昨年12月29日(日)のことであるが、日曜学校(成人クラス)の予備日に大阪北ステーク高槻ワードでは元地域幹部の中村晴兆(はるよし)兄弟から、高槻のキリシタン大名高山右近について聞いた。以下、要旨を記す。
下剋上の世、戦国時代から江戸初期に活躍した武将高山右近は、永禄7年(1564年)に12歳で洗礼を受け、後に領民25,000人の内18,000人が信徒となり(72%)、18の教会を領内に建てたという。彼を偲ぶものとして現在高槻城と芥川城の城跡が残っているが、キリシタンとしての業績はルイス・フロイスの書簡(1576年8月20日付)から知ることができる。
貧窮な兵士や身寄りのない人が死んだ時、として蔑視され粗末な扱いを受けたが、城主である高山親子が率先して棺桶の傍を歩み人々を驚かせた。クリスチャンとして模範を示した顕著な例である。また、貧者を見舞い、衣服を与え、死者を葬るなど慈愛をもって臣民の教化に努めたことが伝えられている。
千の利休の茶の湯はキリスト教の聖餐式からアイデアを得た可能性があることが紹介された。ただ、布教に熱心であった右近は領内の神社仏閣を破壊し、神官僧侶を迫害した面があった。高山右近について研究してきた講師の中村晴兆兄弟は熱弁を振るい、日曜学校の生徒たちは時間がたつのを忘れ、地元で活躍したキリシタンの話に大いに励まされたことであった。
[補足] 参考までに。
高槻市今城塚古代歴史館館長 中西裕樹氏講演
「高山右近と戦国キリシタン 自然災害と人々の信仰」(2014/09/20)より
§当時キリスト教が広まった下地ないし要因
1 戦国時代、東南アジアと交易が行なわれていて、接した人々は海外の文物に馴染んで、新しいものに抵抗が少なかった。その一つにキリスト教があった。
2 戦国時代は万民が争い、田畑が荒れ果てて物資が不足していた。また、当時小氷河期に当たり気候が不安定で、飢饉・飢餓が日本を覆っていた。宗教が必要とされた社会であった。
3 この頃、所質(ところじち)と言って、契約が履行されない時、債務者が所属する共同体の成員の身柄または財産を無作為に選んで,実力行使によって差し押さえることが行われた。人民はそれぞれの土地と結びつきが強く、そのような事が起こると報復が行われ、乱闘が起こる状態であった。
4 戦場は略奪して売るための場となった。それで戦いは止めようという機運が出てきた。農業が廃れ、年貢が減るという側面があったからである。
5 自然災害に対して奇跡(降雨)を求めた。飢饉が三年続き、雨を求める祈祷が行われた。
6 日本では「天道」を信じていて、特定の宗教に縛られていないところがあり、宗教間の垣根が低かった。
7 当時「講」という、僧侶がいなくても庶民が相互扶助を行なう集まりがあったが、これに近い組織コンフラリア(Confraria, 信者の協働組織)がキリスト教にあった。
[補足 2 ] コメントで次の点が指摘された。それは、宣教師やキリシタン大名が人身売買に関与した疑いがあるということである。天正少年使節団がローマ法王のもとに行ったが、その報告書に示唆されており、豊臣秀吉の禁教令もそのような状況を踏まえたものであるという。後に中国でアヘン戦争が起きた時、宣教師が一部関与していたという指摘に通じるもので無視できないと思われる。以下「たまWEB」氏のコメント2件参照。私自身は研究者たちの検証に当たってみたいと思っている。
[補足3]
コメント欄で「たまWEB」氏から厳しい批判と指摘を受けた。それに直接答えるものではないが、一部この記事への補足を加えさせていただく。
キリシタン史研究にはいきおい教会史料に依存する部分が多く、それはキリスト教史観に彩られ「美化された殉教史」が描かれる傾向が避けられない。図書館や書店に並ぶ書籍に批判的な分析はまだ皆無に等しい。
1冊見つけた高瀬弘一郎著、「キリシタンの世紀:ザビエル渡日から鎖国まで」(岩波書店、1993年、2013年)は、布教の財源などキリシタン教会の経済基盤の問題に多くの紙幅を割いている。パードレ(司祭)たちが現実は商業活動をして、その取引関係を布教に利用したり、日本の権力者のために仲介業務を行ったりする者も出始めたことを記している。キリシタン研究に欠かせない書籍の一つであると観た。著者はキリシタン史を専門とする元慶応義塾大学教授。
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徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。
キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。
『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。
日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。
・・・・
秀吉は準管区長コエリヨに対して、「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。従って伴天遠はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ」と命じています。
更に秀吉は、「なぜ伴天連たちは地方から地方を巡回して、人々を熱心に煽動し強制し'て宗徒とするのか。今後そのような布教をすれば、全員を支那に帰還させ、京、大阪、堺の修道院や教会を接収し、あらゆる家財を没収する」と宣告しました。
注目すべきは次の十条で、日本人を南蛮に売り渡す(奴隷売買)ことを禁止。十一条で、牛馬をし食料とするのを許さない、としていることである。
以上の内容からは▽右近が高槻や明石で行った神社仏閣の破壊や領民を改宗させたことを糾弾▽有力武将を改宗させたのはほとんどが右近によってで、右近に棄教をさせることで歯止めがかかると見た▽バテレン船で現実に九州地方の人々が外国に奴隷として売られていること―などが分かる。秀吉の追放令は、ある意味で筋の通った要求だった。
・・・・
現代にたとえれば竹中平蔵などがキリシタン大名として宣教師たちの手先となって働いているのと同じであり、日本の銀行や保険会社などを外資系ファンドなどに売りさばいてしまった。戦国時代に日本の娘を奴隷として売りさばいたのと同じ行為であり、竹中平蔵は高山右近であり、アルメイダのような改宗ユダヤ人が日本乗っ取りを狙っている。
株式日記と経済展望 2006年01月27日
」
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/5a197e856586baf726f6a0e68942b400
「アフリカのコートジボアールは、黒人輸出と象牙の輸出で黄金海岸と言われた。日本は、日本人を奴隷としてがんがん輸出したので、戦国時代のイエズス会士により「白銀海岸」とよばれたそうだ。ローマ法王庁の地図には、有明海の三角湾のところにseaside of silver(白銀海岸)とあるそうだ。当時の日本の有力輸出品は日本人だったのだ。
」
三角 ”白銀海岸” ”黄金海岸”
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E4%B8%89%E8%A7%92+%E2%80%9D%E7%99%BD%E9%8A%80%E6%B5%B7%E5%B2%B8%E2%80%9D%E3%80%80%E3%80%80%E2%80%9D%E9%BB%84%E9%87%91%E6%B5%B7%E5%B2%B8%E2%80%9D&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=sfp_as&x=wrt
といった話は、やっぱ無かったんでしょうかね??
日本の歴史上の人物について熱弁を震える兄弟姉妹はもっといそう。
そのような機会が増えると良いですね。
本家(アメリカ)の指導者も過去の賢人の言葉を良く引用しています。
有名な「いかなる成功も家庭の失敗を償いことは出来ない」も実はマッケイ大管長がベンジャミン・ディズレイリという人の言葉を引用したものだとか。
九州は天草四郎などキリシタンの多かった地ですし、西郷さんも敬天愛人などの言葉からキリスト教徒ではなかったかという説もあります。
新約聖書的な西郷の言葉もあります。
己を尽くして人を咎めず。
我が誠の足らざるを常にたずぬるべし。
我を愛する心を以って人を愛せ。
自己を許すが如く人を許せ。
人を責めるが如く自己を責めよ。
オムナイさんのコメントから西郷隆盛に関心が湧いてきました。
1587年(天正15年)、豊臣秀吉は九州討伐の途上で当時のイエズス会の布教責任者であった宣教師ガスパール・コエリョを呼び、バテレン追放令を発布して、人身売買と宣教師の関わりについて詰問している。
1596年(慶長元年)、長崎に着任したイエズス会司教ペドロ・マルティンスはキリシタンの代表を集めて、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると通達している。
やがて日本が鎖国に踏み切り、日本人の海外渡航並びに入国が禁止され、外国人商人の活動を幕府の監視下で厳密に制限することによって日本人が奴隷として輸出されることはほぼ消滅したとされる。
しかし、明治維新後、海外に移住しようとした日本人が年季奉公人として奴隷同然に売り払われることはあった。後に内閣総理大臣になった高橋是清も、ホームステイ先で騙されて年季奉公の契約書にサインしてしまい、売り飛ばされている。
・・・・
秀吉の平和の下で、日本の人身売買が初めて深刻な外交問題として論じられたことになる。その秀吉の言い分を『九州御動座記』がこう代弁していた。伴天連ばてれん ら・・・・・・ 日本仁にほんじん を数百、男女によらず、黒舟へ買い取り、手足に鉄のくさりを付け、舟底へ追い入れ、地獄の 苛責かしゃく にもすぐれ、・・・・・・見るを見まねに、それを所(九州)の日本仁、何れもその姿を学び、子を売り親を売り妻女を売り候由、つくづく 聞召きこしめ し及ばれ・・・・・・
ポルトガルの日本貿易において、奴隷は東南アジア向けの重要商品だったのです。
・・・・
スペイン ポルトガル の宣教師が奴隷貿易により教会は巨万の富を獲得し、世界に日本子女を奴隷として売りさばいた。このとき口之津に集められた日本奴隷は、神の言葉にそむき反乱したことが天草の乱として伝わっている。
・・・・
一五九八年のイエズス会による奴隷売買者破門令の決議は、こう告発していた。日本人が無数の人を捕虜として日本に連行し、ひどい安値で売り払っている、とくに長崎一帯の多くの日本人は、ポルトガル人に転売し巨利をあげるために、日本各地を廻って人を買い集め、またの戦場にも渡って、自ら人を略奪した、と。
日本の国内で人を買い、外国に転売した奴隷商人やその斡旋人は、戦場で活躍した兵士たちか、長崎の商人たちであった。イエズス会の宣教師が「日本人は計り知れぬほどの人を捕虜にし、彼らを捨て値で売り払った」と書いていたのは、このことであった。
また一五九六年度、長崎発のフロイスの年報も、連行されて長崎に留まっている、多数の男女に布教したが、その数は一三〇〇人以上にのぼった、と記していた。その頃、長崎や平戸は世界有数の奴隷市場として知られていた。
天草の乱と奴隷貿易 2013/11/7(木) 歴史・法律・正義を学ぶ研究会
」
http://blogs.yahoo.co.jp/honzyou45/37493505.html
「戦国の奴隷狩り・九州
戦国の各地の奴隷狩りの実態です。ます九州の島津藩ですが、著者の藤本さんは島津藩の家臣が書いた『北郷忠相日記』『蒲生がもう山本氏日記』『北郷時久日記』などにみられる戦闘の記録を分析して、次のように書いています。
こうした島津軍の戦闘の記録で、いま注目したいのは、「人を捕る」「生捕る」という記事の多いことである。そのうち「敵三人打取り・・・・・・一人生捕る」というように、同じ戦場で「打取り」(戦闘で首を取る)と対になった「生捕り」は、捕虜になった兵士たち(戦争捕虜)のようでもある。
だが「男女・牛馬、数知れず取る」「人を取ること四百人余り」という数多い男女の略奪、それに「童子一人生捕る」「人三人かどい候」という小さな生捕りは、とても戦争捕虜とは思えない。なお「下々の者(が)壱人取る」とか、「足軽七人、したの者三人取る」というのをみると、戦場の人取りの主役もその犠牲者も、下層の雑兵や人夫に集中していた気配がある。
(18ページ)
同じ九州ですが、肥後の小大名であった相良氏の年代記『八代日記』に記録された戦争の様子も分析されています。
「取る」「生取る」など人取りの表記は島津方の日記によく似ており、累計二一四四人にのぼる。しかも生取りの数は戦死者(打取り)よりも明らかに多い。まるで、敵は殺すよりむしろ生かして捕らえよう、としているかのようである。
戦場で人といっしょに奪った牛馬の数も多く、また海へ漁に出た者や山で薪取りをする者までも生け捕っている。戦いの規模もみな小さい。「夜討」とか「伏草」というのは、夜の闇にまぎれた忍びの工作をいい、正規軍の正面きった城攻めというより、雑兵たちの仕掛けた、略奪目当てのゲリラ戦、というふうである。
(20ページ)
戦場における人取りが日常的に行われていたことがうかがえます。
・・・・
ヨーロッパにおいて非キリスト教徒のスラヴ民族が奴隷の供給源になった歴史を書きました。最初は中央ヨーロッパ、その次は黒海沿岸のスラヴ民族です。しかし大航海時代を経てヨーロッパ人が世界に拡散すると、奴隷の供給源も世界に拡散していった。非キリスト教徒に満ち溢れていた世界は、キリスト教布教の対象であると同時に奴隷の供給源となった。その一つが、ヨーロッパからみた東の果て(極東、Far East)の日本だった、というわけです。
ポルトガル国王は「日本人奴隷の輸出が布教の妨げになる」というイエズス会からの訴えに基づいて、1570年3月12日(元亀元年)に日本人奴隷取引の禁止令を出します。また、それ以降もたびたび禁止令が出されます。イエズス会も1596年に、日本人奴隷を輸出したものは破門にすると議決しました。
これらのことは裏を返すと、各種の禁令にもかかわらず奴隷貿易が続いていたことを示しています。そもそもイエズス会自身が、もともと日本から少年少女の奴隷を連れ出すポルトガル商人に公然と輸出許可の署名を与えていたのでした。
No.33 - 日本史と奴隷狩り 2011-07-28 クラバートの樹
」
http://hypertree.blog.so-net.ne.jp/2011-07-28
「歴史発見シリーズ 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(2)
九州戦国時代に、南蛮の奴隷船がやって来た理由とは! 何故、九州にはキリシタン大名が多いのか?! 戦国九州の奴隷取引の実態を追跡する・その1
一説によると、火薬一樽は日本人の娘50人で取引されたという。(注:6)始めて耳にする者にとってはこれはいささか衝撃的な数字であるが、当時のアジア地域の交易市場ではそれが通用していたということに他ならない。
おそらくこの数字は当時の相対的な取引相場の伝承口伝であって、火薬一樽が20人とか30人、需要が急増すれば最大50人でも交換取引されたということになる。
この件についての信頼できるはっきりした記録そのものは伝承以外に原本史料としてどこかに残されていると推測されるが、いまのところその確認を取ることは困難であろう。
ここらには戦後の占領下で欧米史観一色に塗り替えられた複雑な歴史的経緯が絡んでいる。日本人奴隷についての研究書は戦前はあったが、戦後GHQが出版社や図書館からすべて精査回収した焚書文献については、「総目録・GHQに没収された本」(占領史研究会刊)に紹介されている7,119冊の中にそれらは大方含まれている。
たとえば「アジア侵掠秘史」桑原三郎著 清水書房(昭和16年)などがあげられるが、西洋の侵略の歴史記述や奴隷貿易にかかわる文献そのものが失われれば我々に為す術はない。
いわゆる当時の西洋やキリスト教を批判するといった欧米文化を冒涜する書物はこれによって悉く排除された。戦前出版された徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版での記述では、その出典がフランス人パゼー(パジェス)が著した『日本耶蘇教史』から多くが引用されているが、そのパジェスが集めた膨大な資料の中にも当時記録された根本史料そのものがあった可能性はある。(注・7)
同様にそれらはスペインの歴史資料館に記録文書が残されているとか、インドの文献に記録されているとか、あるいはバチカンの文書保管所に収蔵されているとかの未確認情報がいくつかあるがはっきりしない。
」
http://denjiha55.blog.fc2.com/blog-entry-49.html
口之津 ”八切”
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%8F%A3%E4%B9%8B%E6%B4%A5++%E2%80%9D%E5%85%AB%E5%88%87%E2%80%9D&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt
明日、図書館に行きますので関連書籍を探してみたいと思います。