モルモン教徒には「知恵の言葉」と呼ばれる戒めがあって、アルコール飲料、タバコ、コーヒーなどをのまないことで知られている。さらにお茶まで飲まない。しかし、初め飲まないように言われていたコーラ飲料が、いつの間にか飲んでもよい状況になって今日に至っている。それで、お茶より遥かに健康によくないと思われるコーラを飲んでもよいのなら、お茶はまして問題ないはずである、というのが私のかねてからの持論である。
最近中国の本を買って目次を見ると、中国人はもっと声をあげてもよいのではないかという章が目に留まった。そして、5月の断食証会(中国における電話形式のlds支部)で一人の会員(アメリカ人、英語教師)が普段からお茶を飲まないと言っていると、生徒たち(中国人)がある宴会の席で皆で代わりに言ってくれた、と証していた。それを聞いて、お茶のことねえ、と私は嘆息したのであった。
だいぶ前のことであるが、日本にいるアメリカ人の会員たちが運営していたネット上のサイトで、日本人の教会員がお茶を知恵の言葉で禁じられた飲み物として飲まないでいるのは、見ていて可哀想である、と書いていた。
コーラは、飲まずにおれないアメリカの会員たちが粘って執拗に教会に働きかけて、禁止項目からはずさせたものと私は見ている。そこで私は、お茶についておやっと思う日本の会員たちももっと声をあげてよいのではないか、と思っている。お茶は教義と聖約の本文に現れていない品であって、むしろ健康によいという見方もあるくらいで、極東の諸国で広く嗜まれている飲み物である。文化的な配慮からいっても再考、再検討が行われて然るべきではないかと思っている。少し前、ハワイの会員がお茶が健康によいと聞いて取り寄せたいと言っているという話が耳に入った。
(この項、典拠、参考記事、問題となる声明などあげずに書きおろしたエッセーである)
[付記]
1.「佐藤龍猪は、柳田姉妹に知恵の言葉に緑茶を入れたのは、失敗だったと漏らしている。この話は私が「日の出る国と共に」を編集している時、柳田姉妹から直接聞いたものです。」(津田政博、2013/1/29 Facebook)
2. 同様の話を聞いたことがある、と私の息子沼野範実も語っている。(高槻市、治郎宅で 2013/1/31).
3.「佐藤瀧猪兄弟の日本茶に関するコメントで言えば、僕も本人から日本で日本茶がだめになったのは自分のせいだった、間違えだった、生きてる限りそれを広めらるだけ広めると言って、初対面の僕にもその話をしてました。」(Steadie Saneyoshi, 2013/02/05 Facebook)
4. Leonard J. Arrington, "An Economic Interpretation of the Word of Wisdom." BYU Studies.
最近中国の本を買って目次を見ると、中国人はもっと声をあげてもよいのではないかという章が目に留まった。そして、5月の断食証会(中国における電話形式のlds支部)で一人の会員(アメリカ人、英語教師)が普段からお茶を飲まないと言っていると、生徒たち(中国人)がある宴会の席で皆で代わりに言ってくれた、と証していた。それを聞いて、お茶のことねえ、と私は嘆息したのであった。
だいぶ前のことであるが、日本にいるアメリカ人の会員たちが運営していたネット上のサイトで、日本人の教会員がお茶を知恵の言葉で禁じられた飲み物として飲まないでいるのは、見ていて可哀想である、と書いていた。
コーラは、飲まずにおれないアメリカの会員たちが粘って執拗に教会に働きかけて、禁止項目からはずさせたものと私は見ている。そこで私は、お茶についておやっと思う日本の会員たちももっと声をあげてよいのではないか、と思っている。お茶は教義と聖約の本文に現れていない品であって、むしろ健康によいという見方もあるくらいで、極東の諸国で広く嗜まれている飲み物である。文化的な配慮からいっても再考、再検討が行われて然るべきではないかと思っている。少し前、ハワイの会員がお茶が健康によいと聞いて取り寄せたいと言っているという話が耳に入った。
(この項、典拠、参考記事、問題となる声明などあげずに書きおろしたエッセーである)
[付記]
1.「佐藤龍猪は、柳田姉妹に知恵の言葉に緑茶を入れたのは、失敗だったと漏らしている。この話は私が「日の出る国と共に」を編集している時、柳田姉妹から直接聞いたものです。」(津田政博、2013/1/29 Facebook)
2. 同様の話を聞いたことがある、と私の息子沼野範実も語っている。(高槻市、治郎宅で 2013/1/31).
3.「佐藤瀧猪兄弟の日本茶に関するコメントで言えば、僕も本人から日本で日本茶がだめになったのは自分のせいだった、間違えだった、生きてる限りそれを広めらるだけ広めると言って、初対面の僕にもその話をしてました。」(Steadie Saneyoshi, 2013/02/05 Facebook)
4. Leonard J. Arrington, "An Economic Interpretation of the Word of Wisdom." BYU Studies.
アメリカ社会は、大変むつかしいので、えらそうなことはいえないのですが、教会員の大勢いるユタよりも 会員が5/11000人しかいない私の町のほうが犯罪は少ないし麻薬の問題もほとんどありません。
このような社会システムを社会心理学者などが研究して、各地で講演もしていますが、日本でもむつかしい状況になっているようです。
特に、安息日には参観授業があっても学校に行かせないという親の存在は、平日に学校を休んでディズニーランドへ連れて行くのも大丈夫という親を発生させて、学校関係者の苦慮するところになっています。
真偽のほどは確認していないのですが、実際はどうなんでしょうか?
又、アメリカ発で「緑茶は知恵の言葉で禁止されてないよ!」って事に成るのでしょうか?
コーラを飲みたいとも思いませんが、「コーラはダメ!」って言っっていた指導者が、今になって「コーラはOK」って言うのを見てると。
この人に真理を語る資格はあるのか?って思いますね。
知恵の言葉に関しては、日本の会員はちっとも知恵を使ってないですね。
知恵の言葉自体が戒めなのかどうかという疑問があります
ジョセフ・スミスが生きていたら何と言ったんでしょうね
大管長にそこまで聖徒の自由意志を束縛干渉する権限があるのかどうか…
聖典より預言者が優先されるなら
福音や聖典を学ぶのはなんの意味もないことなんですが
聖霊すら否定することにもなりかねない気がしますがどうなんでしょう
だからといって
コーヒー紅茶を飲みたいわけではないですが
www.nstimes.info/09-2002/feature.htm
案外豚さんの言葉<アメリカ発で「緑茶は知恵の言葉で禁止されてないよ!」って事に成る>可能性があるかもしれません。教会は中国で不利な印象を与えるのを避けるため教会名の「末日、末世」の部分を「後期」と変えたくらいですから。これでまた、豚さんに触発されたNJの直感が当たる?!(私の勘はこれまで時々当たっています。笑)
中国は今終わりの日を強調する宗教を警戒しています。
この記事の本質はタイトルにありますな。
意見を持って良いのではないか。
控えめなタイトルですが本音は「意見を主張しても良いのではないか?」にあると見ましたが。
知恵の言葉という戒めの「知恵」とは「先哲の教え」という意味です。
しかしながらモルモンの先哲は実はアホで普遍的な言葉ではなかった、と私は理解しています。
いえいえ酒とタバコと薬物については当たりでしたが。
知恵の言葉を健康の律法であると定義すると、私はマクロビオティックの方がよほど洗練されていると思います。
彼等は自分の考えで摂取するしないを考えますから。
まあコーラは真っ先に不摂取でしょうけどね。
一方で神殿参入の符牒と定義すると話が複雑になりますが。
さらに言えばボトムアップで戒律が変更されうるとすると、最早際限がなくなるという事でもあります。
どっちにしても茶を飲んで良いか否かで大論争が起こる宗教には肯定的意味で興味は持てません。
基本的には、知恵の言葉は戒律であり、戒めです。
それは、バプテスマを受ける条件や、神殿に入る条件に成っていますから、間違いなく「モルモンの戒律」です。
そして、この戒律の理由として「健康に悪いものは摂取しない」と言われます。
この二つの事は、宗教集団として、特に間違っている事でもなく、おかしな事でも有りません。
おかしな点は、この戒律の取り扱い方です。
まず、戒めであるのに、「知恵の言葉」と言う曖昧な名前をつけて、この戒律が、戒律で無いように装っていることです。
この事は、モルモンのほかの戒律でも見受けられますが、「自由意志による個人の判断」と言う建前と、「実質運用上は、個人の自由な判断を許していない。」と言う、相反する二つの面を同時に持っているところです。
もう一つは、この戒律が「健康上の理由」から来ているのかどうか?と言う点です。
もし健康上の理由からであれば、今回の話題の緑茶のように、科学的に「健康に良い」と認められているものははずさなければいけません。
しかし、過去の預言者が神の預言として、「お茶」を入れてしまったので、はずせなくなってしまっている。
それで、「健康に悪い」と言う理由以外の理由が必要になる。
それで、「従順」と言うのを持ち出す。
つまり、預言者と言う人の存在によって、戒律の理由が理由でなくなる。理由が必要ない状態になってしまうのです。
これが、モルモン教会の体質であり、病める部分です。
預言者と言う存在が有るかぎり、知恵の言葉の様な、理屈に合わないな戒律は、今後も継続し、又、新たに生まれる事でしょう。
わたしはまったく真逆の見解ですね。
基本的に知恵の言葉は戒めとして与えられたものではなく
戒めとしてではなく知恵の言葉として…(D&C89:2)
という意味において戒めではありませんでした。
ja.mormonwiki.com/%E7%9F%A5%E6%81%B5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89
そしてその知恵の言葉が健康上の理由から与えられたことは明らかです。
しかしこれが組織上の戒めとなることによって生ける預言者の教義が背後に絡んできます。
もし他の戒めと同様に知恵の言葉が戒めであるなら
個人の自由意志による判断で守るなどということは有り得ません。
ただ実質運用上個人の判断に委ねる部分があるところに(いわゆるコーラやその他の解釈によるもの)モルモン特有の病が潜んでいるように思えます。
教義と聖約生徒用資料P225
んだそうですが、コーラは飲んじゃいかんとは誰がどんな風にいったことなんでしょう・・・?
旅に出るので、少しでも答えようとしたら、さらに複数のコメント、答え切れないで暫く離れます。来週火曜まで上海に行きます。訪問先(二つの機関)で会ってくれるか、また予約なしのとびこみ。冒険は性分ではないのですが。