能力であり,決意であり,努力です。会員の自立の度合いが高まれば,もっとよく奉仕できる ...
自立の計画をする際にわたしたちが行う最初のステップは,救い主に頼ることです。わたしたちの信仰が主に向いている時,わたしたちの思いと手は働く準備ができています .
」
lds 自立
https://search.yahoo.co.jp/search?p=lds%20%20%E8%87%AA%E7%AB%8B&ei=UTF-8
究極の自立は、教会やビショップリックからの自立も含む??!!
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/73699
米国ではいま、多くの教会が急速に閉鎖に追い込まれている。
米国人がキリスト教から離れ始めているからである。
米社会でいったい何が起きているのか。
http://www.kirishin.com/2023/07/11/61194/
〝所属なき信仰者〟の実態に迫る 教会は「停滞」から「衰退」へ 2023年7月11日
礼拝出席30人以下の教会が過半数
「キリスト教シンパ層」の存在を明記
都市部と地方の教会の格差、少子化と信徒の高齢化、価値観の多様化による一致の難しさが進みました。
そのあたりで足踏みしているところをコロナ禍に襲われたのです」
ーーーーーー
末日聖徒だけの教勢を見ると確かに成長率、礼拝出席数とも停滞と言えると思います。
アジフライさんが若かった頃の活況は将来の日本の末日聖徒では復活しないと思います。
しかし、それは教会の方針や我々信者の信仰のあり方の責任ではないと思ってます。
有り体に言えば時流であり、その情勢の中で最善を尽くして、
よく耐えていると思ってます。
>礼拝出席30人以下の教会が過半数
と言う時代は来るかもしれませんが、今ではないですね。
こちら興味深かったです。
http://repository.seinan-gu.ac.jp/bitstream/handle/123456789/501/hs-n7v1-p139-162-fuk.pdf?sequence=1&isAllowed=y
クリスチャンは、教会の本質に属し、教会とは何かという自己反省的な問いを伴いながら、
常に「新しい教会理解」によって規定されねばならない、と主張します。
教会とは何かとクリスチャンとは何かという2つの問いは連動しているのです。
・・・
彼らは何らかの理由で積極的に教会に行こうとしません。
その代わり、例えば、一人で聖書を読み、祈ることを大切にし、
個人的にキリスト教を信じている(自称「クリスチャン」)と考えています。
このような人たちのことを「キリスト教シンパ」、もしくは「キリスト教シンパ層」と呼びます。
彼らのもつ信仰は、教会の公の場で告白されたものではなく、
個人的な、キリスト教に対する、またはイエス・キリストへの思いがベースとなっていると考えられます。
・・・
このような人道主義を基礎とした個人主義的社会では、
共同体の形成は困難である、と指摘します。
つまり、自分一人で聖書を読み、キリストを信じるだけではよろしくない、
キリスト教は、お互いに愛し合うことを大切にし、人と人とのつながりや共同体、そして、それは教会をつくっていくものだと理解できます。
ーーーーー
最後の晩餐での主の言葉、
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。
互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネによる福音書)
黄金律どすなぁ。
末日聖徒の共同体は多くのユニットでこれを実現できているように思います。
教会に出席するしないに関わらず、ここに指標を置くべきでしょうね。
うぐぐ。。また聞きなれない言葉。。
いだだきます。(食傷気味)消化できるか。。
豚師匠:しょうかしょうか。(と言うであろう)
。。210くらいまでw
https://www.thegospelcoalition.org/themelios/review/reading-between-texts-intertextuality-and-the-hebrew-bible-literary-currents-in-biblical-interpretation/
間テクスト性とは何ですか?
これは、最近まで多くの聖書学者が問うことのなかった質問です。
・・・
この斬新な視点は、歴史的発展や影響の問題に邪魔されずに、
別のテキストへの言及からさらなる重要性を引き出す 1 つのテキスト内のさまざまな要素を
議論することに興味がある批評家にとって、非常に貴重であることがわかります。
・・・
従来の現代の文法史的解釈よりも古代および中世の聖書解釈にはるかに近いことを認識することが重要です。
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https://ldsperspectives.com/2018/08/22/intertextuality-book-mormon/
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BYU の学部で古典を専攻していたフレデリックは、モルモン書のインターテクスト性を研究することに興味を持ちました。
彼は自分が発見したことについて他の学者と議論したいと考えていましたが、
モルモン書の歴史性を攻撃していると考える人々からの抵抗に遭遇しました。
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モルモン書の新約聖書の要素についての議論を、それらが単に歴史性について語っているか
どうかという議論を超えて拡大したいと考えています。
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私たちはモルモン書について、弁明や歴史性を否定する方向に傾斜していない優れた学術的研究の道がないことに少し不満を感じていました。
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あれ?ちょっとだけ理解できます。NJさん、師匠の指導の賜物ですね。
最近引用した文書にこうあります。
>
私自身はジョセフが実際に英語の言葉を見たと信じていますが、
ジョセフが見た英語のテキストは文字通り物理的な道具ではなく、心の目で見たものであった可能性もあります。いずれの解釈においても、・・・
>
私(オムナイ)もモルモン書の歴史性を信じていますが、
ジョセフ・スミスの心で解釈したと言う意味での啓示の可能性もあると思っています。
イエスと弟子たちは、自分たちの教えを裏付け、キリストにおける自分たちの成就を実証するために、
旧約聖書の一節を頻繁に参照したり引用したりしました。
歴史的事実としてはそのように発言、書き留めはなかったかもしれない。
しかし、新約聖書が素晴らしい聖典であることには変わりない。
同じことがモルモン書にも言えると言うことでしょうか。
了解しました。共通項です。
>私のような人間が残っている理由、・・この辺はまだNJさんも事実が見えておられない
はい、だいぶ理解できて良かったと思っていますが、仰るとおり対面で存じ上げないこともあって、豚さんのことが分っているようにはいきません。
私は多分に観察者、研究者の見方がにじんでいると自覚しています。
率直なコメントを有難く読ませていただきました。
具体的に誰のことを言わんとしているのかわかりませんが、私に関しては『脱信仰の心境』にはありませんよ
例えば、聖書には歴史的事実でない伝承や、後代の創作もある、と理解しながら信仰生活を続けているクリスチャンは大勢おります
同様に、モルモン書はジョセフの創作であると理解しながら信仰生活を続けているのが私なのです
私は青少年時代に改宗した人間ですが、当時、どこのワードにも若い人が多く活気に溢れていました、しかしせっかく縁あって改宗した人たちがどんどん去っていくのを見て、何とかしたいものだと常日頃思って来ました、それで、ようやく問題があるのは教会の側だと結論に至りました
教会批判することがあるのはそう言う思いに基づくものです
・・・とこうやって率直な心情を吐露すると、決まって「私は現在の教会の状態こそ未来に向かっていると思います」的な言いがかりをつけて来るアンポンタンがいるのですね、当然、応酬ですね
まぁそれはともかく、教会を去るか留まるかは、教会が真実かどうかじゃないですよ、教会が嘘をついてきたから、と言うのでもないです
それは表面的な理由であって、本心じゃない、でないと私のような人間が残っている理由が説明できないでしょ? この辺はまだまだNJさんも事実が見えておられないなぁと思います
やっぱ真偽の判断はおいておけないですね。
民主主義っていうのは、「反対しない」っていうのは「賛成」の数の中に入れられてしまうんですよ。
だから、NJさんも「忠実で熱心な会員」の一人になってる。
私みたいにいちゃもんばかりつけてる人間でも、定期的に教会に行ってると、熱心な信者になってるんですよ。多分数字上は。
私も、オムナイさんも、あじフライさんも、「活発会員」の数の中に入れられてる。
オムナイさんが「末日聖徒は他の教会に負けていない!」って言ってる時の数の中に私も入ってるんですよね。(今度から抜いといてね)
ま、私もそれぐらい教会に貢献してるんですから、レッスンの時に少しぐらいきつい突っ込みを入れても赦されるって思います。
ま、その楽しみの為に行ってるって気もしますけど。
私が教会に行く理由なんてそれぐらいしかないんで。
それぞれに、それぞれの理由がある。
会社に属するのも、「収入を得るため」だけではない。
学校に行くのも勉強のためだけではない。
家族だって、愛だけで繋がってるわけでもない。
モルモンがモルモンである理由も各自違うはずだ。
「信仰」といっても。モルモンの場合、そもそもが、入信時点で正確で十分な情報を与えられていない。
教会側は、たぶん「十分な情報は必要ない」と考えてるのだろう。
理性的ではなく「御霊の導き」という不条理なものを納得した気分にさせればいいだけだ。
ただ、人間の習性として、一度属してしまうと抜けようとは思わないのだと思う。
入るのは簡単だが、出るのはけっこううっとおしいことになるから。
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ありがとうございます。
末日聖徒の信仰に心を寄せる側にも同じことが言えると思います。自戒して今後も勉強させていただきます。
ダイアログ誌のブログBCCのアバウトページを思い起こさせます。
https://bycommonconsent.com/info-contact/
当サイトについて
By Common Consent (BCC)は2004年にモルモンのグループがモルモンのトピックを投稿し、議論するための思慮深く、楽しく、合理的な場所を提供するために始めました。
時を経て、このビジョンを共有する新しい投稿者が加わりまた。
私たちは真実、理性、正直さを求め、信仰についての見解を述べています。
しかし、BCCはモルモンでない人も含め、すべての人のための慈愛に満ちた話し合いの場です。
過去の投稿を読んだり、議論に参加したりすることをお勧めします。
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奇しくもこちらのブログも2004年スタート。
ブッシュ大統領の再選に抗議して3ヶ月お休み宣言。
勇ましい!
当初はコメント欄0(ゼロ)が多いですね。
20年の継続、素晴らしい。
いつも貴重な情報を有難うございます。
2023年5月19日
末日聖徒イエス・キリスト教会の信者は、宗教性、礼拝出席率、その他の指標において、アメリカ人の中で最も高いランクにある。
しかし、調査に対するモルモンの回答は、他のいくつかの分野では宗教性が弱まっていることを示しており、結果はまちまちである。
PRRIの調査は2022年8月に行われ、アメリカの成人5,872人を対象に行われた。どんな小さなサブグループでも誤差は大きいが、この結果は示唆に富んでいる。
まず、多くの米国末日聖徒が朗報と考えるであろうこととして、末日聖徒は、祈りを捧げ、少なくとも年に数回は教会に通い、宗教指導者と面会する人の割合が、
どの宗教よりも高いということで、1位または同率1位となった。
..
「末日聖徒は、世俗化の影響から免れることはできないでしょう。とデックマンは予想外の発見について語った。
全体として、私たちは社会学者がアメリカ社会で "宗教の変化 "と呼ぶものを発見したと思います。
宗教的伝統を変えるアメリカ人が増えており、それは末日聖徒にもある程度追いついています」。
広範な世俗化が根本的な理由であることに加えて、もう一つ考えられるのは人口動態である。とデックマンは言う、
モルモンは他の宗教グループよりも若い傾向があり、GenZの脱会率は一般人口よりもはるかに高い。
ですから、年齢が要因であってもまったく不思議ではありません」。
」
DEEPL https://religionnews.com/2023/05/19/one-in-four-us-mormons-has-thought-about-leaving-the-lds-church-study-shows/